第17章 知らなければ選べない
「私たち、高校のことがよく分からないので」
上原海斗の母親は、学校案内を机へ積んだ。
「本人と一緒に、教えてください」
県立高校が四冊、私立が二冊、専門学科の案内が一冊。どれにも付箋が貼られ、表紙の右上に受け取った日付が書かれていた。
父親は新品のノートを開いた。
「まず、偏差値表の見方からお願いします」
知らないことを、二人とも普通の声で言った。
奏太の母親は、知念より先に入試日程を答えられる。
海斗の両親は、偏差値が何を表す数字かも、普通科と専門学科で卒業後の進路がどう変わるかも、よく知らなかった。
それでも、手ぶらでは来なかった。
ノートの最初のページには、「本人に聞くこと」と書いてある。
「別に、近い公立でいいよ」
海斗が言った。
父親は息子を見た。
「いい、じゃ分からん」
「何が」
「行きたいのか、嫌じゃないだけなのか」
海斗は答えなかった。
「ええ親じゃな」
神崎が言った。
「高卒でも?」
蓮が小声で返すと、神崎の眉が上がった。
「お前は学歴で人の質問の値段を決めるのか」
「そういう意味じゃない」
「なら、そういう言い方をするな」
蓮は黙った。
高い学校へ行った人の方が、高校の選び方も知っている。
どこかで、そう思っていた。
けれど、海斗の父親が最初に聞いたことは、どの学校が上かではなかった。
息子が、本当に行きたいのか。
その質問を、美咲の周りの大人は誰もしていなかった。
蓮と神崎は、海斗のために比較表を作った。
最初の列は学校名。
次に偏差値。
合格可能性。
大学進学実績。
内申と当日点。
指定校推薦。
補習。
部活動。
特待。
「情報が多すぎる」
蓮が言った。
「少なければ選べん」
「多くても選べないだろ」
神崎は列を一つ追加した。
理系科目の進度。
三校を並べると、一番上にある学校が一番よく見えた。
偏差値も、大学実績も、補習時間も多い。数字が強い学校は、表の中でも強かった。
海斗は表を見て、「すごい」と言った。
どの学校を指した言葉かは分からない。
「で」
父親が表を縦に見た。
「海斗は、高校で何するんだ」
誰も答えなかった。
「大学へ行くなら、進学実績の高い学校が――」
神崎の説明は、海斗の両親には聞こえない。
蓮は途中まで口にして、やめた。
海斗が大学へ行きたいとは、まだ一度も言っていない。
母親は比較表の余白へ書き足した。
「朝、何時に家を出ますか」
「そこ?」
「毎日のことでしょ。バス代はいくら。帰りは何時。お弁当はいるのか、食堂があるのか。部活をするなら、最終バスに間に合うのか」
「枝葉じゃ」
神崎が言いかけた。
「枝葉じゃないだろ」
蓮は母と費用表を見た夜を思い出した。
授業料だけでは学校へ通えない。制服、教材、端末、受験料、交通費。毎日往復する時間も、三年間なら小さくない。
比較表に、通学時間と交通費を加えた。
列は増えた。
海斗の返事は変わらなかった。
「どこでもいい」
情報が増えるほど、海斗は小さくなった。
海斗の家では、夕食の後に家族会議をした。
父親は、高校を選んだときの話をした。
「近かった。友達も行った。卒業したら働くと思ってた」
「大学、考えなかったの?」
海斗が聞く。
「考える材料がなかったな。行きたいとも思ってなかった。でも、行きたいと思ったときに何が必要かも知らなかった」
母親は食器を拭きながら言った。
「私は制服で選んだ」
「嘘だろ」
「半分は本当。あとは、おばあちゃんがそこにしなさいって」
「後悔してる?」
「高校を、というより、選んだと思ってなかったことかな」
父親がノートへ一本線を引いた。
「大学へ行けとは言わん。行きたくなったとき、行けない科目の選び方だけはするな」
「でも、通えない学校は選べないよ」
母親が現実を戻した。
