第16章 親がいないと勉強できない
金城奏太の一日は、床に落ちても予定どおりだった。
母親が拾い上げた紙には、朝六時四十分の起床から、夜十時三十分の消灯までが十分単位で書かれていた。
六時五十分、英単語。
七時十分、朝食。
十六時二十分、帰宅。
十六時三十分、学校課題。
十七時十分、休憩。
十七時二十分、数学ワーク十二ページから十五ページ。
丸付け、やり直し、夕食、入浴。
休憩にまで、開始時刻と終了時刻がある。
「時間がいっぱいあるのに、自分の時間、一個もないね」
凛が言った。
奏太は予定表を母親から受け取り、折れた角を指で伸ばした。
「別に。楽だから」
「楽?」
「次に何するか考えなくていい」
母親は知念の机へ向かった。
「昨日の英語確認テストは満点でしたか」
「はい。単語は全問正解です」
「数学は予定範囲まで終わっています。今夜、間違いだけ二周目をさせます」
「奏太君本人とも――」
「本人も分かっています。ね?」
奏太はうなずいた。
母親と知念の間で、奏太の勉強が完成していた。
本人は、署名欄だけを埋めるように座っている。
「羨ましいけどな」
蓮が言うと、神崎が鼻を鳴らした。
「あれは計画ではない。操作手順書じゃ」
「でも、あいつ成績いいだろ」
「操作どおり動く機械ならな」
奏太のファイルは、教科ごとに色が決まっていた。
英語は青。数学は赤。国語は黄色。理科は緑。社会は白。
消し跡のないノート、期限前にそろう提出物、満点の確認テスト。
学校の定期テストは、五百点満点で四百五十点前後。
内申も高い。
蓮の百点とは、住む階が違った。
けれど県内模試の個票には、百七十五点、偏差値五十三とあった。
悪くはない。それでも、定期テストの印象ほど高くない。
答案を見ると、奇妙な止まり方をしていた。
数学では、最初に選んだ難問へ十五分使い、後半の解ける問題を空欄にした。
国語の記述は、本文中から模範解答に近そうな一文を探し続け、時間切れ。
理科では、習った例題と図の向きが違うだけで手が止まっている。
「正解を出す力はある」
神崎が答案をめくった。
「正解がどこにあるか、誰かが示した問題に限る」
「初見に弱いってこと?」
「それだけではない。途中で計画を変えられん。自分が何を分かっていないかも、点を取るために何を捨てるかも決められん」
答案の端に、予想点を書く欄がある。
奏太だけ、空白だった。
三日後、奏太の母親が県外の親族に付き添うことになった。
「三日分、作ってきました」
母親は知念へ予定表を見せた。
普段より紙が大きい。朝、学校、塾、帰宅後。教材名とページ数が色分けされ、食事は父親が用意することまで書かれている。
「電話でも確認しますので」
奏太は横でうなずいた。
初日。
帰宅が予定より二十分遅れた。
十六時三十分に始めるはずの学校課題は、十六時五十分になった。
奏太は机へ座ったまま、予定表を見ていた。
学校課題を後ろへずらせば、数学が遅れる。
数学を短くすれば、母に決められた範囲が終わらない。
休憩を消せば、英語と夕食の間が詰まる。
どれか一つを選べば、残りを自分が壊すことになる。
奏太は、十七時まで何も始めなかった。
二日目。
数学の一問で止まった。
普段なら写真を母へ送り、解説のどこを読むか指示をもらう。電話をかけようとして、付き添い中だと思い出した。
解説を読む。
例題を探す。
別の問題へ移る。
どれを選ぶのが正しいか分からない。
一問の前で四十分が過ぎた。
三日目。
奏太は予定時刻に机へ座った。
教材を五冊並べた。
どれにも手を伸ばさなかった。
スマートフォンで短い動画を一本見た。
次の一本が始まった。予定表から遅れた時点で、その日の正解はもう失われていた。
母親から電話が来た。
「予定どおり進んでる?」
「うん」
奏太は答えた。
「数学、十五ページまで終わった?」
「終わった」
机の上で、十二ページが開いていた。
翌日の塾で、数学の確認テストは五十点中二十八点だった。
奏太は答案をファイルの一番奥へ入れた。
赤い仕切りの後ろ、母親が普段見ない場所だった。
