第40章 それぞれの公立入試
受験票より先に、陽向はクラリネットのリードを筆箱へ入れた。
もう演奏には使えない。先端が少し欠け、息を入れれば音が裏返る。十二月の最後の舞台で交換したものだった。
母が玄関から呼んだ。
「陽向、車出すよ」
「今行く」
スマートフォンが震えた。蓮からだった。
〈分からない問題が出たら、次に何をする?〉
応援してる、でもなければ、絶対受かる、でもない。朝から質問を投げるところが、いまの蓮らしかった。
〈嫌なこと聞くね〉
そう返してから、陽向はもう一行送った。
〈次の問題をやる〉
既読はすぐについた。返事は親指を立てた絵が一つだけだった。
玄関には、昨夜そろえた靴がある。譜面台の脚に何度もぶつけて傷のついたローファーだ。夏から受験一本に切り替えた子たちより、自分の時間が少なかったことは消えない。十二月まで部活を続けた事実も、何か美しい話に変わるわけではない。
それでも、舞台の途中で音を外した人間だけが知ることがあった。
曲は待ってくれない。
*
公立高校入試は五教科だった。
国語、数学、英語、理科、社会。各六十点、合計三百点。数字だけなら全員に同じである。机の広さも、配られる問題冊子も、開始と終了の合図も同じだった。
ただし、机の上まで運んできたものは、一人ずつ違った。
凛は、家の鍵を受験票の下へ置いた。金属の角が紙に小さく盛り上がる。その隣には、支援担当の先生から借りた腕時計があった。
「会場の時計だけだと、席によって見えにくいから」
昨日、そう言って渡された。新しい時計ではない。ベルトの穴も凛の腕には合わず、一番奥へ通しても少し回った。
家では、下の子が夜中に泣いた。母親は朝になってから帰った。静かな机も、十分な睡眠も、最後まで手に入らなかった。
それでも凛は、国語の問題冊子が配られると、鉛筆を一度だけ転がした。
説明文。設問は「本文全体の主張として最も適切なもの」を選ばせる。
以前なら、文章の最初から勢いで読んだ。家ではいつ呼ばれるか分からないから、読むことは急ぐことと同じだった。
いまは違う。
凛は設問の条件へ線を引いた。
本文全体。
最も適切。
二つの言葉を囲み、それから文章へ戻る。傍線部の前後だけでは足りない。段落の役割を余白に一語ずつ書いた。
問題用紙の上で、借りた時計が少しずつ回った。凛は二度、元の位置へ直した。
十分な環境ではない。だが、十分でないことと、何もできないことは同じではなかった。
*
数学の開始前、奏太は鞄の内側を見た。
透明なファイルに、母が作った紙が入っている。
一、大問一を確実に。
二、順番を変えない。
三、見直しは計算から。
四、空欄を作らない。
印刷された文字は整っていた。母は昨夜、「見るだけで安心するから」と言った。
問題冊子を開く。
大問一の計算は解けた。大問二も、途中までは見たことがある。だが、その次の図形で手が止まった。
円の中に三角形があり、補助線を引かなければならない。似た問題を母の選んだ教材で何度も解いた。線の位置も覚えている。
同じ場所に線を引く。
合わない。
もう一本引く。角度がつながらない。
時計の秒針が、教室の静けさだけを削っていく。
順番を変えない。
鞄の中の紙が、閉じたままそう言っていた。
奏太は消しゴムを握った。答案の端が、手の汗でわずかに波打った。
模試の点を百五十一から百七十一へ書き換えようとした鉛筆の跡を思い出した。あのときも、母の想定から外れた数字を、そのまま見せることができなかった。
だが、ここに母はいない。
それが怖かった。
それが、少しだけ楽だった。
奏太は図形のページへ小さく印をつけ、次の関数へ進んだ。関数は最後まで解けた。その次の確率も取れた。残り十二分で図形へ戻る。
最初に引いた二本の補助線を、全部消した。
新しく考える時間は六分。正解する保証はない。それでも、他人の順番を守って空欄にするより、自分で戻った問題だった。
*
海斗の英語の問題冊子には、知らない単語が七つ続いた。
環境保全について、地域の高校生が海外の学校と意見を交換する文章だった。最初の段落だけで、意味の取れない語が三つある。
海斗は鉛筆を止めなかった。
主語に丸。動詞に線。逆接の語を四角で囲む。
冬の学校説明会で、父親は何度も職員へ尋ねた。
