第14章 不良は高専を目指す
直ったはずの扇風機は、首を左へ振るたび、ぎ、と鳴った。
「直ってないじゃん」
蓮が言うと、島袋拳は羽根の回転を見たまま答えた。
「風は出てる」
「音がする」
「人間だって動けば音くらいするだろ」
「人間からこの音がしたら病院行けよ」
拳は扇風機の電源を抜いた。
首の付け根へ指を入れ、さっき締めたばかりのねじを外す。机には、大きさの違うねじが左から順に並んでいた。説明書はない。拳は一度も迷わず、音が出る場所だけを開いた。
教室へ入ってきた知念が足を止めた。
「それ、廃棄に出したやつだよね」
「勝手に持ってきてすみません」
蓮が謝ると、拳が顔を上げた。
「お前が謝るなよ」
「お前が謝らないからだろ」
「壊してない。直してる」
「まだ鳴ってる」
「黙れ」
知念は回る羽根を見た。
「すごいな、島袋。こういうの得意なのか」
「線つないだだけです」
褒められた拳の声は、叱られたときより冷たかった。
机の端には県内模試の答案が重なっていた。
蓮は一番上の数学を引き寄せた。
三十八点。
自分より六点高い。
規則性の問題には、短い式が三行だけ書かれていた。図形には、出題者が用意した補助線より先に、拳自身の線が引かれている。ところが最初の計算問題では、負の符号を落としていた。作図も条件を一つ読み飛ばしている。
「難しい方、解けてるじゃん」
「難しくねえし」
「俺、そこ落とした」
「知らん」
「なのに大問一でミスってる」
「うるせえな」
蓮は残りの答案を見た。
国語十八点。英語十二点。理科二十五点。社会十五点。合計百八点。
英語と社会の後半は、白い。
分からなかったというより、読む前に捨てた空欄だった。
「こいつは難問に強いわけじゃない」
神崎が扇風機の横へしゃがんだ。
「見える問題に強い」
「見える?」
「部品、図形、回路、規則。関係が形になっとるものじゃ。反対に、言葉を貯めておかんと入口にも立てん問題は捨てとる」
「英語とか社会?」
「国語もじゃ。数学も、単純計算をなめて落とす。武器はあるが、柄が抜けかけとる」
「さっきから何ぶつぶつ言ってんの」
拳が蓮を見た。
「いや。数学、こんだけ解けるなら、ちゃんとやればいいのにって」
拳の手が止まった。
「ちゃんとって何」
「毎日勉強するとか。提出物出すとか」
「家帰って、机に座って、決まった時間にやるやつ?」
「まあ」
「できる奴の説明だな、それ」
拳はねじを一本締めた。
電源を差す。扇風機は右へ向き、中央へ戻り、左へ振れた。
ぎ、という音はしなかった。
拳は満足そうな顔をしなかった。
道具を筆箱へ戻し、答案を丸めた。
進路希望票の第一志望には、学校名がなかった。
働く。
二文字だけだった。
「具体的には、どんな仕事を考えてる?」
個別面談用の机で、知念が聞いた。
「何でも」
「島袋君が興味のあることを――」
「金もらえるなら」
拳は背もたれを使わず、椅子の端へ座っていた。いつでも立てる姿勢だった。
蓮は少し離れた自習机にいた。
自分の英単語をするつもりだったが、拳の声が聞こえるたび、鉛筆が止まった。
「工業系の高校は見たことある?」
「遠い」
「バスなら――」
「金かかるでしょ」
知念はすぐに「大丈夫」と言わなかった。
「通学費は、学校によって確認が必要だね」
「高校で三年使うより、働いた方が家に金入るし」
十五歳が自分の収入を家計に入れる話を、夕食の献立みたいに言った。
「高専じゃ」
神崎が蓮の横で言った。
「何?」
「こいつには工業高校だけでなく、高専も見せろ」
「高専って、頭いい奴が行くとこだろ」
「頭がいい、で学校を分けるな。何をどう学ぶ場所かで分けろ」
知念との面談が終わると、拳は希望票を半分に折ってポケットへ入れた。
「島袋」
「何」
「高専って知ってる?」
拳が目を細めた。
「お前、急に進路の先生になったの」
「違うけど」
「じゃあ、俺のこと決めんな」
美咲の声が、同じ場所を刺した。
私の未来を決めないで。
蓮は拳を呼び止めなかった。
