第41章 番号のある者、ない者
奏太は、自分の番号を三度見落とした。
一度目は、掲示板の上から下へ。
二度目は、下から上へ。
三度目は、受験票の数字を一桁ずつ指で押さえながら。
それでも、なかった。
「もう一回見て」
母の声が横から入った。
「見た」
「こういうの、並びが分かりにくいから。下一桁だけ先に探してみなさい」
「やった」
「本当に? ちょっと貸して」
母の手が受験票へ伸びた。奏太は渡しかけた。
いつもなら渡していた。
母は見落とさない。提出期限も、模試の日程も、教材の注文も、奏太より正確に覚えていた。自分の番号を探すことだって、母の方が上手いのかもしれない。
けれど、その番号は奏太のものだった。
受験票を持つ手を、胸元へ戻した。
「ないよ」
「だから、お母さんが確認するって」
「ない」
母の顔が止まった。
掲示板の前では、数字を見つけた家族が声を上げている。肩を抱く人。何度も写真を撮る人。スマートフォンを耳へ当て、泣きながら報告する人。
奏太の周りだけ、音が少し遠かった。
「学校に聞こう」
母は言った。
「掲載ミスかもしれない。あなた、判定は――」
「落ちた」
「まだ分からないでしょ」
「俺の番号はない」
言葉にした瞬間、数字が結果になった。
模試で百五十一点を取ったとき、奏太は答案の一を七に変えようとした。鉛筆で線を足せば、母の予想へ近づけると思った。消しても残った灰色の跡は、そのあと何度も夢に出た。
今日の掲示板には、足せる線がなかった。
*
別の高校の掲示板で、陽向は自分の番号を見つけた。
見つけたはずだった。
「ねえ、これ」
母の袖をつかむ。
「ある。あるよ」
「待って。受験票」
鞄を開けた。筆箱が落ち、蓋が開く。鉛筆と消しゴムに混じって、先の欠けたクラリネットのリードが地面へ滑った。
母が拾おうとした。
「いい。私が取る」
陽向はしゃがみ、リードを指でつまんだ。それから受験票を出し、掲示板と照らした。
一桁目。
二桁目。
最後まで同じ。
「受かった」
声に出してから、母の腕が背中へ回った。
「受かったね」
陽向は笑った。笑っているのに息が浅く、途中から咳のような音になった。
十二月まで部活を続けた。夏の模試で、自分の実力が定期テストの点ほど高くないと知った。過去問の並びを覚える勉強を捨て、基礎からやり直した。時間が足りず、何度も部活を辞めなかったことを後悔した。
入試でも間違えた。
それでも、次の小節へ入った。
母の肩越しに、掲示板の番号が見える。音符のように並んでいた。その一つが、自分のものだった。
*
海斗の父は、息子より先に番号を見つけた。
「あ」
声を出したあと、父は指を上げかけて止めた。
「どこ?」
海斗が聞く。
「自分で見てみろ」
「見つけたなら教えろよ」
「いや、間違ってたら困る」
父は急に眼鏡を外し、服の裾で拭いた。母は隣で笑っていたが、目元が赤かった。
海斗は掲示板へ近づいた。
中央より少し下。自分の番号があった。
「これ」
指で示す。
父が受験票と見比べる。
「合ってる」
「うん」
「本当に合ってる」
「だから、うん」
父は海斗の肩を二度たたいた。強すぎて、二度目は少し痛かった。
学校説明会で父は、分からないことを全部聞いた。大学進学率の数字も、選択科目の違いも、一度聞いただけでは理解できず、帰宅後に三人で調べ直した。
合格したのは、父が選んだ学校ではない。
海斗一人で選んだ学校でもない。
三人で情報を集め、最後に海斗が決めた学校だった。
「帰ったら、手続き確認しよう」
父が言う。
「今日くらい休ませろよ」
「期限だけは見よう。期限だけ」
「ほら始まった」
母が笑い、今度は海斗も笑った。
*
凛は、番号を写真に撮らなかった。
掲示板の前に長くいると、下の子の迎えに間に合わない。
受験票と番号を確認し、学校の案内封筒を受け取る。人の流れから外れたところで、支援担当の先生へ電話した。
「ありました」
『合格?』
「はい」
電話の向こうで、椅子を引く音がした。
『よかった。入学手続きの日、予定どおり一緒に確認しよう。通学のことも』
「お願いします」
