第15章 帰れない生徒
比嘉凛の問題集から、保育園の連絡紙が落ちた。
知念が拾うより早く、凛が床へ手を伸ばした。
「あ、それ、妹の」
笑いながら二つに折り、鞄の底へ押し込む。
何でもない紙にしては、指の動きが速すぎた。
机の上には、英語の問題集が開かれていた。
夏休みの課題は四十ページ。その半分以上が白い。最初の数ページだけは丁寧に解いてあり、途中から、日付さえ書かれていない。
「比嘉さん、できているところまででいいから、今日出して」
知念は叱らなかった。
「家に忘れましたって言うつもりだったのに」
「今、目の前にあるから難しいかな」
「先生、細かい」
凛は笑った。
その笑い方を、蓮は知っていた。
傷つく前に、自分から軽くする。
百点の答案を返された頃、自分もよく使っていた。
凛は問題集を閉じた。
表紙の間から、別の紙がのぞいている。献立表、集金袋、子どもの着替えについての連絡。勉強道具というより、家族の書類をなくさないための箱になっていた。
「学習習慣がない」
神崎が言った。
Dクラスの後ろで、腕を組んでいる。
「最初はやっとる。理解できんわけでもない。続ける仕組みがないんじゃ」
「それなら、短くすればいいだろ」
「まずは十五分。時間と場所を固定しろ」
拳には十分から始めた。
凛なら十五分でもいけるかもしれない。英語二十点。中一、中二単語の穴が大きい。毎日五語ずつでも、今よりは積み上がる。
蓮は、自分が役に立てる気がした。
「帰ったら、いつ時間ある?」
授業後、蓮は凛へ聞いた。
「何、急に」
「英語。単語覚えるなら、一気にやるより分けた方がいいから」
「先生みたい」
「違う。俺もやってる」
蓮は自分の学習記録を見せた。
夕食後二十時。自室。英単語二十個。翌日、三日後、一週間後に確認。
「これ、全部やってるの?」
「最近は。抜ける日もあるけど」
「偉いねえ」
「その言い方、馬鹿にしてるだろ」
「してない。別世界だなって」
「十五分でいい。帰って、飯の前に英単語五個。スマホは別の部屋に置く。終わったら好きにしていい」
「うん。分かった」
凛は素直にうなずいた。
蓮は、うまくいくと思った。
翌日、凛の記録表は空白だった。
「昨日、できなかった?」
「忘れた」
「じゃあ今日は五分でいい。五語見るだけ」
「うん」
その翌日も、空白だった。
「五分も無理?」
「無理」
「どこかにはあるだろ。寝る前とか」
凛は筆箱の中を整えていた。
鉛筆三本を同じ向きにそろえ、消しゴムのかすを指で払う。
「その五分、誰が妹を見てくれるの」
声は静かだった。
蓮は、すぐに意味が分からなかった。
「妹が寝た後でいいだろ」
「寝かせるの、私」
「その後」
「洗濯」
「朝でも」
「朝ご飯と保育園の準備」
「じゃあ、飯の前」
「作るの、私」
一つ答えるたび、蓮の提案が消えた。
「スマホも別室に置けない。お母さんから連絡来るし、妹が泣いたら動画見せるから」
「親は?」
聞いた瞬間、凛の顔から笑いが消えた。
「働いてる」
「毎日?」
「働いてるって言ってるでしょ」
凛は問題集を鞄へ入れた。
「正しい勉強法なんでしょ、それ」
「いや、でも」
「正しいなら、できない私が悪いね」
「そういう意味じゃない」
「同じだよ」
凛は教室を出た。
机には、蓮が渡した記録表だけが残っていた。
十五分の枠が、三つ並んでいる。
たった十五分。
その言葉が、急にひどくぜいたくに見えた。
翌日、凛は授業が終わる十五分前に時計を見た。
知念へ何かを言い、鞄を持って出ていく。
机の横に、保育園の連絡紙を落としていた。
蓮は紙を拾い、外へ出た。
塾から二つ先の交差点で追いついた。
「比嘉」
凛が振り返る。
警戒する顔を見て、蓮は自分が後をつけたように見えることに気づいた。
「これ。落とした」
連絡紙を差し出した。
「ああ。ありがと」
「妹、迎え?」
「昨日、聞いたでしょ」
「うん」
凛は歩き出した。
蓮も同じ方向へ進む。家へ帰るバス停とは反対だった。
「ついて来ないで」
「交差点まで」
「反対方向じゃん」
「ちょっと散歩」
「気持ち悪い」
「それは悪かった」
蓮が止まると、凛も少し先で止まった。
「来ても、何も面白くないよ」
「面白いと思ってない」
「じゃあ、何」
「分からない」
「最近、そればっかりだね」
凛は小さく笑った。
今度の笑いは、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
