第3章 同じ高校へ行く
紙は、落ちるときだけ素直だった。
美咲は床へしゃがみ、二つ折りの進路希望票を拾った。蓮に見えたのは、志望校欄に書かれた琉星学院高等部の文字だけだった。
「それ、琉星?」
「うん」
美咲は紙を折り直し、鞄へ戻した。志望理由の空欄は、蓮から隠れた。
「やっぱ受けるんだ」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ四月だから」
その答えは、偏差値六十、内申百六十の人間が言えば余裕に聞こえる。蓮は、自分とは選べる学校の数が違うからだと思った。
美咲は数学の答案へ目を戻した。
「これ、自分で解いたの?」
「まあ」
「一問だけ?」
蓮は、笑われる前に笑う準備をした。だが美咲は、ただ次の言葉を待っていた。
「今日は」
「じゃあ、明日は二問?」
「二問っていうか、八月には百三十五点」
口から出てから、神崎の数字を借りたことに気づいた。
美咲の眉が少し上がる。
「本気?」
「そこまで驚く?」
「昨日まで、応用問題が悪いって言ってたから」
「分析して考えが変わった」
「一問で?」
「一問を馬鹿にすんなよ」
美咲は笑った。声を立てるのではなく、口元だけが丸くなる。
「してないよ」
教室の窓際で、神崎が美咲の鞄を見ていた。
「何見てんだよ」
「お前が見なかったものだ」
「え?」
「何でもない」
美咲は首を傾げた。
蓮は、幽霊との会話を隠す方法より、幽霊と話さない方法を覚えるべきだと思った。
*
「同じ高校へ行く」
帰宅後、蓮は宣言した。
神崎は、ベッドの端に座るような姿勢を取っていた。身体は沈まず、革ジャンの裾が布団へ少し埋まっている。
「誰と」
「分かってるだろ」
「琉星学院を選んだ理由を聞いている」
「美咲が行くから」
「学校の話をしている」
「だから、美咲がいる学校」
神崎はサングラスを外した。目元には、講義動画より深い疲れが残っていた。
「お前は学校を選んでいない。人を選んでいる」
「好きなやつと同じ高校へ行きたいくらい、普通だろ」
「普通だ。だから正しいとは限らん」
「じゃあ、女心の分かる先生は何て言えば正解なんだよ」
神崎は革ジャンの襟を直した。
「女心ならワシに任せろ」
「結婚してた?」
「仕事が忙しかった」
「彼女は?」
「生徒の合格が優先だった」
「いなかったんだ」
「話を戻すぞ」
「逃げた」
「女はな――」
神崎は言いかけて、口を閉じた。
「何?」
「美咲が何を考えているかは、美咲にしか分からん」
「急にまともになるなよ」
「一般論で相手を分かった気になるのは、指導でも恋愛でも三流だ」
蓮は、美咲の「たぶん」を思い出した。
「本人が受けるって言ってた」
「誰に勧められた」
「知らない」
「何を学びたい」
「知らない」
「通学時間は。校風は。卒業後は」
「知らねえよ」
「では、お前が追っているのは美咲の希望ではない。お前が想像した美咲だ」
言葉が、昨日の計算問題より腹に立った。
「じゃあ、好きになる前に進路調査でもしろって?」
「好意は調査票ではない。質問しろと言っている」
「そんなの聞いたら、好きなのバレるだろ」
「今さら何を守っている」
蓮は枕を投げた。枕は神崎の胸を通り抜け、壁へ落ちた。
「守るとか救うとかは、相手が何を望んでいるか聞いた後に使え」
神崎の声から、さっきまでの笑いが消えていた。
「ワシは、それを聞かなかった」
「百点の生徒?」
神崎は答えない。
サングラスを掛け直した。
「恋愛を動機にするなとは言わん。人間は、立派な理由だけで動くほど立派ではない」
「褒められてる?」
「ただし、美咲が別の学校へ行ったら勉強をやめるのなら、それはお前の受験じゃない」
蓮は床の枕を拾った。
答えは出なかった。
*
翌日、塾で志望校調査票が配られた。
第一志望、第二志望、私立併願校。学校名の横に、現在の判定と面談希望の欄がある。
「新垣、ここ誤字ってるぞ」
隣から陸がのぞき込んだ。
「どこ」
「琉星って書いてる」
「合ってる」
「いや、お前の志望校だぞ」
「だから」
陸は蓮の顔と調査票を交互に見た。
「罰ゲーム?」
「違う」
「美咲?」
「違う」
「今の速さ、正解じゃん」
蓮は消しゴムを握った。
琉星学院高等部。鉛筆で薄く書いた文字は、消そうと思えば一往復で消えそうだった。
教卓の前では、美咲が調査票を提出していた。