「すみません。私たち、大学のこともよく分からなくて」
母親は横で資料をめくり、通学費と授業の進度を一つずつ確認した。二人とも高卒だった。知らないことを恥ずかしがって、分かったふりをしてもよかったはずだ。
しなかった。
海斗も、英文を全部分かったふりはしなかった。知らない語を飛ばし、分かる文の関係だけをつなぐ。
第三段落で、筆者の意見が反転した。
設問の選択肢には、最初の段落に出てきた言葉がそのまま使われているものがある。見覚えだけなら、それを選びたくなる。
海斗は選ばなかった。
文章の最後まで読んでから、最初の選択肢を消した。
家族が選んだ高校ではない。
家族と調べ、自分で選んだ高校だった。
だから、知らない文章の中でも、自分の知らなさを隠す必要はなかった。
*
知花颯真は、英語の長文を二度読み直した。
設問は六つ。過去五年分なら、第二問の会話文の後に、資料を使った長文が来る。問一は内容一致、問二は空所補充、問三は並べ替え。位置まで覚えていた。
今年は違った。
二種類の資料を比べ、本文中の人物が判断を変えた理由を書かせる。選択肢の言葉も、過去問のように本文からそのまま抜かれていない。
颯真は最初の資料に線を引いた。
これは、去年の第四問と同じ型だ。
そう決めれば、読む場所を絞れる。
去年と同じ型であってほしかった。
選択肢を一つ埋める。次も同じ考え方で埋める。しかし三問目で、前の答えと矛盾した。
本文へ戻る。
型へ戻る。
また本文へ戻る。
問題が悪い、と頭のどこかで言った。形式が安定していない。予想できない問題で実力は測れない。父もきっとそう言う。
鉛筆の先が、紙の同じ場所を黒くした。
塾内首位の通知。県内十二位の模試。百点を並べた過去問。罫線から一ミリも外れないノート。
そのどれも、いまの設問を解いてくれなかった。
颯真は時計を見た。
残り十五分。
未回答が四問あった。文章を最初から読み直せば、間に合わない。だが、途中まで書いた考えを捨てることもできなかった。これまでの自分を間違いにするようで、手が動かなかった。
隣の席で、誰かがページをめくった。
颯真だけが、同じページに残った。
*
理科の開始二十分後、陽向は自分の間違いに気づいた。
電流の向きを逆に読んでいる。
その問題だけではない。その条件を使った次の問いも、答えが変わる。
息が止まった。
十二月の舞台が戻ってきた。クラリネットの高音が裏返り、客席の天井へ細く跳ねた瞬間。隣の奏者が一度だけ目を動かした。
顧問は、本番前に言っていた。
「一音を外しても、曲はそこで終わらない。次の小節へ正しく入れ」
当時の陽向は、その言い方が嫌いだった。失敗することを前提にされている気がした。
いまなら分かる。
失敗を許す言葉ではない。失敗のあとに何をするかを、先に決めておく言葉だった。
陽向は該当する二問だけに印をつけた。答えを直す。ほかの問題まで疑わない。
次のページへ進んだ。
植物の蒸散。地層。化学変化。中学一年、二年のころは、定期テストの過去問と似た並びだけを覚えていた。見たことのある紙なら点が取れた。県内模試では、順番が変わっただけで頭の中が空になった。
夏からは、答えを隠して思い出した。
翌日にもう一度解いた。
三日後には別単元と混ぜた。
最初は、昨日できた問題を間違える自分が嫌になった。だが、忘れたあとで取り出す練習を続けるうち、問い方が変わっても、知識の置き場所まで消えることは減った。
社会の問題冊子を開いたとき、指は震えていた。
それでも、歴史の年代を一列に並べるのではなく、なぜ制度が変わったかを余白に書いた。地理では資料の単位を囲んだ。
最後の大問は、半分しか分からなかった。
時間も足りない。
陽向は一問を選び、残りを捨てた。
部活を続けた時間は戻らない。夏期講習の最初から積めた量にも追いついていない。舞台で学んだ切替えが、失った学習時間を帳消しにするわけでもない。
ただ、最後の一問を選ぶことはできた。
*
同じころ、陸は入試会場ではなく、作業着の採寸をしていた。
「肩、もう少し上げて」
言われた通りに腕を上げる。鏡の中で、紺色の布が背中に引っ張られた。
スマートフォンには、蓮からの質問が残っていた。
〈分からない問題が出たら、次に何をする?〉
