第1章 百点の答案
結果を見る前から、蓮は敗因を知っていた。
「数学の後半、あれ無理だろ。作ったやつ、中学生に恨みでもあるんじゃねえの」
四月の県内模試。その返却を待つ教室で、蓮は前の席の陸へ言った。
「分かる。俺なんか昨日、部活で足つってたし」
「足で解く試験じゃないけどな」
二人で笑った。
ほかの席からも、よく似た声が聞こえた。時間が足りなかった。隣の貧乏揺すりが気になった。学校でまだ習っていないところが出た。
答案を見ていないうちは、どの言い訳にも点数がつかない。
「新垣」
呼ばれて教卓まで行く。
講師は、五枚の答案と個人成績票を重ねて差し出した。
国語、二十八。
数学、十七。
英語、十四。
理科、十九。
社会、二十二。
各教科六十点、五教科三百点満点。合計欄には、一〇〇と印字されていた。
三桁だった。だから何だ、と自分でも思う。それでも二桁でなかったことに、ほんの少し救われた。
「この結果を見て終わるな」
講師は成績票へ目を落としたまま言った。
「何を変えるかまで考えろ。点数は、そのために返してる」
「あ、はい」
席へ戻り、座る前に蓮は答案を掲げた。
「ぴったり百点。逆に才能じゃね?」
陸が吹き出し、近くの二人も笑った。
先に笑いを取れば、笑われたことにはならない。蓮はそういう勘定だけは速かった。
答案の角をそろえるふりをして、合計欄を親指で隠す。
「蓮」
宮城美咲が立っていた。
白いブラウスの袖を肘まで折り、答案を胸元へ抱えている。一番上の国語には五十二と見えた。
蓮は自分の答案を裏返した。遅かった。
「百点……?」
「今回、問題が悪いって。特に応用。あれ、取らせる気ないだろ」
美咲の目が、合計欄から数学の一枚目へ移った。
大問一。最初の計算から赤い斜線が続いている。
「後半だけ?」
声は責めていなかった。
そのせいで、蓮は責められたときより腹が立った。
「部活もあるし。次は普通に上がるから」
「うん」
美咲は答案を取り上げず、励ましもしなかった。
何も言われなかったことが、百点より痛かった。
*
塾を出ても、夜気には昼の熱が残っていた。送迎の車が路肩へ短い列をつくり、植え込みから湿った土の匂いが上がっている。
蓮と美咲はバス停まで歩いた。小学生の頃から何度も通った道だ。中学へ入ってから、同じ道を並んで歩く日は少なくなった。
「二百二十八」
蓮は前を向いたまま言った。
「見たの?」
「見えるように持ってただろ」
「そんなつもりないよ」
「十分高いじゃん」
「三百点満点だよ」
「百点から見たら天才」
美咲が笑った。
さっき教室で起きた笑いとは違う。蓮も一緒に笑ってよい笑いだった。それが妙にうれしく、同じくらい情けなかった。
「志望校、もう決めた?」
「まだ。行けるとこでよくない?」
「そう」
「美咲は琉星だろ」
琉星学院高等部。県内最難関の私立高校で、中高一貫校を併設している。高校入試は国語・数学・英語の三教科、各百点。内申より当日点を重く見て、上位合格者には特待制度がある。
偏差値七十五。
蓮の成績票にある三十五とは、同じ種類の数字に見えなかった。
「うん。お母さんも塾の先生も、そこがいいって」
「美咲も行きたいんだ?」
歩幅が半歩だけ乱れた。
「頑張った分が、ちゃんと結果になるところなら、どこでもいい」
美咲は笑っていた。相手が安心するように、角をすべて丸めた笑顔だった。
バスが来た。
「じゃあ、また明日」
美咲が乗車口へ向かう。
「俺も受けようかな。琉星」
口を出た瞬間、冗談になった。
美咲も冗談として受け取った。
「まず答案、見直しなよ」
扉が閉まる。窓越しに、美咲が進路資料を開いた。
バスが走り去ってから、蓮は鞄を肩へ掛け直した。
「見直して、何が変わるんだよ」
鞄の中で紙の折れる音がした。
*
母から、今日も遅くなるとメッセージが届いていた。
蓮は冷蔵庫の弁当を温めずに食べた。バスケットボール部の練習があった日は、風呂から上がって横になると、身体がそのまま床まで沈む気がした。
短い動画を三本だけ見るつもりだった。
四十分後、床には答案が散ったままだった。
数学の一枚を拾い、合計欄を見ないまま丸める。
「いらね」
ゴミ箱へ投げた。
外れた。
落ちた答案を、黒い革靴が踏んだ。
蓮は顔を上げた。
長身の男が立っていた。黒い革ジャン。胸ポケットに赤ペン。夜の室内でサングラスを掛け、髪は笑えるほど高く後ろへ流れている。