海斗は公立普通科の案内を開いた。
「普通科なら、後で決められるんでしょ」
「普通科でも同じではない」
神崎が蓮の横で言う。
学校によって授業の進度、選択科目、理系・文系の分かれ方、補習、推薦枠が違う。情報や工学へ進みたくなったとき、数学や理科をどこまで学べるかも確認が必要だった。
蓮は制度を全部説明する代わりに、海斗へ聞いた。
「何か気になる仕事とかないの」
「ない」
「授業は」
「別に」
「本当に何もない?」
海斗はテーブルのリモコンを触った。
「パソコンとか、機械とかは嫌いじゃない。みんなで何か作るのも」
「じゃあ、情報系とか工業系」
「仕事にするほど好きじゃない」
「仕事にするほど好きか、今決める必要ある?」
海斗は考えた。
「決めないために、普通科行くんじゃないの」
蓮は答えられなかった。
決めないことにも、種類がある。
選択肢を残すために決めないのか。
選ぶ責任を避けるため、誰かが決めるまで待つのか。
海斗自身にも、まだ分かっていなかった。
塾の待合で、奏太の母親と海斗の母親が話した。
「今の成績なら、中央南高校を目標にした方がいいと思います」
奏太の母親は、学校ごとの倍率まで覚えていた。
「大学進学を考えるなら、普通科です。早めに塾のクラスも上げてもらった方が」
「ありがとうございます」
海斗の母親は素直にメモした。
「ただ、本人が毎日通えるか見てからにします」
「通学より、将来の選択肢を優先した方がよくないですか」
「毎日続かないと、将来まで行けないので」
どちらも、子どもの将来を考えていた。
奏太の母親には、学校情報を集め、合格から逆算する力がある。
海斗の母親には、息子が朝に弱く、長い乗車で酔い、疲れると黙ることを知る力がある。
片方だけが正しいわけではない。
「恥ずかしいんだよな」
海斗が帰り道で言った。
「何が」
「うちの親、高校のこと何も知らないから。偏差値も、推薦も」
「分からないって言える親、強いと思うけど」
「お前の母ちゃんは?」
「分からないこと隠す」
「お前は?」
「もっと隠す」
「似てんじゃん」
「最悪だな」
二人で笑った。
蓮は、母と費用の話はした。
けれど、琉星へ行きたい本当の理由も、神崎のことも、美咲の未来も話していない。
親が知らないことより、知らないままでも聞けない関係の方が、選択肢を狭くするのかもしれなかった。
比較表を作り直した。
今度は、最初に学校名を書かなかった。
何を学べるか。
通学時間と費用。
授業進度と補習。
部活動と校風。
卒業後。
合わなかった場合の選び直し。
「十四項目は必要じゃ」
神崎が言った。
「多い」
「選択科目、推薦、進学率、就職先、資格――」
「結局、本人が三年間通えるかだろ」
海斗の父親が表を見て言った。
神崎には聞こえていないのに、神崎の十四項目を一言で削った。
「……生活者は乱暴じゃな」
「負け惜しみ?」
「要点をまとめただけじゃ」
海斗は、説明会で聞く質問を三つ選んだ。
一、情報や機械を学べる授業はあるか。
二、大学へ行きたくなった場合、必要な科目を選べるか。
三、家から毎日、無理なく通えるか。
候補は三校になった。
近い県立普通科。
少し遠い県立の情報・工業系学科。
私立高校の情報コース。
どこが一番かは、まだ決まらない。
それでも「どこでもいい」ではなくなった。
「パンフレットの通学時間、信用しない方がいい」
父親の提案で、三人は平日の朝、候補校まで実際に行った。
蓮も付き合った。
案内には、最寄りバス停から四十五分とある。
家からバス停まで十二分。
バス待ちが九分。
乗車四十七分。
学校まで徒歩七分。
一時間十五分かかった。
「毎日?」
海斗が言う。
「往復で二時間半」
母親が交通費を計算する。
「バスで動画見ればいいし」
「朝は立ってたぞ」
父親が言った。