翌日、蓮は塾の資料室から南星工業高等専門学校の案内冊子を持ってきた。
南星工業高等専門学校は、国立の五年制学校だ。機械、情報通信、メディア、生物資源の四学科がある。表紙には、安全眼鏡をかけた学生が工作機械を操作する写真が載っていた。
拳の机に置こうとして、蓮は止めた。
「これ、見てもいい?」
「何で俺に聞くの」
「昨日、勝手に決めるなって言ったから」
「素直かよ」
「見るのか、見ないのか」
拳は手を出さなかった。
「置いとけば」
蓮は机の端に冊子を置いた。
拳は英語の課題を開いたまま、表紙だけを横目で見た。
神崎は募集要項を読んでいた。
「推薦は使えんな」
「やっぱ内申?」
「三年間の九教科評定に基準がある。数学と理科にも別の条件がある。こいつの調査書では届かん可能性が高い」
「じゃあ、無理なのか」
「推薦が難しいことと、学校へ行けんことは同じではない」
蓮は冊子の募集ページを開いた。
「島袋。推薦は、今の内申だと厳しいって」
「ほらな」
拳は笑った。
傷ついた生徒が使う笑い方を、蓮は知り始めていた。先に自分で馬鹿にしてしまえば、他人の言葉は少しだけ浅く刺さる。
「学校で真面目にやってない奴は終わり」
「学力試験がある」
「数学だけで?」
「五教科」
拳の笑いが消えた。
「じゃあ、もっと無理」
「まだ点数も――」
「国語十八。英語十二。社会十五。自分の点くらい知ってる」
「数学は三十八ある」
「だから何」
拳は初めて冊子を手に取った。
推薦の条件ではなく、実習室の写真を見た。旋盤、配線盤、コンピューターの並ぶ演習室。
「こういうのだけやる学校?」
「違う。五年で専門をやるけど、数学も英語も一般科目もある。学力試験も五教科。調査書も使う」
神崎の説明を、蓮は自分が理解できた範囲で言い直した。
「何でお前が知ってんの」
「調べた」
「昨日まで知らなかっただろ」
「昨日、知らなかったから、今日調べた」
拳は冊子を閉じなかった。
神崎は、拳の力を確かめる問題を五つ選んだ。
もちろん、拳には神崎が見えない。
蓮が「俺も復習したいから」と誘い、二人で同じ紙を解いた。
一問目は、大小の歯車が回る回数を比例で求める問題だった。
拳は図を二秒見て、式を書いた。
「何でそうなる?」
「見れば分かる」
「説明して」
「小さい方が、その分多く回る」
「その分って?」
「歯の数の逆」
「だから式は?」
「うるせえ先生だな」
拳は面倒そうに言いながら、比を書いた。
二問目は電流回路。
拳は正解したが、電圧と電流を表す記号の説明が曖昧だった。
三問目は英語の短い機器説明文だった。
switch、turn、before、use。中学一年で覚える単語が拾えず、何をする文章か分からない。
四問目の国語では、説明文を一度読んで答えを書いた。本文には一本も線がない。
「根拠どこ?」
「この辺」
「この辺じゃ丸つかないだろ」
「意味は合ってる」
「答えはずれてる」
「問題が悪い」
「出た。前の俺と同じ」
「一緒にすんな」
五問目の社会は、工業地域と貿易に関する基礎だった。
拳は自動車工場の配置について現実的な推測をしたが、港湾名も工業地帯名も覚えていなかった。
神崎が腕を組む。
「具体物から関係を見つける力はある。じゃが、言葉へ直せん。知識も取り出せん。頭の中に機械はあるが、説明書がない」
「それ、どうする?」
「具体物、図、言葉の順でつなぐ。最後は何も見ず、自分の言葉で説明させる」
蓮は歯車の問題を指した。
「これ、俺に説明して」
「さっきした」
「俺が一人で解けるようになる説明」
「金取るぞ」
「ケチ」
拳は紙の余白に歯車を描いた。
歯の数を簡略化し、矢印をつけ、どちらが何回転するかを書いた。
説明は短かった。
だが、蓮は解き方を再現できた。
「やっぱ、お前、数学できるじゃん」
拳の鉛筆が止まった。
「それ、言うな」
「何で」
「できるって言ったあと、必ず来るから」
「何が」
「じゃあ、何で他はやらない。何で提出物は出さない。何で学校来ない」
