第42章 ここから先は、誰も知らない
卒業式の日、蓮は三度、窓際を見た。
一度目は、校長の話が長くなったとき。
二度目は、美咲の名前が呼ばれたとき。
三度目は、自分の卒業証書を受け取ったあとだった。
そこには誰もいなかった。
革ジャンも、馬鹿みたいに高いリーゼントも、室内なのに外さなかったサングラスもない。もちろん、「背筋を伸ばせ。合格者より不合格者の方が猫背になる」などと、頼んでもいない分析を始める声も聞こえない。
神崎が消えてから、蓮はときどき、いない人間に腹を立てた。
せめて卒業式ぐらい見届けろよ、と思う。だが、見届けられるために卒業するのではない、と言い返す声まで自分の中にあった。あの男なら、たぶんそう言った。
「蓮」
振り向くと、美咲が卒業証書の筒を両手で持っていた。笑顔はいつもどおり整っていたが、筒の端を親指が何度もなぞっている。
「このあと、みんなで写真を撮るって」
「ああ」
蓮はまた窓際を見そうになった。代わりに、美咲を見た。
「その前に、少し話せる?」
「うん」
尋ねるだけのことに、ずいぶん時間がかかった。
校門の近くでは、保護者たちがスマートフォンを構えていた。合格した学校の名前を大きな声で話す人もいれば、進路の話を避けて花束の値段を話す人もいた。祝いの日にも、人は順位を作る。たぶん、順位がある方が安心できるのだ。
奏太は母親から少し離れた場所に立っていた。
「制服、決めた」
「第二志望の?」
「うん。母さん、最初は勝手に店まで決めてたけど」
奏太は言葉を切り、母親の方を見た。母親はほかの保護者に頭を下げながら、何度もこちらを気にしている。
「途中で聞いた。紺と黒、どっちがいいって」
「それで?」
「黒。紺って答えたら、また正解を当てた顔されそうだったから」
「理由がひねくれてる」
「俺が決めたなら、ひねくれてても俺の理由だろ」
奏太は笑った。以前のような、先に自分を傷つけて相手の笑いを奪う笑いではなかった。
少し離れた木陰に、颯真がいた。
第一志望の制服を着る未来はなくなった。それでも髪は整い、シャツの襟にも乱れがない。父親が選んだ姿が、そのまま卒業式まで残っているように見えた。
蓮が近づくと、颯真は鞄を持ち直した。その隙間から、折り畳まれた方眼紙が見えた。中央に、自分で作った図形の線が引かれている。
「それ」
「見るな」
「見てない」
「見ただろ」
「一問だけ」
「十分だ」
颯真は方眼紙を押し込んだ。だが、捨てはしなかった。
「次、どこ行くか決めた?」
「父さんは決めてる」
「お前は?」
「……まだ言ってない」
蓮は続きを促さなかった。颯真は黙ったまま、校舎を見上げた。
「知念先生、まだいる?」
「今日も塾じゃないか」
「そうか」
それだけ言って、颯真は歩き出した。
立ち直ったわけではない。父親に逆らえたわけでもない。それでも鞄の中には、父親が選んだ問題集ではなく、自分で作った一問が入っていた。
人が変わるとき、拍手にちょうどいい音はしないらしい。
*
卒業後、最後に使った学習室の机には、合格通知とは違う紙が並んだ。
拳の高専から届いた課題一覧。
陽向が自分で書き直した吹奏楽部の年間予定。
海斗の家から高校までのバス時刻表。
凛が知念と一緒に作った相談先の一覧。
陸の胸ポケットに収まる、小さなメモ帳。
「英語の仕様書って、なんで同じ単語が別の意味になるんだよ」
拳が課題を睨んだ。
「文脈」
「その便利な言葉で全部ごまかすな」
「前後を読めってこと」
「最初からそう言え」
拳は悪態をつきながら、分からない単語に印をつけた。中学一年の単語からやり直した人間が、今は機械の説明書を読む準備をしている。劇的に見えるのは遠くから見たときだけで、本人の机には、相変わらず知らない単語が残っていた。
陽向は年間予定の八月と十一月に赤い線を引いた。
「試験二週間前は休むって、顧問に言う」
「言えるのか」
「言いたくない。でも、言わないと去年と同じになる」
