第4章 三十点の小テスト
八月の百三十五点より、来週の十五点の方が怖かった。
「五教科基礎到達テストを行います」
知念講師が、黒板へ日付を書いた。
「各教科六点。合計三十点。時間は四十五分。結果は補習班と次回のクラス編成に使います」
教室の後ろで、誰かが「子どもの値段みたい」と言った。
笑いが起きた。
蓮も笑いかけて、やめた。百点を返された日、自分が先に笑ったことを思い出したからだ。
「範囲は中一、中二の基礎です。難問は出しません」
難問は出ない。
その言葉は、蓮にとって安心ではなかった。難問のせいにできないという意味だった。
「目標は十五点」
神崎が言った。
「半分?」
「不満か」
「八月に百三十五点取るやつが、三十点のテストで半分って」
「八月の話をして逃げるな。来週の話をしろ」
神崎は黒板の三十という数字を顎で示した。
「今のお前には、十五点が挑戦だ」
廊下側の前方から、紙をめくる音がした。
知花颯真が、配られた出題範囲表を読み終えたところだった。同じ中学で、学級委員を何度もしている。制服の襟は崩れず、筆箱の中ではペンの向きまで揃っている。
颯真は振り返った。
「新垣、十五点目標なの?」
「悪い?」
「いや。範囲、基礎だけだから。一週間で全部覚えれば取れると思う」
笑ってはいない。
むしろ、励ましている。
それでも蓮は、全部という言葉だけで疲れた。
「知花は何点目標?」
「三十点」
颯真は、天気の話をするように答えた。
*
蓮は一つの方法を手に入れていた。
解説を読む。閉じる。自分の言葉で説明する。翌日、もう一度解く。
数学の一問に使えたのだから、五教科へ使えばいい。
「悪くない」
神崎も最初は認めた。
数学では機能した。
正負の数。分配法則。一次方程式。例題の手順を閉じて言い直し、白紙へ再現する。翌日になると途中で止まったが、止まった場所が分かる。そこだけ戻って、また閉じた。
英語で、最初の壁にぶつかった。
短い会話文を読み、解説を閉じる。
「何と書いてあった」
「昨日の話」
「誰が、何をした」
「分かんない」
「動詞は」
「それが分かんない」
「では単語へ戻れ」
単語帳を開いた。覚えていない語の横へ印をつける。最初のページが印で埋まった。
「閉じろ」と神崎が言う。
「閉じたら、何も残らない」
「残すためにやる」
「ないものは出せないだろ」
蓮の言葉に、神崎が黙った。
理科では、実験器具の名を覚えた。だが、なぜその操作をするかと問われると答えられない。
社会では、語句を言えた。場所を地図で示せなかった。出来事の前後を入れ替えた。
国語では、神崎に言われたとおり根拠へ線を引こうとした。
引きすぎて、本文が赤くなった。
「どれが大事なんだよ」
「全部へ線を引く人間には、線は一本もないのと同じだ」
「線を引けって言ったの先生だろ」
「設問に必要な根拠へ引けと言った」
「最初にそれ言えよ」
「言った」
「聞いてない」
「それはワシの責任ではない」
「今の先生、一個うまくいった方法を全部に使ってない?」
神崎の眉が上がった。
「検索練習は有効だ」
「だから、それを何に使うかが違うんじゃないの」
自分で言ってから、蓮は意外に思った。
神崎はすぐに反論しなかった。
「続けろ」
「数学は解き方を思い出す。英語は……単語も文法もないと、思い出せない。理科は名前だけじゃ解けない。社会も。国語は、線の数じゃない」
神崎はサングラスを外し、蓮の机へ並んだ五冊を見た。
「方法が間違っているのではない」
「また先生は悪くないって話?」
「何を取り出す練習にするかが、教科で違う」
「それ、今俺が言った」
「ワシが整理した」
少なくとも、昨日までよりは話が通じた。
*
颯真のノートは、教科書よりきれいだった。
見出しは青。重要語句は赤。本文は黒。余白には、試験へ出そうなポイントが小さな字で整列している。
「写真撮っていい?」
「いいけど、写すだけじゃ覚えないよ」
正しい助言まで整っていた。
「金城はどうやって勉強してる?」
「教科書を三回読んで、まとめる。分野ごとに問題を解いて、間違えなくなるまで繰り返す」
「それで三十点?」
「基礎テストなら」
颯真は別冊の問題集を開いた。計算、方程式、関数、図形。単元別に付箋が分かれている。
最後のページに、複数単元を混ぜた確認問題があった。
「これはやらないの?」
「まだ習ってない形が混じってるから。範囲を仕上げてから」
神崎が颯真のノートをのぞき込む。
「勤勉だ」
「認めるんだ」
「努力している人間を、敵だからという理由で否定するのは三流だ」
教室の扉が開いた。
島袋拳が入ってきた。シャツの裾が半分出ている。鞄を机へ落とし、颯真のノートを横から見る。
「美術の宿題?」
「違うけど」
「字、多すぎ」
拳は自分の席へ座り、そのまま机へ伏せた。
チャイムが鳴るまで、顔を上げなかった。
*
テスト当日。
四十五分の時計が動き始めた。
紙をめくる音が重なり、すぐに鉛筆の音へ変わる。
颯真の手は速かった。問題を読む時間と書く時間の境目がない。
拳は最初の一分、目を閉じていた。寝ているのかと思った直後、数学の欄だけを一気に埋め始めた。
神崎は教室の後ろに立っている。
何も言わない。
蓮は数学から始めた。
正負の数。
分配法則。
一次方程式。
手順を、一行ずつ紙へ置く。
比例の表を読む。
作図。
五問目まで、答えが出た。
六問目は、表と確率が混ざっていた。
読めば解けそうな気がする。