「部活したら、帰り何時?」
「最終バスも確認しよう」
学校の外から、実習棟が見えた。
作業服の生徒が数人で機械を囲んでいる。一人が説明し、残りが手を動かしていた。
海斗は歩く速度を落とした。
「中も見たい」
自分から言った最初の言葉だった。
「じゃあ、説明会ここ入れよう」
母親がすぐに申込画面を開く。
「もう一校も見る」
海斗は近い普通科の案内を指した。
「比べたい」
父親はうなずいた。
答えを言わなかった。
家族の宿題は、三つに分かれた。
父親は通学と費用。
母親はカリキュラムと支援制度。
海斗は学びたい内容と校風。
塾では、拳が高専、陽向が公立進学校と吹奏楽強豪校、凛が通学と支援体制、奏太が母親の選んだ上位公立の資料を持っていた。
拳の質問票には、「英語が苦手でも、機械を学び続けられますか」とあった。
凛は、「帰宅が遅くならない補習はありますか」。
陽向は、「吹奏楽部は何月まで続きますか。夏の講習に出られない場合、どうなりますか」。
奏太の紙だけは、まだ白かった。母親なら十個書ける。自分で一つ選ぶことの方が、奏太には難しかった。
蓮の前には、琉星学院の案内しかない。
「お前も比べろ」
神崎が言った。
「琉星を目指すって決めた」
「一校しか見ずに選ぶのは、答えを先に決めて問題文を読むようなもんじゃ」
「他を見て、迷ったら?」
「迷うために見るんじゃ。迷わん選択は、考えとらんだけかもしれん」
海斗が家族の質問票へ、四つ目を書き足した。
この学校が合わなかったとき、どうやり直せますか。
蓮は、その一行を見た。
未来を選ぶことばかり考えていた。
選んだ学校が違ったときの戻り道には、まだ一つも印をつけていなかった。
海斗の母は、学校案内の余白へ、分からなかった言葉を三つ書いた。
帰る頃には、最初のページより質問の方が増えていた。
神崎の赤ペン補講
第17回 偏差値表を見る前に、比較する軸を作れ
一 偏差値は、学校の価値ではない
偏差値は、同じ試験を受けた集団の中で、自分がどの位置にいるかを示す数字です。試験ごとの難易度差をならし、現在の学力や合格可能性を考える材料になります。
学校生活の充実度、校風、本人との相性、教育の質を一つの数字で示すものではありません。
二 学校名より先に、目的を考える
何を学びたいか。
どのような高校生活なら三年間続けられるか。
卒業後にどの選択肢を残したいか。
目的が曖昧なまま偏差値順に並べると、数字の高い学校が自動的に良い学校に見えます。
三 同じ軸で比べる
候補校を同じ項目で比較してください。
・学ぶ内容
・通学時間と費用
・校風と活動
・卒業後の進路
・合わなかった場合の選び直し
数字だけでなく、説明会、学校見学、実際の通学経路も確かめます。
四 情報源には役割がある
学校公式サイトや募集要項は、制度と確定情報を確認する場所です。
説明会では、授業、支援、学校生活を質問できます。
塾資料は、入試難易度や過去の傾向を考える材料です。
在校生の話や口コミは実感を知る助けになりますが、一人の経験を学校全体の事実にしないでください。
五 分からないことを質問へ変える
空欄は失敗ではありません。
誰に、何を尋ねれば埋まるかを書けば、次の行動になります。
三分課題
候補校を三校書き、次の五項目で比較してください。
一、学ぶ内容
二、通学
三、費用
四、卒業後
五、選び直し
分からない欄は、説明会で聞く質問へ変えます。
保護者の方へ
親がすべての進路情報を知っている必要はありません。
知らないことを認め、子どもと役割を分けて調べる姿勢そのものが支援になります。一方で、費用、安全、通学など、生活の現実を子どもだけへ背負わせないでください。
神崎の一言
「知らんことは負けではない。知らんまま決めるのが負けじゃ」