音楽を嫌いになったわけではない。受験のために吹奏楽を悪者にしたわけでもない。ただ、好きなものに時間を全部渡さない。それは退部より地味で、退部より難しい選択だった。
海斗はバス時刻表を母親へ見せるために折り畳んだ。
「朝六時四十二分なら間に合う。父さんは六時三十分の方が安全って」
「海斗は?」
「四十二分。十二分寝る」
「そこを自分で決めるのかよ」
「毎日だから大事だろ」
凛の紙には、学校、塾、相談窓口、親戚の名前が並んでいた。どれか一つに丸をつける紙ではない。
「家は、まだ変わらない」
凛は平らな声で言った。
「でも、連絡できる先は増えた。一個が駄目でも、次がある」
蓮はうなずいた。「俺がいる」とは言わなかった。そう言えば格好はつく。だが、一人が誰かの人生を支え切れるという考えは、善意の服を着た思い上がりだと知っていた。
陸は作業着姿の写真を見せた。胸ポケットからメモ帳が少し出ている。
「親方の言葉、半分分からん」
「何書いてる?」
「分からん言葉」
「勉強じゃん」
「仕事だ」
「同じだろ」
「違う。こっちは間違えたら怒鳴られる」
「学校も似たようなもんだ」
「お前、進学校に受かったからって急に学校批判すんな」
机の上に、番号のある紙と、番号のない紙が並んだ。
高専へ行く者。公立へ行く者。私立へ行く者。第二志望へ進む者。働き始める者。まだ父親へ言えない者。
誰の紙も、上には置かれなかった。
*
琉星学院へ入学して最初の定期考査で、蓮は下から数えた方が早かった。
答案を受け取った瞬間、笑いそうになった。中学三年の四月なら、本当に笑っていたはずだ。
「応用が難しかったんで」
「習ってないところが出たんで」
「本番に弱いんで」
傷つく前に、自分で言い訳を並べる。便利な防具だった。自分で着ている限り、誰にも脱がされない。
だが、答案の赤字は防具の内側まで入ってきた。
数学は、解法を知っている問題で条件を一つ読み落としていた。英語は長文の速度に追われ、設問の根拠を本文へ戻せていない。国語は記述の条件語が一つ欠けた。
神崎なら、何と言うか。
蓮は窓際を見た。
誰もいない。
胸の奥で、古い癖が空振りした。答えを待つ代わりに、蓮はノートを四つに区切った。
知識不足。
条件誤読。
時間不足。
練習形式の不一致。
赤い数字は変わらない。それでも、数字を自分の価値から作業へ戻すことはできる。
美咲の席は、教室の斜め前だった。
彼女は答案を裏返すのが早かった。
家に帰ると、美咲は教材を机の上へ積んだ。数学、英語、国語、予習用、復習用、学校指定、塾指定。高く積めば、努力も高くなるように見えた。
最初の一冊を開けなかった。
スマートフォンを手に取り、蓮へ打った。
〈大丈夫。次は頑張る〉
送信する前に消した。
代わりに、何も送らなかった。
翌朝、蓮は教室で美咲の机を見た。いつもなら次の週まで書き込まれている手帳が、昨日のページで止まっていた。
「昨日のテスト」
「大丈夫」
答えが速すぎた。
蓮は、解決法を言いかけた。誤答を分類しろ。教材を減らせ。睡眠を削るな。どれも間違ってはいない。
正しい言葉は、ときどき相手の逃げ道を全部塞ぐ。
「今、聞いてほしい?」
美咲が顔を上げた。
「それとも、一緒に整理したい?」
「……何、その聞き方」
「俺も分からないから聞いてる」
美咲は笑おうとした。口元だけが少し動いた。
「蓮は、受かったじゃない」
「受かった学校で、下から数えた方が早い」
「でも、蓮はやり直せる」
「怖いよ。神崎はいないし」
名前を口にしてから、蓮は喉の奥が痛くなるのを感じた。
「俺も、また置いていかれるのが怖い。美咲に。ここの連中に。昨日の自分にまで」
美咲は手帳を閉じた。閉じたまま、両手を上に置いた。
「私、分からない」
「うん」
「何を減らしたらいいかも、誰に言ったらいいかも」
「うん」
「怖い」
そこで言葉が止まった。
蓮は待った。励まさなかった。未来を約束しなかった。
「助けて」
声は小さかった。
未来が変わったかは、まだ誰にも分からない。ただ、その日、美咲は答案を一人で隠さなかった。
蓮は自分の答案を机の上へ置いた。