『今日は家へ帰れる?』
「帰れます」
嘘ではない。
安心できるかどうかと、帰れるかどうかは別だった。
母へメッセージを送る。
〈受かった〉
しばらくして返ってきた。
〈よかった。今日、迎えお願い〉
祝福は七文字。その後に、いつもの生活が続いていた。
凛は画面を消した。
手の中には家の鍵がある。合格しても、鍵は消えない。家事も、下の子の世話も、母の機嫌も消えない。
ただ、制服の採寸日と、支援担当へ相談する日が増えた。
それは奇跡ではなかった。
逃げ道が一つ、予定表に書けるようになっただけだ。
凛は借りていた腕時計を見た。迎えには間に合う。
*
颯真の番号もなかった。
父は掲示板の前で、最初は黙っていた。
「受験票を見せろ」
颯真は渡した。
父は数字を照合した。列を変え、写真を拡大し、もう一度最初から探した。
「おかしい」
誰へ言ったのか分からなかった。
「得点開示を請求する。学校にも確認する。あの英語の形式は、例年と違いすぎた」
颯真は返事をしなかった。
「塾の進路指導も問題だ。全国模試の判定を過大に見せて、不安をあおった。そもそも――」
英語の形式が違ったことは、本当だった。
それだけではないことを、颯真は知っていた。
形式が変わったとき、本文ではなく過去問の型へ戻った。矛盾に気づいても、途中までの解き方を捨てられなかった。初見問題に弱いという分析票を隠した。自分で作った問題を父に消され、そのあと二度と作らなかった。
全部を父のせいにすれば、少し楽になる。
全部を自分のせいにすれば、話は単純になる。
どちらも本当ではなかった。
「帰るぞ」
父が歩き出す。
颯真のスマートフォンが震えた。蓮から着信だった。
出ない。
もう一度、震えた。
父の背中が遠ざかる。颯真は通話ボタンを押した。
『今どこにいる』
蓮は、結果を聞かなかった。
「学校」
『一人?』
颯真は父の背中を見た。
「違う」
『そうか』
そのあと、蓮は黙った。
慰めも、原因分析もない。勉強法が間違っていたとも言わない。
颯真は、その沈黙に腹が立った。
「何か言えよ」
『何を』
「分かるだろ」
『分からない』
即答だった。
『お前が今、何を言われたいかは、俺には分からない』
颯真は唇を噛んだ。
正しいことを言われるより、苦しかった。
「落ちた」
初めて、自分から言った。
『うん』
「それだけかよ」
『それ以上、今言ってほしい?』
颯真は答えられなかった。
父が振り返った。早く来いという顔をしている。
「切る」
『分かった』
通話が終わった。
画面には何も残らない。それでも、不合格を口にした事実だけは消せなかった。
*
「今日中に決めましょう」
奏太の母は、帰りの車で言った。
「第二志望の手続き期限があるから。私立の特進は通学が長いけど、大学進学を考えれば――」
助手席には、三校分の資料が置かれている。費用、通学時間、進学実績、補習日数。母はすでに付箋を貼っていた。
「お母さんは、こっちがいいと思う。公立の第二志望より、私立で上位にいた方が――」
「待って」
「期限があるの」
「分かってる」
「分かってないから、いま整理してるんでしょ」
その言い方は、何度も聞いた。
母が正しい場面も多かった。締切は待ってくれない。入学金も、辞退期限も、感情が落ち着くまで保留にはできない。
だからこそ、奏太は怖かった。
母の正しさに乗れば、自分で決めなくて済む。
「資料は見る」
「じゃあ帰ったら――」
「今日は決めない」
母が運転席から見た。
「何を言ってるの」
「期限を確認する。選べる学校も確認する。でも、今日は決めない」
「気持ちで決める話じゃないのよ」
「気持ちだけで決めない。だから明日、俺から話す」
声が震えた。格好よくもなかった。
母はすぐに賛成しなかった。
「失敗した直後に、正しく判断できると思ってるの?」
「思ってない」
「だったら――」
「母さん一人でも、今は正しく決められないだろ」
車内が静かになった。
信号が青へ変わった。後ろの車が短くクラクションを鳴らす。母は前を向き、車を出した。
「期限だけは、今日見る」
「うん」
「費用も」
「見る」
