第2章 偏差値35の現在地
死んだ人間にも、検索結果は残る。
翌朝、蓮はベッドの中でそのことを知った。
検索窓へ「神崎零司」と打つ。予測変換は、蓮より先にその男を知っていた。
神崎零司 英語
神崎零司 東央ゼミナール
神崎零司 参考書
神崎零司 炎上
神崎零司 Dクラス
「炎上してんじゃん」
枕元に立つ神崎は、腕を組んだまま鼻で笑った。
「火のないところに煙は立たん。人気のあるところには、火がなくても立つ」
「うまいこと言った顔すんな」
画像を開く。
革ジャン。リーゼント。サングラス。講義中だというのに、片手をポケットへ入れている。教壇の背後には〈都立最難関・合格請負人〉と大きく印刷されていた。
今、蓮の部屋にいる男と同じだった。正確には、写真の方が少しだけ整っている。リーゼントの先端に迷いがなく、革ジャンにも艶があった。
「この写真、右から撮れと言ったはずなんだがな」
「死んだ記事より先に、写り気にする?」
「広報は最後まで人の話を聞かなかった」
神崎は画面をのぞき込んだ。指先がスマートフォンを通り抜ける。分かっていても、蓮の背中に冷たいものが走った。
記事には、東京の大手進学塾・東央ゼミナールで英語科講師として頭角を現し、のちに高校受験部門を統括したとある。五教科の答案分析と受験戦略で知られ、在籍は二十年以上。著書は十数冊。映像講座の受講者は全国にいた。三年前、五十八歳で死去。
死因までは書かれていない。
スマートフォンの下には、昨日の成績票が半分隠れていた。
五教科一〇〇点。偏差値三十五。
「百点なのに、なんで三十五なんだよ」
「別の数字だからだ」
神崎は成績票をのぞき込んだ。
「点数は、その試験で何点取ったか。偏差値は、同じ試験を受けた集団の中で、どの位置にいるかを表す。平均が五十だ」
「じゃあ三十五は」
「平均より、かなり下だ」
「言い方」
「数字へ気を遣っても位置は上がらん」
同じ百点でも、問題が難しく全員の点が低ければ価値は変わる。反対に、易しい試験で周囲がもっと取っていれば、百点でも位置は低い。点数だけでは、難しさの違う試験同士をそのまま比べられない。そのために偏差値がある。
「ただし、受けた集団が違えば偏差値も別物だ。県内模試と全国模試、学校の実力テストを、数字だけで横一列に並べるな」
蓮は三十五を見直した。
悪口ではなかった。今いる場所の座標だった。
そして座標は、目的地ではない。
動画を再生すると、若い神崎が黒板の前を横切った。
『できない理由を、才能にするな。才能という言葉は便利だ。調べる手間が省ける』
画面の神崎が、サングラスの左端を中指で上げる。
蓮は、部屋にいる神崎を見た。
同じ指が、同じ場所へ動いた。
「これ、誰でも真似できるだろ」
「朝からワシの物真似をする中学生がいるなら、会ってみたいものだ」
「本人だって証明にはならない」
「結構。疑う頭は残っているらしい」
検索結果へ戻る。〈神崎零司、突然の降板〉という見出しを押そうとしたとき、階下から母の声が飛んだ。
「蓮! あと十分!」
「今行く!」
スマートフォンを伏せる直前、検索候補の最後の文字が目に残った。
Dクラス。
神崎が見捨てたという、百点の生徒。
「そのDクラスって――」
「遅刻するぞ」
神崎はもう、窓の外を見ていた。
*
その日の放課後、神崎は八月までの計画を三分で作った。
正確には、作ったつもりになった。
「最初に断っておく。ワシは東京の入試を教えてきた。沖縄の制度も、今年の学校日程も、知らんことは知らん。そこは調べる」
「伝説なのに?」
「伝説は自治体の募集要項まで暗記する病気ではない」
神崎が決められるのは、今ある答案から見える優先順位だった。
「平日は数学と英語を毎日。理社は交互。国語は週三回、説明文の設問要求と根拠確認。英単語は中一範囲から洗い直す。数学は正負の数、文字式、方程式。復習は翌日、三日後、一週間後――」
「待って」
「まだ骨組みだ」
「もう内臓まで見えてる」
蓮のノートには、四月、五月、六月、七月、八月と並んでいた。矢印が数学から英語へ、英語から翌日へ、三日後から一週間後へ伸びている。