蓮は、学校名の上からもう一度鉛筆を走らせた。
「新垣君」
知念講師が受け取った紙を見た。二十代の終わりくらいで、生徒の間違いを笑わない代わりに、沈黙だけで教室を支配するような器用さもない。
「これ、記入ミスじゃない?」
「違います」
「そう」
知念は笑わなかった。訂正を迫りもしなかった。
「じゃあ、今日、進路面談できる? 黒瀬先生から話があるって」
陸が小さく口笛を吹いた。
蓮の胃が、さっき食べたパンを急に思い出した。
*
黒瀬は、紙を置く音の小さい男だった。
面談室の机へ、一枚目を置く。
四月県内模試。五教科一〇〇点。偏差値三十五。
二枚目。
中学一年、二年の評定と、三年の現状から見た予測内申。百六十五点満点中、一一〇。
三枚目。
琉星学院高等部。想定偏差値七十五。
「ここまでは、本人の希望を書く欄です」
黒瀬は言った。
眼鏡の奥の目は蓮を笑っていない。だからこそ、数字だけが逃げ場なく残った。
「希望を書くことを止めるつもりはありません」
「じゃあ、受けていいんですか」
「出願できることと、合格できることは別です」
四枚目は、八月模試までの日数。
五枚目には、公立と私立の選抜方法が並んでいた。
「この地域の公立選抜では、当日の学力検査だけでなく、三年間の評定を使います。五教科は五段階。技能四教科は一・五倍。年間五十五点、三年間で百六十五点です」
蓮は一一〇の紙を見た。
「今からテスト上げても、無理ってことですか」
「中学三年の評定は変えられます。未提出を減らすことも、授業への参加を変えることもできる。ただし、中学一年と二年の記録を、今から書き換えることはできません」
神崎が黒瀬の後ろから資料を見ている。
「琉星学院は私立で、国語・数学・英語の三教科(各百点)の当日点を重く見ます。内申が低いから出願できない学校ではありません」
蓮は少しだけ顔を上げた。
「だったら」
「入口が閉じていないことと、距離が短いことは同じではない」
黒瀬は、同じ県内模試の基準で換算された二つの数字を並べた。蓮の三十五と、琉星学院の合格圏七十五。
「四十あります。気合いや成長曲線という言葉だけで説明できる距離ではありません」
「偏差値は今の位置だろ」
蓮は神崎を見た。
「そうだ」と神崎が答える。
黒瀬には聞こえない。
「今から上がるかもしれない」
「上がる可能性はあります」
黒瀬は否定しなかった。
「どこまで、いつまでに、何を変えれば上がるのか。その説明が必要です」
机の上で、希望だけが一枚もなかった。
全部、数字と条件だった。
「それから、私立は受験料だけでは終わりません。入学金、授業料、施設費、通学費。特待になれば負担は変わりますが、特待を前提に家計を組むことはできません」
母の夜勤という二文字が、蓮の頭に浮かんだ。
神崎は口を挟まない。
「何か言えよ」
蓮が小声で言った。
黒瀬が眉を動かす。
「私にですか」
「いや……自分に」
「自分で考えることは必要です」
腹が立つのは、どこにも嘘がないからだった。
嘘なら反論できる。数字と条件は、蓮が目をそらしてもそこに残る。
*
「なぜ琉星学院なんですか」
黒瀬が尋ねた。
「県外の大学に強いし、特待もあるし、内申より当日点だから」
「いずれも事実です」
論破できた気がした。
「そのうち、新垣君自身の理由はどれですか」
蓮は黙った。
県外へ行きたいと思ったことはない。琉星学院の校舎へ入ったこともない。特待が何点からなのかも知らない。
美咲、と言いかける。
「人の名前で、自分の進路を答えるな」
神崎の声がした。
黒瀬が続ける。
「誰かを追うことが悪いとは言いません。人は一人で目標を作るとは限らない。ただ、その人が別の学校を選んだら、新垣君の受験は終わりますか」
二人の教師が、見えないまま同じ場所に立った。
蓮は腹が立った。
神崎と黒瀬の両方にではない。答えられない自分に腹が立っていることが、いちばん腹立たしかった。
「じゃあ、やめろってことですか」
「私は、条件を説明しています」
黒瀬は最後の一枚を出した。
〈八月県内模試・再面談条件〉
一、五教科一三五点以上。
二、数学・英語の基礎問題正答率七〇%。
三、学習記録の継続。
四、家庭で費用と通学条件を確認。
五、未提出物を減らし、中学三年の評定を改善。
「これは合格保証ではありません。八月に、同じ志望校についてもう一度話すための条件です」