「俺も助けてほしい」
「何を?」
「まず、この数学。どこで読み違えたか、一緒に見て」
「私に?」
「美咲も答案、出して。交換条件」
「ひどい」
「対等だろ」
美咲はしばらく鞄を見ていた。やがて、奥に隠した答案を取り出した。
二枚の低い点数が、同じ机に並んだ。
*
拳は高専で英語の単位に追われた。だが機械製図では、手が止まった同級生へ定規の当て方を教えた。留年という言葉が現実味を帯びた日、逃げずに担当教員の部屋をノックした。
陽向は顧問に、試験二週間前の練習を休みたいと告げた。嫌な顔をされた。翌日も同じことを言った。音楽を続けるために、音楽へ境界線を引いた。
海斗の家では、高校に入っても家族会議が続いた。分からない言葉は家族で調べ、最後の一文だけは海斗が言った。「俺はこっちにする」
凛の家の問題は、卒業証書では消えなかった。だから彼女は、学校、知念、親戚、相談窓口のどれか一つを救世主にしなかった。つながりを複数持つことは、弱さではなく安全の設計だった。
奏太は第二志望の高校で、図書委員に立候補した。母親が勧めたからではない。静かな場所が好きだと、十五歳になって初めて自分で知った。
陸は仕事で寸法を間違え、ひどく叱られた。翌朝、逃げたいと思いながら現場へ戻った。胸ポケットのメモ帳には、前日に間違えた数字が書いてあった。
颯真は、すぐには変われなかった。
父親の前では、相変わらず正しい答えを探した。それでもある日、知念の机へ方眼紙を一枚置いた。
「これ、入試には出ません」
「うん」
「解く意味もないかもしれません」
「うん」
「でも、見てください」
助けてとは言えなかった。
その一歩手前の言葉なら、言えた。
*
美咲が母親へ答案を見せた夜、最初に返ってきた言葉は「次は何位を取るの」だった。
美咲は、昔ならそこで話を終えていた。
「順位の話をする前に、聞いてほしい」
母親の手が、成績表の上で止まった。
「私、今のやり方を続けたら、学校へ行けなくなるかもしれない」
「そんな大げさな」
「大げさかどうかを、お母さんが決めないで」
声は震えた。言った瞬間、親不孝という古い言葉が胸の中に浮かんだ。母親を傷つけることと、自分の苦痛を話すことを、美咲は長く同じものだと思っていた。
母親はすぐには理解しなかった。教材を減らすことにも、学校の相談室へ行くことにも抵抗した。せっかく入った学校なのに。ここで下がったら戻れない。今頑張らなければ。
どれも、美咲を苦しめるための言葉ではなかった。
だからこそ、断るのが難しかった。
「明日、担任にも話す。お母さんにも一緒に来てほしい。でも、私が先に話す」
母親は長く黙ったあと、「分かった」とは言わなかった。
「考えさせて」と言った。
それでも以前とは違った。結論ではなく、会話が翌日まで残った。
学校の学習相談では、コース変更を急いで決めなかった。数学の誤答を単元別に分け、英語の予習にかけている時間を測り、睡眠時間を戻した。教材は机に積めるだけではなく、今週使う二冊だけを残した。
一週間後、成績は上がらなかった。
ただ、美咲は学校を休まなかった。
「結果、出ないね」
放課後、答案を見ながら美咲が言った。
「一週間で出たら、神崎がもっと嫌な性格になってる」
「会ったことないけど、もう十分嫌な人だったと思う」
「それはそう」
二人は笑った。
蓮の成績も、すぐには上がらなかった。計画を立て直しても、授業の速度は待ってくれない。分からない問題へ印をつけるほど、ノートは印だらけになった。
ある夜、蓮は神崎に話しかけそうになった。
「これで合ってるか」
声になる直前で止めた。
正しいかどうかを、死んだ伝説の講師に保証してもらうことはできない。生きている教師に質問し、自分で試し、結果を見て直すしかない。
翌日、蓮は数学の担当へノートを持っていった。
「この分類、合ってるか見てください」
「全部は見ないぞ」
「一問でいいです」
「欲が減ったな」
「増えたんです。一問見てもらって、残りは自分で直します」
教師は少し笑い、最初の印へ赤い丸をつけた。