一つずつなら読める。
全部を同時に見せられると、どこから始めるのか分からない。
「八月の県内模試で百三十五点。数学と英語は基礎問題正答率七割。そのためには六月までに――」
「ちょっと黙って」
神崎が口を閉じた。
蓮は、ノートを見下ろした。
「何から?」
「今言っただろう」
「だから、どれから」
「数学だ。大問一の解き直し。その後、英単語の診断を――」
「解き直しって、どれ」
神崎は、昨日の答案へ目を向けた。
「最初からだ」
「全部?」
「間違えた問題を分類しただろう」
「分類しただけ。直してない」
神崎の眉間に、革ジャンより古そうなしわが寄った。
「では二十分、数学をやれ」
蓮は問題冊子を開いた。
最初の式は、−3(2x−5)+4(x+1)。正しく整理すれば、−2x+19になる。
マイナスを外へ出すと、括弧の中の符号が変わる。そこまでは聞いたことがある。では、前に数字がついていたら、どれを先に掛けるのか。途中式はどこから書くのか。そもそも、昨日の自分がどこで間違えたのか。
「まず分配しろ」
「分配って?」
「括弧の外の数を、中の各項へ掛ける」
「各項って?」
「二エックスと、マイナス五だ」
「なんでそこはマイナス五?」
「式に書いてある」
「括弧外したらプラスになるんじゃないの?」
「だから、外のマイナス三を掛けて――」
説明が一つ増えるたび、分からない場所が二つになった。
ノートの上に、見えない文字が積み上がっていく。
分配法則。符号。同類項。途中式。正負の数。計算順序。
神崎の声は明瞭だった。明瞭な言葉が多すぎると、それは雑音とよく似ていた。
蓮はシャープペンを置いた。
「まだ七分だ」
机の端の時計を見て、神崎が言った。
「もう七分だよ」
「二十分も座れないのか」
蓮は椅子を引いた。
「できるやつの二十分と、俺の二十分は同じじゃない」
「時間は誰にでも同じだ」
「中身が違うって言ってんの」
「分からなければ聞け」
「聞いたら、分からない言葉が増えた」
神崎の口が止まった。
蓮は階段を下りた。冷蔵庫を開けても、麦茶と卵しかない。母からメッセージが来ていた。
〈今日も夜勤。冷凍のタコライス食べて。遅くならないでね〉
〈りょ〉
返事を送り、そのまま動画アプリを開いた。
一本だけ見るつもりだった。
短い動画は、終わる前から次の動画を用意している。蓮が何を選ぶか迷うより先に、画面の方が蓮を選んだ。
「勉強はどうした」
気づけば神崎が冷蔵庫の横にいた。
「休憩」
「七分で?」
「腹減ってたら集中できないだろ」
「食べながら動画を見る必要はない」
「調べものにも使うんだよ、スマホは」
「今、何を調べている」
画面では、犬が飼い主の靴下を奪って逃げていた。
「犬の……行動心理」
「立派な研究だ」
蓮は動画を止めた。
スマートフォンをリビングへ置き、自室へ戻る。階段を上がる間だけは、少し自分が変わった気がした。
机へ座る。
分配法則の意味を調べようとして、スマートフォンが下にあることに気づいた。
「取ってくる」
「参考書を見ろ」
「どこに載ってるか分かんない」
「目次がある」
「目次の言葉が分かんない」
神崎は黙った。
蓮はノートの計画表を見た。八月までの線が、今いる四月から遠く延びていた。
紙の端をつまむ。
破れば、できなかった証拠は消える。
だが、これは神崎が書いた紙ではない。神崎は物に触れられない。矢印も日付も、言われるまま自分の手で書いたものだった。
蓮は丸めかけた紙を、机へ戻した。
勉強はしなかった。
答案も、計画表も、捨てなかった。
*
翌日の塾で、蓮はいつもより早く自習室へ入った。
神崎がいるせいではない。
美咲がいたからだ。
窓際の席で英語の問題集を開いている。髪を耳へ掛け、細い付箋の並んだページに何かを書き込んでいた。
「早いね」
美咲が顔を上げた。
「まあ、八月から逆算すると、この時間も使わないと」
神崎が隣でサングラスを下げた。
「何を言っている」
蓮は聞こえないふりをした。