「取れなかったら」
「そのときの情報で、もう一度選びます」
「志望校を下げろって?」
「下げるとは限りません。変える、残す、併願を組む。選択肢を調べます」
黒瀬は条件表を、机の中央へ置いた。
神崎が手を伸ばした。
太い指が、紙を通り抜けた。
昨夜初めて見たときは、不気味だった。今は、別の無力さに見えた。
神崎には、分析できる。教えられる。間違えることもできる。
だが、この紙を取ることだけはできない。
「俺、まだこの学校のこと、ちゃんと知らないです」
「はい」
「美咲が行くからって、それだけで書きました」
「そうですか」
「でも、一問はやりました。今日もやります」
「それで?」
蓮は、一三五という数字を見た。
偏差値三十五も、内申一一〇も消えない。母の夜勤も、授業中に寝た日も、出さなかった提出物も、最初からなかったことにはならない。
「八月まで、やってみたいです」
声が少し裏返った。
「一三五点を取ってから、もう一回ここで話します」
黒瀬は頷かなかった。
反対もしなかった。
「分かりました。では、記録を残してください」
蓮は条件表を取った。
紙一枚なのに、答案五枚より重かった。
*
面談室を出ると、美咲が壁際に立っていた。
「待ってたの?」
「自習してただけ」
手には何も持っていない。
「何て言われた?」
「無理だって」
美咲の目が曇る前に、蓮は言い直した。
「違う。八月に、もう一回答える」
「誰に?」
「黒瀬先生に。あと、自分に」
「何それ」
「俺もまだ分かってない」
美咲は、蓮の手の条件表を見た。
「百三十五点?」
「お前は何点だった?」
「二百二十八点」
「聞かなきゃよかった」
美咲が笑った。
その笑顔を見て同じ高校へ行きたいと思った。
同時に、それだけでは足りないことも、少しだけ分かった。
神崎は二人の後ろで、自分の右手を見ていた。
その紙を持てるのは、最初から蓮だけだった。
神崎の赤ペン補講 第3回「内申点が低いと、高校は選べないのか」
高校入試では、当日の試験点だけで合否が決まるとは限らない。多くの公立高校選抜では、中学校の評定を資料として使う。
本作の架空地域では、五教科の評定を各五点、技能四教科を一・五倍して計算する。
五教科:5教科×5点=25点
技能四教科:4教科×5点×1.5=30点
一年間:55点
三年間:165点満点
蓮の予測内申は110。美咲は160である。
なぜ内申点が必要なのか
一日の入試だけでは分からない、継続的な学習、提出物、授業への参加、技能教科を含む学校生活を見るためである。当日の体調や一度の失敗だけで決めないという役割もある。
一方、内申には限界もある。
・一、二年生のつまずきが三年生まで影響する
・評価方法を生徒や保護者が十分理解していないことがある
・地域、年度、学校によって選抜での扱いが異なる
・内申点を子どもの人格評価と混同しやすい
だから「内申は理不尽だから無視する」「内申が低いから将来は決まった」のどちらも正しくない。
当日点と内申点を分けて考える
蓮の中一・中二の記録は変えられない。しかし、中三の定期テスト、提出物、授業参加は今から改善できる。
さらに、学校によって選抜方法は異なる。琉星学院のように当日点を重視する私立、高専を含む別の選択肢もあり得る。ただし、「内申が不要」と「簡単に合格できる」は別である。当日点型なら、その分だけ本番で要求される学力が高くなる場合がある。
三分で確認しよう
候補校を一校選び、最新の募集要項から次の三つを書く。
・内申点の扱い:
・当日点の扱い:
・面接、実技、資格などその他の条件:
制度は地域、学校、年度で変わる。保護者自身の受験経験だけで判断せず、必ず最新情報を確認する。
保護者の方へ
内申点を上げるために、親が提出物、時間割、教材、教師への応答まで管理すると、一時的に数字が上がっても、子どもが自分で調整する力を失うことがある。
必要なのは放任か支配かの二択ではない。制度と期限を一緒に確認し、本人が次の行動を決め、実行後に振り返る。その支援が望ましい。
また、内申の低さを「だらしない性格」と結びつけない。未提出の背景には、理解不足、忘却、生活リズム、家庭環境、完璧主義など、異なる原因がある。
神崎の一言
「過去の評定は消せん。だが、過去の評定だけで受け方まで決める必要はない」