保育園の前で、蓮は門の外に立った。
凛は先生へ挨拶し、連絡帳を受け取り、妹の水筒と着替え袋を確認した。妹は凛を見ると走ってきた。凛の腰へ抱きつき、今日あったことを一度に話し始める。
「靴、履いてから」
「今日ね、粘土でね」
「分かったから、右と左」
「お母さん、今日帰る?」
「たぶん」
凛は答えながら、妹の帽子のあごひもを直した。
たぶん。
凛自身も、答えを知らない声だった。
三人で近くのコンビニへ入った。
凛は小さな籠へ、食パン、卵、牛乳、安いレトルト食品を入れた。値段を見て、頭の中で足している。妹が菓子を一つ持ってくると、凛は籠の中を見直した。
「一個だけね」
「これ」
「百円まで」
妹が別の菓子を探しに行く。
凛は自分用に手に取ったおにぎりを棚へ戻した。
「それ、買わないの」
蓮が聞いた。
「家に何かある」
「ない顔してる」
「顔で冷蔵庫の中が分かるの?」
「俺が――」
払おうか、と言いかけた。
凛は財布を閉じた。
「一日だけ優しくされても、明日から困る」
蓮は口を閉じた。
英雄なら、ここで籠ごと払うのかもしれない。
けれど蓮の財布には、母からもらった一週間分の昼食代しかない。その金で今日を埋めても、明日の空白はもっとはっきりする。
「ごめん」
「何で謝るの」
「分からない」
「本当に、そればっか」
妹が菓子を持って戻った。
凛は笑って受け取り、レジへ向かった。
凛は、何もできない生徒ではなかった。
幼い妹を迎え、先生と話し、持ち物を確認し、予算内で夕食を選び、道路側を自分が歩いた。
ただ、その能力は通知表のどこにも書かれない。
「親が悪い」
帰り道で、蓮は言った。
「まだ何も分かっとらん」
神崎が横を歩いている。
「見ただろ。中三が全部やってるんだぞ」
「見た。じゃが、お前が見たのは一時間じゃ」
「一時間で十分だろ」
「怒る相手を決めるには便利じゃな」
「冷たすぎるだろ」
「お前は誰かを悪者にすれば、助ける側へ立てる」
蓮は足を止めた。
「そんなつもりじゃない」
「美咲のときも、そう思っとった」
「一緒にするな」
「同じにはしとらん。お前の癖を言っとる」
神崎はサングラスを外さなかった。
声だけが少し低くなった。
「助ける側は、自分が間に合った物語を欲しがる。自分が正しく怒り、自分が手を差し出し、自分のおかげで相手が救われる話じゃ」
「じゃあ、何もしないのかよ」
「逆じゃ。子ども一人で抱えるな。お前が秘密を守ったつもりで黙れば、危険まで隠すことになる。かといって、知ったことを全部ばらせば、本人は二度と口を開かん」
「どうすればいい」
「見た事実だけを、責任を持てる大人へ伝えろ。判断までお前が奪うな」
蓮は拳の家からの着信を思い出した。
知念へ伝えたときと同じだった。
塾へ戻り、知念へ話した。
凛が妹を迎えに行ったこと。
食事を選び、家事をしていると言ったこと。
親の帰宅が分からないこと。
勉強に使える五分さえないと言ったこと。
「育児放棄だ」とは言わなかった。
自分には、そこまで決める権利も情報もなかった。
知念は途中で遮らず聞いた。
「教えてくれてありがとう」
「俺、余計なことした?」
「それはこれから確認する。ただ、安全に関わる可能性があることを、中学生だけで抱える必要はない」
「比嘉に、俺が言ったって」
「本人に隠れて全部進めるつもりはないよ。でも、何を誰に話すかは、僕たちが責任を持って考える。ここから先は、大人の仕事だ」
その言葉に、蓮は安心した。
同時に、少しだけ寂しかった。
自分の出番が終わった気がしたからだ。
その寂しさこそ、神崎が言った「助ける側の都合」なのかもしれなかった。
知念と凛が相談室へ入った。
蓮は廊下の椅子で待った。
待つ必要はないのに、帰れなかった。
扉の向こうの声は、ところどころしか聞こえない。
「今夜は――」
「大丈夫」
「食事は」
「あります」
「困ったとき、連絡できる大人は」
「……いません」
長い沈黙。
「妹と離される?」
凛の声だけが、はっきり聞こえた。
蓮は膝の上で拳を握った。
知念は、すぐに「離されない」と約束しなかった。
「勝手には決めない。比嘉さんの話を聞く。ただ、安全に関わることは、必要な大人と一緒に考えないといけない」
「お母さん、悪い人じゃない」
「うん」
「仕事してるし、帰ってくる日もある」
「うん」
「私ができるから、やってるだけ」
「できることと、あなたが全部やらなくていいことは、両方あると思う」