「明日、話すのね」
「俺から話す」
母は、それ以上言わなかった。
和解ではない。
許可でもない。
ただ、決定が一日だけ、母の手から離れた。
*
夕方の自習室には、合格した者と、不合格だった者が同じ机を囲んだ。
陽向のスマートフォンには祝福の通知が続いている。海斗は父から送られてきた手続き一覧を見て、「期限だけって言っただろ」と笑っていた。凛は制服採寸の日程を手帳へ書いた。
奏太は何も開かなかった。
蓮が紙コップの水を置いた。
「飲む?」
「いらない」
「じゃあ置いとく」
蓮は向かいに座った。
「次、どうする」と言いかけたのが分かった。口がその形になり、途中で閉じた。
奏太は水を見た。
「明日決める」
「うん」
「母さんと資料見る。でも、俺が話す」
「うん」
「それだけ?」
「それ以上、今いる?」
颯真にも同じことを言ったのだろうか。
奏太は少し笑った。
「お前、先生みたいになったな」
「最悪だ」
「褒めてない」
そのとき、グループの画面に陸から写真が届いた。
紺色の作業着。袖はまだ長く、肩のあたりが硬い。本人は不機嫌そうな顔をしている。
〈どうよ〉
拳が即座に返した。
〈似合ってねえ〉
〈お前も高専の制服似合わん〉
〈制服じゃねえ〉
〈じゃあもっと似合わん〉
陽向が笑い、海斗も吹き出した。凛は画面を見て、口元だけ緩めた。
奏太も笑った。
笑ったからといって、不合格が軽くなるわけではない。
同じ部屋で誰かが合格を喜んでも、自分の番号が生まれるわけでもない。
それでも、合格者が黙る必要はなかった。不合格者が消える必要もなかった。
番号のある者と、ない者が、同じ画面へ返信していた。
*
夜、颯真の机には新しい教材が積まれていた。
「基礎から確認する」
父が言った。
「ただし、時間を無駄にするな。今回の形式に対応したものだけ選んだ。春休み中に一周する」
机の右側に三冊。左側に二冊。付箋の色まで決められている。
颯真は椅子に座った。
父が部屋を出る。
扉が閉まってから、一番上の教材を手に取った。ページを開く。よく整理された例題。効率のいい順番。間違った本ではない。
颯真はそれを、机の端へ置いた。
引き出しから古いノートを出す。
余白に自分で作った問題があった。父に「試験に出ない」と言われ、消しゴムをかけた跡だけが残っている。式の一部は読めない。
新しい紙を一枚出した。
消えた問題を、そのまま再現することはできなかった。
颯真は別の数字を置いた。条件を一つ変えた。答えが出るかどうかも分からない。
鉛筆を止め、扉を見た。
父へ不合格の中身を話す勇気は、まだなかった。
それでも、教えられた答えの横へ、自分の問題を一つ置いた。
神崎の赤ペン補講 不合格のあと、親子が最初にすること
※神崎本人は物語から消滅しているため、本補講は過去の指導記録を編集した読者向け欄です。
一 直後に原因追及を始めない
本人は結果を理解するだけで大きな負荷を受けています。「なぜ失敗した」「あのとき勉強していれば」とすぐに分析すると、事実確認と人格否定が混ざりやすくなります。まず帰宅、安全、食事、休息などを優先します。
二 事実と感情と手続きを分ける
確認する事実は、合否、次の学校の手続期限、必要費用、辞退期限です。悔しさや怒りは別に扱います。感情が強いときに、進路の価値まで一度に決めないようにします。
三 親は情報を整理してよい
自主性とは、子どもへ全部任せることではありません。十五歳だけで制度や費用を調べるのは難しいため、親や学校は選択肢を整理します。ただし「調べること」と「本人の代わりに決めること」は別です。
四 不合格を人格の採点にしない
入試結果には、学力だけでなく、内申、募集人数、問題との相性、当日の体調、残された準備期間が影響します。不合格は改善材料を含みますが、その人の価値を示す点数ではありません。
五 分析は、次に使える形でする
落ち着いた後に、知識不足、読み違い、時間不足、学習法、援助要請の遅れなどを分けます。誰が悪かったかを決めるだけでは、次の行動は作れません。「次の場面で何を変えるか」まで決めて、分析を終えます。