陸は笑った。
「問題、受けてねえし」
「何か言った?」
「いや」
進学しないと決めたとき、担任は三度確認した。親戚には、勉強から逃げたと言われた。実際、逃げた部分もある。教科書を開けば眠くなり、点数で順位をつけられる場所が嫌だった。
だからといって、この選択が全部、逃げでできているわけではない。
陸は返信した。
〈次にやることは決めてる〉
送信して、採寸台から降りた。
*
終了の合図が鳴った。
陽向は鉛筆を置いた。試験監督が答案を集める間、筆箱の中のリードへ触れた。折れてはいない。
会場の外では、受験生たちが一斉に答えを言い合っていた。
「あそこ三番だよな」
「数学の最後、十六?」
「英作文、何書いた?」
陽向は輪から少し離れた。いま答え合わせをすれば、次の教科のない頭に、不安だけが残る。全日程は終わった。結果が出るまでは、もう解き直しても答案は変わらない。
スマートフォンを開く。
〈終わった。二問やらかした。でも止まらなかった〉
蓮から返事が来た。
〈それなら演奏は終わってる〉
〈何それ。上手いこと言ったつもり?〉
〈ちょっとだけ〉
陽向は笑った。笑ったあと、やっと肩が下がった。
奏太は校門の脇で、母へのメッセージを三度書き直していた。
〈数学は予定どおりできた〉
消す。
〈たぶん大丈夫〉
それも消す。
最後に送った。
〈終わった。帰ってから、俺から話す〉
送信した指は震えていた。だが、取り消さなかった。
凛は支援担当の先生へ、無事に終わったとだけ連絡した。家へ帰れば、夕食と下の子の世話が待っている。受験が終わったからといって、鍵が軽くなるわけではない。
それでも今日は、借りた時計を返す場所がある。
海斗の家族は、少し離れた駐車場で待っていた。父親は車から降りると、点数ではなく最初に聞いた。
「腹減ったか」
「減った」
「じゃあ帰ろう。答え合わせは、そのあとでいい」
海斗は後部座席へ鞄を置いた。説明会でもらった学校案内が、座席のポケットから少し見えていた。
颯真は、校門の内側から動けなかった。
父からメッセージが届いている。
〈例年どおり取れていれば問題ない。帰宅後、すぐ自己採点する〉
例年どおりではなかった。
それを文字にできない。
ほかの受験生が門を通り過ぎていく。颯真は問題冊子を強く握った。紙の角が、手の中でつぶれた。
もう一件、未読があった。
蓮からだった。
〈分からない問題が出たら、次に何をする?〉
颯真は返信欄を開いた。
指を置く。
何も書けなかった。
試験は終わっているのに、彼だけがまだ、同じ問題の前に座っていた。
神崎の赤ペン補講 五教科300点を「全部解く試験」にしない
※神崎本人は物語から消滅しているため、本補講は過去の指導記録を編集した読者向け欄です。
沖縄県型の公立高校入試は、国語・数学・英語・理科・社会が各60点、合計300点です。本番で重要なのは、全問題を完璧に解くことではありません。自分が取るべき問題へ、限られた時間を配ることです。
一 教科ごとの目標点を決める
五教科を同じ点数にそろえる必要はありません。得意教科で得点を伸ばし、苦手教科では基礎問題を落とさない設計にします。ただし苦手教科を丸ごと捨てると、合計点が不安定になります。
二 問題を三つに分ける
問題を「すぐ解ける」「時間を使えば解ける」「現時点では難しい」に分けます。最初から難問へ粘ると、後ろの基礎問題を失うことがあります。これはメタ認知――自分の状態を見積もる力――の実戦です。
三 失点後の行動を先に決める
読み違いに気づいたとき、全答案を疑う必要はありません。影響する問題だけを確認し、次へ進みます。「間違えない」より、「間違えたあと何をするか」を事前に決めておく方が、本番では役立ちます。
四 本番に近い形で練習する
時間制限、五教科の順番、休憩、問題冊子への印、見直しまで含めて練習します。知識だけでなく、本番で使う判断と同じ判断を練習する考え方を、転移適切処理と呼びます。
五 合否と人格を結びつけない
同じ勉強法を使っても、内申、家庭環境、残り時間、当日の問題との相性は異なります。不合格は、その人の価値が低いという意味ではありません。結果を分析し、次の選択へつなげるための情報です。