「今日は何やる?」
蓮が聞いた。
「予定表に書いてある」
「英語?」
「うん」
「でも数学、落ちたんだろ。間違い直し先にした方がよくない?」
「今日は英語」
「順番変えればいいじゃん」
「勝手に変えたら、あとがずれる」
「ずれたら直せばいい」
奏太は蓮を見た。
本当に意味が分からない顔だった。
「どうやって?」
「数学を先にして、英語を後ろに――」
「何分?」
「二十分くらい」
「英語は何分減らす?」
「終わらなかったら明日」
「明日は社会がある」
「じゃあ社会を――」
「社会を減らして点が下がったら?」
蓮は答えられなかった。
「数学を先にやらせろ」
神崎が言った。
「誤答三問を二十五分。その後、英単語二十語。国語は明日へ回す」
「それなら――」
蓮は口を止めた。
美咲と決裂するまで、自分も毎日聞いていた。
今日は何をやる。
何分やる。
どれを捨てる。
神崎がいなくなったら、自分も奏太と同じように止まるのではないか。
「何じゃ」
「選ばせないと、選べるようにならない」
「今さら気づいたか」
「偉そうに言うな。あんたが全部決めてたんだろ」
「お前が聞いた」
「答えすぎたんだよ」
奏太が眉を寄せた。
「誰と話してるの」
「自分」
「怖いんだけど」
「今日は、自分で決めてみたら」
「何を?」
「全部」
奏太の前には五教科の教材があった。
視線が右から左へ動き、また戻った。
一分。
二分。
何も選ばない。
「好きなのからでいいだろ」
「好きなの、分からない」
「苦手なのは?」
「お母さんが決める」
「お母さんじゃなくて、お前は」
奏太の呼吸が浅くなった。
「好きにしろ、も命令じゃぞ」
神崎が言った。
蓮は舌打ちした。
正解を与えないつもりで、広すぎる空白を押しつけていた。
「三つにしたら」
凛が隣の机から言った。
「私、時間選ぶとき三つだった」
蓮は教材を三冊だけ残した。
「数学の間違い三問。英単語二十個。国語の記述一題。どれからやる」
奏太は十分近く迷った。
予定表の英語を見て、確認テストの数学を見た。
「数学」
「理由は?」
「点が落ちたから」
短い答えだった。
奏太が自分で選んだ、最初の順番だった。
母親が戻ると、知念は面談を申し込んだ。
「管理をやめてくださいってことですか」
母親は予定表を膝に置いた。
声を荒らげてはいない。だから反論が一つずつ固かった。
「私が管理したから、ここまで上がったんです。小学生の頃は宿題も忘れていました。提出物だって、私が確認するようになってから全部出せるようになった」
「その成果はあります」
「本人も嫌だと言っていません」
奏太は母親の横でうつむいていた。
「十五歳に全部任せて失敗したら、誰が責任を取るんですか。塾は取ってくれるんですか」
知念は「本人の自由が大切です」とだけ返さなかった。
「全部やめる話ではありません。今は、お母さんの管理がなくなったとき、奏太君が止まってしまうことが問題です」
「三日くらいで判断しないでください」
「確認テストが下がったことも含めて話しています」
奏太の肩が動いた。
母親が振り返る。
「下がったの?」
「二十八点」
「どうして言わなかったの」
「……予定どおりじゃなかったから」
「なら、電話すればよかったでしょう」
「今は奏太君に聞いています」
知念の声は静かだった。
母親の口が止まる。
「奏太君。何が困った?」
「順番が、分からなかった」
「予定表に書いてあったでしょう」
「遅れたから」
「二十分なら、休憩を短くすれば――」
「お母さん」
奏太が顔を上げた。
「今、先生が俺に聞いてる」
それだけ言って、また下を向いた。
知念は三週間の方法を提案した。
一週目。
母親が三つの課題を提示し、奏太が順番を決める。
二週目。
母親は学習時間だけを決め、教材は奏太が選ぶ。
三週目。
奏太が計画を作り、母親は夜に確認する。
「実験みたいに子どもを扱わないでください」
「今までの方法も、一つの方法です。結果も出ています。ただ、次の段階が必要です」
「失敗したら?」
「小さく失敗して、翌日直します」