拳は鉛筆を置いた。
「できるなら、全部できるはずって顔される。だから、できない方が楽」
蓮は「やればできる」と言いかけた。
その言葉を飲み込んだ。
やるための場所も、時間も、理由もない人間へ投げれば、「やらないお前が悪い」という意味になる。
「じゃあ、できるとは言わない」
「それもむかつく」
「面倒くせえな」
「お前に言われたくない」
拳は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
閉館時刻になっても、拳は帰ろうとしなかった。
知念が声をかけると、「バス待ってる」と答えた。だが、拳の家へ向かうバスは十分前に出ていた。
蓮は近くのコンビニへ行った。
拳も、何も言わずついてきた。
「何飲む?」
「自分で買う」
「奢るって言ってない」
「顔が言ってる」
「神崎と同じこと言うなよ」
「誰、それ」
「何でもない」
拳は小銭を数え、いちばん安い水を買った。
蓮はスポーツドリンクを取った。レジを出たところで、拳のスマートフォンが鳴った。
画面を見た瞬間、拳の肩が上がった。
通話を切る。
すぐにもう一度鳴る。
今度は電源を落とした。
「大丈夫か」
「大丈夫」
蓮が最後まで聞く前に、拳は答えた。
ペットボトルの蓋を開ける手が強く、袖が少し上がった。手首の内側に古い痕が見えた。
蓮は目をそらした。
聞かなければならないことと、自分が聞いてよいことは、同じではない。
拳の鞄から、高専の冊子がのぞいていた。
「持って帰るんだ」
「紙が厚いから。机の下に敷ける」
「便利だな」
「寮って書いてある」
拳は冊子を出した。
見開きの端に、小さく学生寮の案内が載っていた。
「ここ行ったら、家に帰らなくていいの」
蓮は答えを探した。
寮へ入れる条件も、費用も、生活の規則も知らない。
以前なら、行ける、と言ったかもしれない。
希望を与えるつもりで、知らない未来を決めたかもしれない。
「分からない」
拳の顔が閉じかけた。
「だから、調べる。寮に入れるか、金はいくらか、休みはどうするか。俺は知らない」
「知らないこと多いな、お前」
「偏差値四十五だからな」
「自慢すんな」
「十上がったんだぞ」
「元が低すぎる」
拳は冊子を鞄へ戻した。
「行くとは言ってないから」
「分かってる」
「見るだけ」
「それも、まだ決めてないだろ」
「うるせえ」
拳は水を一口飲んだ。
家とは反対方向の暗い道路を見たままだった。
翌日、知念は寮と学校見学の資料を用意していた。
蓮は拳の家のことを話さなかった。
ただ、閉館後も帰らなかったことと、家からの連絡に強く反応していたことを伝えた。知念は顔色を変えず、「教えてくれてありがとう」とだけ言った。
子ども同士の秘密にしておく方が友情らしい気もした。
けれど、守れない約束をする方が、たぶん無責任だった。
三人で資料を開いた。
「高専は普通高校とはかなり違う」
知念が言った。
「五年間の一貫教育で、早い段階から専門科目や実験、実習が入る。卒業後は就職だけでなく、専攻科や大学編入もある。ただ、機械が好きなら誰にでも合うとは限らない」
「何で」
「数学も英語も続く。レポートも多い。専門が合わなかったとき、普通高校より進路変更が難しく感じる場合もある」
拳は実習の写真を見ていた。
「推薦は?」
「今の評定だと、出願基準を満たすのは難しい」
知念は曖昧に励まさなかった。
「学力選抜は受けられる。ただし五教科で、調査書も使われる。数学だけで決まる試験じゃない」
「俺、英語十二点」
「知ってる」
「半年でどうにかなる?」
知念は即答しなかった。
「今の答案、残り期間、必要な点数を見ないと分からない。簡単だとは言えない。でも、見学して、自分が本当に行きたいと思うなら、間に合う方法があるか一緒に調べられる」
神崎が、蓮の横で黙っている。
以前なら、残り日数と必要得点をすぐ計算したはずだった。
蓮は拳へ聞いた。
「機械を直すの、好きなのか」
「壊れたままなのが気になるだけ」