昭和の不良映画から出てきたような格好なのに、答案を見下ろす姿には妙な隙がなかった。
「百点の答案を捨てるな」
声は低かった。
「そこには、お前が捨てた二百点の場所が書いてある」
蓮は叫び、枕を投げた。
枕は男の胸を抜け、壁へ当たった。
男が枕を見た。蓮も見た。
「……は?」
「今のが、お前の危機対応か」
「誰だよ! どうやって入った!」
「神崎」
「名字を聞いてんじゃねえ!」
「神崎零司。東京の東央ゼミナールで二十六年、受験指導をしていた」
「していた?」
「死んだからな」
蓮はドアまで下がった。
「母さん!」
叫んでから、母が夜勤でいないことを思い出す。
「近所迷惑だ。ワシはお前にしか見えん」
「幽霊?」
「その呼び方は嫌いだ」
「じゃあ何だよ」
「講師だ」
「その格好で?」
「格好で点が上がるなら、お前は裸でも同じだ」
「守護霊とか?」
「お前を守る趣味はない。教える。やるかどうかは、お前が決めろ」
「何を」
神崎は革靴の下の答案へ目を落とした。
「お前が、なぜ百点しか取れなかったかを」
*
五枚の答案を床へ並べた。神崎は紙に触れられない。並べたのは蓮だった。
「数学」
「後半が難しすぎた。時間も足りなかった」
「なら、前から見る」
神崎の指が一問目の途中式をなぞる。触れていないはずなのに、どこを指しているかだけは分かった。
−3を括弧の中へ掛ける計算で、蓮は符号を落としていた。
「計算ミス」
「便利な言葉だな。何も説明しておらん」
「マイナスを間違えた」
「どこで」
蓮は途中式を追った。
「……マイナス三と、マイナス五」
「掛ければ?」
「プラス十五」
「二点は難問の奥にない。符号一個の裏に落ちとる」
次は作図だった。蓮の答案には、目分量の線と、申し訳程度の弧が残っている。
「直角っぽいだろ」
「直角っぽい線を引けとは書いていない。直角になる理由を、コンパスで紙へ残せと書いてある」
隣の証明問題は白紙だ。
「これは時間切れ」
「前半を見直さず、解けない後半を眺め続けたからじゃ」
「さっきから言い方むかつくな」
「点数はもっとむかつくだろ。英語」
My brother go to the library yesterday.
神崎がyesterdayを指す。
「過去形」
「分かってる」
「分かっておらんからgoと書いた」
「今なら分かる」
「答えを見た後なら、誰でも天才になれる」
英作文は八語で終わっていた。指定は十五語以上。自分の意見と理由を一つ。条件の半分も満たしていない。
「英語力以前に、日本語で書かれた条件を読んでおらん」
理科では、質量五十四グラム、体積二十立方センチメートルを、二十÷五十四とした。
「公式が、どっちか分からなくなっただけ」
「一立方センチメートル当たり何グラムか。それが密度じゃ。意味を考えれば、割る向きは決まる」
社会。開国、明治維新、廃藩置県、地租改正。
「単語は知ってる」
「四つの名前を見たことがあるだけじゃ。なぜその順番なのか説明できん」
最後に国語。
説明文には、線が一本も引かれていない。
『この逆説』とは何か。本文中の言葉を用いて、三十五字以内で説明しなさい。
蓮の答えは、『効率よくすると逆に大変になること』。
「意味は合ってるだろ」
「分かった気持ちは採点できん。本文のどこを、どうつないだ」
「国語なんて答え方の好みじゃん」
「本文中の言葉を使え。三十五字以内。条件が二つある。お前は筆者の文章を読まず、自分の感想を書いた」
五枚の答案が床に並んでいる。
教科は違う。赤い斜線のつき方も違う。
「見たことがあるから、分かったと思う。条件を最後まで読まない。間違えれば問題のせいにする。解説を見た後は、最初から知っていた顔をする」
「うるさい」
「五教科で、五通りに負けたと思うか」
「黙れよ」
「同じ逃げ方を、五教科で繰り返しただけじゃ」
蓮は答案をかき集めた。
「死んだくせに、偉そうに言うなよ」
神崎は怒らなかった。
胸ポケットの赤ペンを握る。太い指が、わずかに透けていた。
「そうだ。ワシは死んだ」
サングラスの奥が、蓮ではない誰かを見た。
「だから、やり直せん」
何を、と聞く前に、神崎は数学の答案へ向き直った。
「お前はまだ、生きとる」
*
「どこへ行きたい」
神崎に問われ、蓮は答えられなかった。
行ける高校へ行く。それ以外を考えたことがない。自分で選ばなかったのではない。選ぶ前から、自分の席などないと思っていた。
「琉星」
ようやく言うと、神崎は眉一つ動かさない。