もう少し考えれば。
時計を見る。残り三十二分。
条件表の〈五教科〉という文字を思い出した。
問題番号へ丸をつけ、飛ばす。
英語を開く。
文字がある。
知っている単語が少ないと、英文は文章ではなく、間隔を空けて並んだ記号に見えた。
最初の単語問題を落とす。
三単現。疑問文。会話。
分からない。
過去形だけ、一つ選べた。
理科。社会。国語。
国語の説明文では、設問の「二十字以内」を四角で囲んだ。理由を問う言葉へ丸をつける。本文中の対比を一本だけ結ぶ。
神崎の声はしない。
それでも、紙の上には自分が何を考えたかが残った。
「終了です」
知念の声がした。
鉛筆を置く。
「何点くらい」と陸が聞いた。
「二十」
口にした瞬間、本当は十五取れていればいいと思った。
*
最初に見えたのは、数学の五だった。
六点満点中、五点。
蓮は答案を持ったまま、颯真を見た。
颯真の数学も五。
「同点」
蓮が言うと、颯真は自分の作図問題を見ていた。
「条件、一個書き忘れた。ケアレスミス」
その後ろから、拳の答案が見えた。途中式はほとんどない。その代わり、余白には線分を部品のように分けた図と、数の動きを示す短い矢印が残っていた。採点者へ見せる解法ではなく、拳自身だけが読める設計図だった。
数学、六。
「島袋、満点?」
颯真が初めて拳へ話しかけた。
「これくらいなら」
拳は答案を半分に折った。
他の教科が見えなくなる前に、蓮は合計を見た。
九点。
自分の成績票へ戻る。
数学、五。
英語、一。
理科、二。
社会、二。
国語、三。
合計、一三。
目標まで二点。
「数学は取った」
自分へ言った。
神崎は喜ばなかった。
「英語を開け」
「今、数学の話してる」
「勝った教科だけ見れば、次も負ける」
蓮は、英語の答案を裏へ回しかけた。
百点の日と同じ手だった。
途中で止める。
英語をいちばん上に置いた。
「単語から?」
「単語だけではない」
神崎は、一点しかない答案を見た。
「だが、単語なしには始まらん」
蓮は、知らない単語へ丸をつけ始めた。
周囲では、颯真が二十九点を悔しがっている。拳は九点の答案を鞄へ押し込み、机へ伏せた。
同じ教室に、三種類の負け方があった。
*
クラス再編表の前には、人だかりができていた。
Aクラス。
知花颯真。
宮城美咲。
蓮は名前を探し、上から下へ目を移した。
Bにはない。
Cにもない。
Dクラス。
新垣蓮。
その二つ下に、島袋拳。
「最下位か」
声に出すと、思ったより平気だった。
「でも、四月模試の百点を三十点にしたら十点くらいだろ。三点上がってる」
「問題が違う。単純には比べられん」
「じゃあ、数学は上がった」
「それは言っていい」
美咲が人の間から出てきた。
「十三点だったんだって?」
「情報早くない?」
「陸が言ってた」
「あいつ、口にチャック縫いつけたい」
「数学、五点?」
「そこも聞いた?」
「それは答案見せてくれたから」
美咲は、少し迷ってから言った。
「おめでとうで、いいのかな」
「数学だけなら」
「じゃあ、数学はおめでとう」
蓮は笑った。
神崎は笑わなかった。
再編表のDという文字を見たまま、動かない。
「先生?」
返事がない。
教室のざわめきが、神崎の周囲だけ遠ざかっているように見えた。
「その名を」
ようやく神崎が言った。
「まだ使う塾があるのか」
「Dクラス?」
神崎は、蓮ではなく、アルファベット一文字を見ていた。
神崎の赤ペン補講 第4回「同じ勉強法を、五教科へそのまま使ってはいけない」
検索練習とは、覚えた内容を何も見ずに思い出す学習である。ただし、五教科で思い出すものは同じではない。
数学
公式名だけでなく、問題を見て手順を選び、途中式を再現する。
英語
単語の意味、語形、文法、語順を取り出す。覚えていない単語は、思い出そうとしても出てこない。最初に覚える工程が必要である。
理科
用語だけでなく、実験操作、結果、理由を一組で説明する。
社会
語句だけでなく、場所、年代、因果、比較を結びつける。
国語
本文を暗唱するのではない。設問が要求する条件と、答えの根拠を本文から取り出す。
同じ「思い出す練習」でも、何を記憶し、何を再現し、どの形式で答えるかが違う。
合計点だけを見ない
蓮は30点中13点で、目標の15点に届かなかった。しかし数学は5点、英語は1点だった。
「十三点だった」で終われば、次の行動は決まらない。
・数学:再現できた手順を、別形式でも選べるか確認する
・英語:中一、中二の基本語彙と文法へ戻る
・理科:用語と実験結果の理由を結ぶ
・社会:語句を地図と時系列へ置く
・国語:条件語と根拠を対応させる
合計点は結果を示す。教科別の正誤は、次の作戦を示す。
三分でやってみよう
間違えた一問を選び、次の二つを書く。
この問題で思い出す必要があったもの:
次に、何も見ずに再現するもの:
保護者の方へ
「何時間勉強したか」だけでなく、「どの教科の、どこで止まったか」を聞いてほしい。
同じ一時間でも、知識がない、手順を選べない、問題文を誤読する、時間が足りないでは、必要な支援が違う。成功した教科だけを褒め、悪い教科だけを叱るのではなく、方法と結果の対応を見る。
また、一つの有名な勉強法を全教科へ機械的に使わせない。学習法は道具であり、教科と課題に合わせて使い分ける必要がある。
神崎の一言
「思い出す練習は同じでも、何を思い出すかまで同じではない」