「入試では直せません」
「だから、今やります」
母親は納得した顔をしなかった。
それでも、三週間だけ試すことには同意した。
最初の日、奏太は英語を一番に選んだ。
得意で、予定どおり終わるからだ。
次に国語。数学は最後。
英語が予定より十分長引いた。
休憩も五分延びた。
数学へ入ったときには、残り十五分しかなかった。
三問のうち、一問しか終わらなかった。
母親が横から予定表を取ろうとした。
指が紙へ触れ、止まった。
「明日、先生に見せるんでしょう」
「うん」
「じゃあ、自分で書きなさい」
奏太は振り返り欄へ書いた。
好きな教科を先にした。
数学に必要な時間を短く考えた。
休憩を五分延ばした。
「一度も転ばんよう抱えた子は、走り方を覚えん」
翌日、神崎が言った。
「でも、入試で転んだら終わるだろ」
「だから今、転ばせる」
奏太は次の日の順番を変えた。
数学二十五分。英語二十分。国語十五分。
全部は終わらなかった。
それでも、なぜ数学を最初にしたか、自分の言葉で説明できた。
一週間後、奏太の母親は新しい予定表を持ってきた。
以前より空白が増えている。
課題の横に、奏太が順番を書く枠もあった。
「変わったじゃん」
蓮が言うと、凛は紙をじっと見た。
「ここ」
選択欄の隅に、薄い鉛筆の数字がある。
一、二、三。
母親の推奨順だった。
奏太はその数字を、上からなぞっていた。
「言った方がいいんじゃないか」
蓮が立ち上がろうとすると、神崎が止めた。
「変わるのは子どもだけではない」
「でも、また同じだろ」
「親も、今まで自分を支えた方法を手放すんじゃ。成功した方法ほど捨てにくい」
母親は奏太のために管理してきた。
管理すれば実際に点が上がった。
だから手を離すことは、息子を信じるという美しい言葉だけでは済まない。自分が正しかったという証拠を、一部手放すことでもある。
塾の入口で、上原海斗の両親が学校案内を抱えて立っていた。
「私たち、高校のことがよく分からなくて」
海斗の母が言った。
「本人と一緒に、教えてもらえますか」
奏太の予定表には、自分で選ぶための空欄ができた。
その空欄を怖がっていたのは、奏太だけではなかった。
神崎の赤ペン補講
第16回 親が手を離すにも、順番がある
一 自己調整学習とは
自己調整学習は、自分で目標を決め、計画し、実行し、結果を振り返り、次の方法を修正する力です。
学力が高くても、この経験がなければ、範囲の決まっていない試験や予定外の出来事で止まることがあります。
二 いきなり「好きにしなさい」と言わない
細かく管理されてきた子どもへ、突然すべてを任せても、自由ではなく放置と感じる場合があります。
最初は二~三択。
次に、課題の優先順位。
最後に、本人が計画を作る。
選ぶ範囲を少しずつ広げます。
三 フェイディング
初めは詳しい支援を与え、できるようになるにつれてヒントや介入を減らす方法です。
勉強では、解説付き例題、穴埋め問題、自力問題へ進む方法があります。同じように、学習計画も、親が全部作る段階から、本人が作って親が確認する段階へ移せます。
四 計画錯誤
人は、課題に必要な時間を実際より短く見積もりがちです。
予定時間だけでなく、実際にかかった時間を記録してください。失敗は、次の計画を正確にするためのデータになります。
五 小さな失敗を本人へ返す
子どもが失敗するたび、親がすぐ予定を修正すると、本人には判断材料が残りません。
安全で取り返せる範囲の失敗なら、原因と修正を本人へ返します。
三分課題
今日の課題を三つ書いてください。
・取り組む順番
・予想時間
・実際にかかった時間
終了後、予想と実績の差を一つだけ次の計画へ反映します。
保護者の方へ
管理によって成績が上がった実績を否定する必要はありません。
ただし、入試や高校生活では、保護者が隣で順番を指示できません。管理を突然ゼロにするのではなく、子どもが決める範囲を少しずつ広げてください。
神崎の一言
「転ばせんことが親の仕事ではない。立ち方を覚えられる場所で転ばせるんじゃ」