「今は基礎正答率を上げる時期だから。応用より、まず土台っていうか」
「昨日と言ってること、違わない?」
「分析した結果」
「ワシが分析した」
「うるさい」
「え?」
美咲が瞬いた。
「いや、こっちの話」
蓮は数学の答案を机へ出した。自分でも少しだけ、勉強する人間に見えた。
美咲は赤い斜線の並ぶ大問一を見た。
「じゃあ、これはもう直せる?」
指先が、最初の計算問題の手前で止まる。答案には触れない。幼い頃から、美咲は人の物を勝手に動かさなかった。
「まあ、これは符号の問題だから」
「うん。どうするの?」
蓮は式を見た。
昨日より分かるようになってはいなかった。ただ、昨日どこで分からなくなったかだけは覚えている。
「外のマイナスを……あれだよ。中に」
「分配する」と神崎が言った。
「分配する」
「何を?」
「マイナスを」
「マイナス三だ。数まで言え」
「マイナス三を」
「どこへ?」
「各項へ」
「各項って、どれ?」
美咲は意地悪をしているのではなかった。声が柔らかいほど、答えられないことだけがはっきりした。
神崎の説明が右から入る。美咲の質問が正面から来る。
蓮の頭の中で、二人の声が同じ場所を取り合った。
「もういいって」
答案を閉じた。
美咲の手が引っ込む。
「ごめん」
「別に。これくらい分かるし」
「分からないなら、分からないって言えばいいのに」
責める声ではなかった。
美咲は自分の席へ戻った。
神崎が何か言おうとした。
「今は黙って」
蓮は自習室のいちばん後ろへ移った。
年間計画のノートを開く。
数学。英語。理科。社会。国語。翌日。三日後。一週間後。
正しいことが、正しい順番で並んでいた。
蓮には、その正しさのどこから入ればよいのか分からなかった。
ノートを閉じる。
「逃げるのか」
「違う」
「計画を捨てれば、昨日までと同じだ」
「全部やれって言われると、俺は全部やらない」
神崎の眉が動いた。
蓮は五枚の答案から、数学だけを抜いた。
「今日は、これだけは逃げない」
最初の計算問題。
マイナス三、括弧、二エックス、マイナス五。後ろに四、括弧、エックス、プラス一。
蓮は一度解いた。
答えは合わなかった。
「ほらな」
「誰に言っている」
「俺に」
解説を開く。
外の数を、括弧の中の二つへそれぞれ掛ける。途中式を指でなぞる。一度読んだ。ノートへ写そうとして、神崎が止めた。
「閉じろ」
「まだ覚えてない」
「覚えていないから閉じる」
「意味分かんない」
「今の説明を、自分の言葉で言え」
蓮は解説を伏せた。
「外の数字を、中の……二つに掛ける」
「二つとは?」
「二エックスと、マイナス五」
「続けろ」
「マイナス三掛ける二エックスで、マイナス六エックス。マイナス三掛けるマイナス五だから、プラス十五」
言葉にすると、どこが曖昧なのか自分の耳にも分かった。
もう一度、白紙に式を書く。
途中式を一行ずつ置いた。
同じ文字の項をまとめる。
答えを書き、解答を見る。
合っていた。
答案全体を埋めた赤い斜線は、一本も消えない。百点も変わらない。八月の百三十五点には、あと三十五点ある。
それでも蓮は、最初の問題の横へ赤ペンで小さな丸をつけた。
「一問」
神崎が言った。
「一問だな」
「一問で満足するな」
「今ちょっと、いいこと言う流れだっただろ」
「一度できただけでは、解説を記憶している可能性がある。明日、何も見ずにもう一度やれ」
「褒めると死ぬ病気?」
「もう死んでいる」
蓮は笑いそうになった。神崎は笑わなかった。
代わりに、机の上の計画表を見た。
「ワシの計画が、お前の現在地より先を歩いていた」
「それ、先生が悪かったってこと?」
「計画が悪い。ワシまで悪いとは言っていない」
「そこ認めろよ」
「八月までには認めてやる」
蓮はスマートフォンを取り出した。
カレンダーに〈明日、同じ一問〉と打つ。
昨日までなら、そんな予定は馬鹿らしいと思っただろう。一問を解くために、予定まで入れる。できるやつは、そんなことをしなくてもできる。
だが、できるやつの二十分と、自分の二十分は同じではない。