また沈黙した。
蓮は立ち上がった。
これ以上聞くべきではなかった。
神崎が廊下の端にいた。
「帰るぞ」
「でも」
「待つことまで、お前の役にするな」
蓮は塾を出た。
凛の家が、次の日から急に明るくなったわけではない。
親が毎晩帰るようになったわけでも、家事がなくなったわけでもない。
知念と学校側の大人が動き始めた。
誰が何を確認し、どこへつないだのか、蓮には知らされなかった。それでよかった。
学習については、凛自身が使える時間を三つ選んだ。
火曜日の昼休み後半。
木曜日、妹と一緒にいられる見守りのある場所。
土曜日、塾へ来られた日の授業前。
一回目は、英単語を五語。
凛は何も見ず、三語書けた。
二回目は、数学を三問。
二問正解した。
三回目は、理科の一問一答。
妹が向かいに座り、凛のカードを読んだ。
「植物が光を使って、でんぷんなどを作る働きは何でしょう」
「読み方、上手いな」
蓮が言うと、妹が胸を張った。
「ひらがな、読めるよ」
「答えは?」
「お姉ちゃんが言うの」
凛は笑った。
「光合成」
「正解!」
妹が赤鉛筆で丸をつける。
丸は大きく、文字にかかっていた。
凛の進捗表には、勉強時間ではなく、開始できた場所が三つ書かれた。
学校。
見守りの場所。
塾。
どれも自宅ではなかった。
それでも、三回とも凛が自分で選び、自分で始めた。
週末、凛は英語の問題集を一冊、期限内に提出した。
半分以上の白紙が、全部埋まったわけではない。
教師は大げさに褒めず、表紙の名前を確認した。
「受け取りました」
「それだけ?」
凛が聞く。
「返却するとき、直すところを書きます」
「つまんない」
「花丸がよかった?」
「いらない」
凛は口元を少し上げた。
問題集には、もう保育園の連絡紙が挟まっていなかった。
家の書類は、知念から渡された薄いファイルへ分けてある。
「十五分、できたな」
蓮が言いかけ、止めた。
「十五分、作ってもらえたんだな」
凛が蓮を見る。
「違う」
「え」
「私も選んだ」
蓮はうなずいた。
「そうだな」
教室の反対側で、紙が床へ落ちた。
金城奏太が拾う前に、母親が手を伸ばした。
色分けされた予定表だった。起床、朝食、登校、帰宅、英語、休憩、数学、入浴、就寝。十分単位で、一日のすべてが埋められている。
凛はその紙を見た。
「時間がいっぱいあるのに」
小さく言った。
「自分の時間、一個もないね」
比嘉凛に返されたのは十五分だった。
短いのではない。
彼女の一日で、初めて彼女の名前が書かれた十五分だった。
神崎の赤ペン補講
第15回 時間管理の前に、その時間は誰のものか
一 実行意図が働くための前提
「いつ・どこで・何をするか」を具体的に決める実行意図は、勉強を始める助けになります。
ただし、本人が使える時間、安全な場所、最低限の睡眠、教材があることが前提です。前提がない状態で計画だけを細かくしても、実行できない本人を責める結果になりかねません。
二 勉強以外にも、頭は使われている
家事、きょうだいの世話、家族への心配、金銭問題、安全への警戒。こうした負担が続けば、勉強へ使える注意や判断の余力は減ります。
机へ向かっていない時間を、すべて休んでいる時間だと考えないでください。
三 課題を小さくするだけでは足りない
十五分が無理なら五分。
十問が無理なら一問。
課題を小さくすることは有効です。しかし、本人に五分もなければ始められません。
量を減らすことと、学べる環境を整えることを一緒に考えます。
四 子どもだけで安全問題を抱えない
家庭での生活や安全に不安があるとき、友達一人が秘密を抱え続ける必要はありません。信頼できる教員、スクールカウンセラー、地域の相談機関など、責任を持てる大人へつないでください。
緊急時の連絡先や制度は地域と時点によって異なるため、最新の公的情報を確認してください。
三分課題
今日の予定を三つに分けます。
・自分で使える時間
・家族や他人のために必要な時間
・自分では変更できない時間
自分で使える時間が見つからない場合は、努力不足と決めつけず、相談できる大人を一人書いてください。
保護者の方へ
家事やきょうだいの世話を経験として任せることと、保護者の役割を恒常的に子どもへ負わせることは違います。
勉強時間だけでなく、睡眠、安心、休息、本人が自由に使える時間が守られているか確認してください。
神崎の一言
「五分を作れと言う前に、その五分を誰が奪っとるか見ろ」