「琉星学院。偏差値七十五。お前は三十五。内申百十」
「知ってるのかよ」
「県は違っても、数字は読める」
「美咲が行く」
「彼女が行くから?」
「悪いかよ」
「悪くない。始める理由など、少しくらい格好悪い方が長持ちする」
「じゃあ――」
「ただし、女の進路を、お前の恋愛の筋書きへ入れるな」
「入れてねえよ!」
「同じ高校へ入ることと、同じ人生を歩くことは別じゃ」
「説教くさ」
「講師だからな」
神崎は初めて、口元だけで笑った。
「追いたければ追え。その代わり、追いついたときに自分の行き先を選べる頭を作れ」
蓮は引き出しから進路希望調査票を出した。一度丸めた紙には、細かな皺が残っている。
第一志望の欄へ、琉星学院高等部と書いた。
『琉』の最後の払いで、紙の表面がわずかに削れた。
「何からやればいい。数学? 英語? 一日何時間?」
「その質問がもう間違っておる」
「は?」
「やる気がある夜に、人生全部を決めるな。三日で嫌になる計画を作るだけじゃ」
神崎は八月の県内模試の日程を確認させた。
「まず百三十五点」
「たった三十五点?」
「百点の人間にとって、次の三十五点は道に落ちた小銭ではない。今までの習慣の中に埋まっとる」
数学と英語は、基礎問題の正答率七割。
琉星学院の合格圏には遠い。それでも、一〇〇よりは自分に関係のある数字に見えた。
「今夜は勉強するな」
「さっきまで散々言っといて?」
「先に、自分がどう負けたかを知れ。知識不足、手順不足、読み違い、条件漏れ、計算ミス、時間不足、無回答。誤答を分ける」
「面倒くさ」
「難問を眺めて被害者になるよりは、少し面倒じゃ」
蓮は赤ペンを持った。
数学の最初の誤答へ戻り、余白へ『符号』と書く。
二文字だった。
「まず一問」
窓際で神崎が言った。
蓮は返事をせず、丸めた跡の残る答案を伸ばした。
神崎の赤ペン補講 第1回「ケアレスミスで終わらせるな」
「ケアレスミスだった」は、反省ではない。起きた結果に名前をつけただけだ。
蓮は、数学の失点を「難問が解けなかったせい」にした。だが答案を戻って見れば、最初の計算で符号を落とし、英語では中学一年・二年の基本単語が出てこない。理科では密度の式を逆に使い、社会では出来事の順序が整理されていない。国語では、三十五字以内という条件を読み落とし、本文へ線も引かずに記憶だけで答えていた。
五教科で違う間違いをしたように見えても、失点の原因は次の七つに分けられる。
一 知識不足――英単語や用語を知らなかった。
二 手順不足――解き方の順序が身についていなかった。
三 読み違い――問題文の意味を取り違えた。
四 条件漏れ――字数、単位、「二つ選べ」などを見落とした。
五 計算・操作ミス――符号、移項、約分、書き写しを誤った。
六 時間不足――解く順番や時間配分に問題があった。
七 無回答――分からないまま止まり、推測や部分点を取りにいかなかった。
原因が二つ以上あるときは、最初に答案が正解から外れた地点を一つ選ぶ。たとえば、密度の公式を覚えていても割る順序を逆にしたなら「手順不足」。公式そのものを思い出せなかったなら「知識不足」だ。同じ不正解でも、次にする勉強は変わる。
誤答分析の四手順
一 間違えた問題だけを並べる。
二 七分類から主な原因を一つ書く。
三 次回の具体的行動を一文にする。
四 翌日、答えを見ずにもう一度解く。
「気をつける」「復習する」では行動にならない。「計算の符号へ丸をつける」「英単語を二十語、何も見ずに書く」「説明文の条件語を四角で囲む」まで具体化する。丸つけ直後に解けても、解説を覚えているだけかもしれない。少し時間を空けて思い出すことで、本当に自力で取り出せるかを確かめられる。
三分でやってみよう
直近の答案から誤答を一問だけ選び、次の三行を書く。
原因:
次回:
翌日の解き直し:○/×
一問でいい。大切なのは、失点を性格のせいにせず、修正できる行動へ変えることだ。
保護者の方へ
「どうしてこんなケアレスミスをしたの」「もっと注意しなさい」だけでは、子どもは直し方を学べない。「どの行から答えがずれた?」「次は何を印につける?」と、結果ではなく過程を一緒に見てほしい。ただし、七分類を叱る材料にしてはいけない。目的は責任追及ではなく、次の一手を見つけることである。
神崎の一言
「ケアレスミスは原因じゃない。原因を調べるのをやめた人間が貼る、便利な札だ」