なら、自分の二十分を作るしかなかった。
「蓮」
美咲が机の横に立っていた。
蓮は反射的にスマートフォンを伏せた。今度は答案を隠さなかった。
美咲は、小さな丸を見た。
「これ、自分で解いたの?」
答えようとしたとき、美咲の鞄から紙が滑り落ちた。
二つ折りの進路希望票。
蓮より先に、神崎が床を見た。
志望校の欄には、琉星学院高等部。
その下の志望理由だけが、きれいに空いていた。
神崎の赤ペン補講 第2回「計画を立てるほど、勉強できなくなる理由」
計画は、細かければ細かいほどよいわけではない。
最初の計画で神崎は、八月の百三十五点から逆算し、五教科の学習をすべて並べた。内容は合理的だった。それでも蓮は動けなかった。処理しなければならない情報が多すぎて、「今、何をするか」を選べなくなったからだ。
これは目標がない状態とは違う。目標が多すぎる状態である。
悪い計画
「数学を頑張る」
「英語を毎日やる」
「八月までに全部復習する」
これでは、教材を開いた直後の行動が決まらない。
行動できる計画
「午後八時に机へ座り、四月模試の数学大問1の一問目を解き直す」
「解説を読んだら閉じ、途中式を何も見ずに再現する」
「翌日、同じ問題をもう一度解く」
大きな目標は方向を示す。小さな目標は身体を動かす。両方が必要だ。
一方、目標を小さくすることは、易しい問題だけを選んで満足することではない。今日の一問が、八月の目標へどうつながるかを確認する。蓮の場合、数学大問1の基礎正答率を七割へ上げるための一問だった。
解説を「分かった」で終わらせない
解説を読むと、知っていたような気になる。しかし、本番では解説を見られない。
一度解説を閉じ、自分の言葉で手順を説明する。白紙に再現する。さらに翌日、もう一度解く。思い出そうとする練習と、時間を空けた確認によって、「見れば分かる」と「自力でできる」を分けられる。
なぜ点数ではなく、偏差値で比べるのか
点数は、そのテストで何点取ったかを示す。偏差値は、そのテストを受けた集団の中で、自分がどの位置にいるかを示す。
同じ100点でも、平均点が60点の難しい試験なら高い成績であり、平均点が150点の試験なら低い成績になる。点数だけでは、問題の難しさと周囲の出来を分けて考えられない。そこで、平均を50として、平均との差を同じ物差しへ置き換えたものが偏差値である。
基本式は次のとおり。
偏差値=50+10×(自分の得点−平均点)÷標準偏差
標準偏差とは、受験者の点数が平均からどれくらい散らばっているかを示す数字だ。仮に300点満点の模試で平均150点、標準偏差約33点なら、100点はおよそ偏差値35になる。
ただし、偏差値35は「蓮の能力が35点」という意味ではない。その模試、その時期、その受験集団の中での現在地にすぎない。受験者層が違う模試の偏差値を、そのまま横に並べることもできない。
点数と偏差値は、役割が違う。
・点数と正答率――何を身につけ、何を落としたかを見る
・偏差値――同じ模試を受けた集団の中での位置を見る
・誤答分析――次に何を変えるかを決める
神崎が蓮の答案を見るとき、偏差値だけでは指導しない。偏差値は現在地を示すが、どの道を歩けばよいかまでは教えないからだ。
三分でやってみよう
今夜の最初の一問を決め、次の三行を書く。
開始する時刻:
解く一問:
翌日の確認時刻:
問題集を一冊終える必要はない。ただし、決めた一問から逃げない。
保護者の方へ
立派な計画表を作ったことだけで安心しないでほしい。子どもへ「今から最初に何をする?」と尋ね、その答えが一つの行動になっているかを見る。
できなかったときは、意欲だけを疑わない。課題が大きすぎないか、説明に未知の言葉が多すぎないか、教材やスマートフォンの置き方に無理がないかを確認する。親が計画をすべて決めると、子どもは計画に従う力だけを学び、自分で修正する力を育てにくい。
神崎の一言
「立派な計画は、実行されなければ壁紙だ。今日の一問まで小さくしろ」