神崎の赤ペンとは違う、細くて普通の赤だった。
それから数週間後、美咲が学校の学習相談を終えた帰り道、蓮は駅へ向かう歩道橋の上で足を止めた。
「失敗したとき、最初に隠さず話す相手になりたい」
美咲は手すりの向こうへ目をやった。夕方の車列が、途切れず流れていた。
「それ、告白?」
「今度は、たぶんじゃない」
「分析結果は?」
「好きだ」
美咲は少し黙ったあと、笑った。
「そこだけ、ずいぶん短いね」
「長くすると、また間違えるから」
「じゃあ、私も短くする。私も」
答えを得たからといって、互いの答案が読めるようになるわけではない。それでも、分からないときに尋ね直せる相手にはなれた。
そのあとも、二人の関係は急に別物にはならなかった。
朝に会えば一緒に教室へ行き、帰りが重なれば駅まで歩く。答案を見せたくない日は、見せたくないと言う。話を聞いてほしい日は、聞くだけでいいと伝える。
好きだから分かるのではない。
分からないと認めて尋ね続けるから、そばにいられた。
*
高校二年の春、進路希望調査票には、中学三年のときにはなかった欄が増えていた。
大学名。学部名。受験方式。
選択肢が増えれば自由になれると、蓮はどこかで思っていた。実際には、空欄が細かく分かれただけだった。
放課後の図書室で、蓮は大学入試模試の答案を机いっぱいに広げた。数学、英語、国語。その上に載せた個人成績票には、志望校判定のアルファベットが、遠慮なく並んでいる。
「数学の後半、あれは無理だろ。作ったやつ、高校生に恨みでもあるんじゃないか」
向かいに座っていた美咲が、英語の答案から顔を上げた。
「それで、大問一は?」
蓮は黙った。
「……今、後半の話をしてる」
「大問一は?」
二度目は、少しだけ楽しそうだった。
蓮は赤い線の多い一枚目を引き寄せた。符号の取り違え。条件の読み落とし。途中式を書かなかったために、自分でも戻れなくなった計算。難問に敗れたつもりでいたが、失った点の半分近くは、難問へ着く前に落としていた。
最初の県内模試で、五教科百点の答案を前にした自分がよみがえった。
――応用が解けないんじゃない。基礎を落としている。
言葉より先に、赤ペンの先が誤答の横で止まる。蓮はそこへ、小さく「なぜ」と書いた。
「笑うなよ」
「笑ってない」
「口元が笑ってる」
「昔の蓮みたいだと思っただけ」
「昔から俺だよ」
「そうだったね」
美咲の手元にも、進路希望調査票があった。第一志望の欄は、まだ空いている。以前なら、その白さを隠すように何かを書き込んでいただろう。偏差値の高い大学、親が安心する学部、誰に見せても説明に困らない名前。
だが今は、空欄のまま机に置いていた。
「美咲は、どこにするんだ」
「まだ決めてない。二つ、見に行きたい大学がある」
「同じところじゃなくても?」
口にしてから、蓮は自分の声に残った幼さへ気づいた。
美咲はすぐには答えなかった。進路希望調査票の端を、指で一度だけなぞった。
「同じだったら嬉しい。でも、そのためには決めない」
蓮は頷いた。胸の奥に、置いていかれる怖さがないわけではない。それでも、その怖さを美咲の進路に変換してはいけないことを、もう知っていた。
「じゃあ、別々に調べよう。見たあとで話す」
「うん。蓮は?」
「俺も、まだ分からない」
以前なら恥だと思った言葉が、今は出発点に聞こえた。
蓮は進路希望調査票を脇へ置き、答案を教科ごとに分けた。知識不足。読み違い。計算ミス。時間不足。神崎から教わった分類は、もう黒いシャープペンでも書けた。
窓の外で、風が新しい葉を裏返した。
革ジャンが擦れる音も、床を鳴らす靴音もない。サングラスの奥から答案を射抜く視線もない。
蓮は数学の最初の誤答へ戻った。
「まず、ここからだな」
「どこ?」
「大問一。言わせるな」
美咲が、今度は隠さず笑った。
蓮も笑い、赤ペンを持ち直した。その手は、もう答えを待ってはいなかった。
それでも蓮は、誰もいない窓辺をしばらく見つめた。
神崎の声を、聞きたかったのかもしれない。