「仕事にしたい?」
「知らない」
「見に行く?」
拳は資料の申込用紙を見た。
氏名を書く欄へ指を置く。工具を持つときより、指の動きが遅かった。
「行くって決めたんじゃない」
「うん」
「見に行くだけ」
拳は申込用紙を取った。
その日から、拳の机には五教科の学習表が置かれた。
数学と理科の欄だけが広く、英語と社会は端へ追いやられている。
「偏りすぎだろ」
蓮が言った。
「得意を伸ばせって言ったの、お前だろ」
「英語十二点は放置できない」
「数学で取る」
「数学が満点でも、他で試合終わるぞ」
「全部やるなら、普通の受験と同じじゃん」
「当たり前じゃ」
神崎が言った。
「特別な進路ほど、基礎を免除してはくれん」
蓮はそのまま伝えなかった。
拳の表を見て、自分の言葉を探した。
「数学で勝つために、他で試合を終わらせない」
「バスケにすれば分かると思ってる?」
「少し」
「分かるけど、むかつく」
拳は英単語帳を開いた。
三分で閉じようとした。
蓮はストップウォッチを押す。
「二十分」
「長い」
「じゃあ十分。終わったら何も見ずに五個」
「五個だけ?」
「最初はな」
拳は単語帳へ目を戻した。
直した扇風機が左を向き、また、ぎ、と小さく鳴った。
拳は片手で首を押さえ、もう片方の手で英単語を指した。
直すべきものが二つになっても、拳は今度は席を立たなかった。
扇風機が右へ戻ったとき、二列後ろの問題集の端が風で持ち上がった。薄い紙が半分だけのぞく。比嘉凛が指で押し戻したので、蓮には保育園の名前までは読めなかった。
神崎の赤ペン補講
第14回 得意教科だけで逃げ切れるか
一 得意教科は、進路を考える手がかりになる
点数だけでなく、「どのような問題なら力を出せるか」を見てください。
図や構造を捉えることが得意な人。
文章から関係を読み取ることが得意な人。
知識を分類して覚えることが得意な人。
実際に手を動かすことで理解する人。
同じ点数でも、力の現れ方は違います。得意は、その人に向いている学び方や進路を考える材料になります。
二 推薦と学力選抜を混同しない
推薦選抜には、評定、活動、出席、志望理由などの条件が設けられる場合があります。
学力検査による選抜でも、当日の試験だけでなく調査書を用いる学校があります。「推薦が無理なら内申は一切関係ない」「当日点だけ取ればよい」と決めつけず、必ず最新の募集要項を確認してください。
学校や年度によって条件は変わります。
三 武器と致命傷を分ける
武器とは、合格点を押し上げられる得意分野です。
致命傷とは、基準未達や大失点によって合格を止める弱点です。
全教科を同じ点数へそろえる必要はありません。しかし、得意教科だけを伸ばしても、苦手教科が合格を止めることがあります。
得意をさらに伸ばしながら、苦手を「落とさない水準」まで上げます。
四 高専という選択
高等専門学校は、一般的に五年間の一貫教育を行い、早い段階から専門科目、実験、実習を学びます。卒業後には就職、専攻科への進学、大学への編入など複数の進路があります。
普通高校より上、下という関係ではありません。学ぶ内容と進路の仕組みが違います。
偏差値だけで判断せず、次を確認してください。
・何を専門的に学ぶか
・一般科目を含む授業内容
・実験、実習、レポート
・通学または寮生活
・卒業後の進路
・興味が変わった場合の選択肢
三分課題
志望校の最新募集要項を開き、次の五つを書き出してください。
一、出願資格
二、選抜方法
三、調査書の扱い
四、試験教科
五、入学後に学ぶ内容
保護者の方へ
子どもの得意を褒めた直後に、「それなのに、なぜ他はできない」と続けると、褒め言葉が責め言葉へ変わります。
得意は、苦手を責める材料ではありません。進路と学び方を考える手がかりです。苦手は人格の問題にせず、「どの単元で」「何が不足し」「どこまで上げる必要があるか」へ分けてください。
神崎の一言
「武器が一本あるなら磨け。じゃが、裸足のまま戦場へ出るな」




