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第37章 琉星学院入試

 バスの右側には、誰も立っていなかった。

 蓮は二度目を見ないよう、窓へ顔を向けた。

 朝の道路は乾いている。制服の袖から入る風だけが冷たかった。膝の上の鞄には、受験票、筆記用具、時計、昼食、三教科の要点を一枚ずつにした紙。それから、最後のページが半分空いた学習ノートが入っている。

 スマートフォンが震えた。

〈帰り、時間が分かったら連絡して〉

 母からだった。

〈了解〉

 「絶対に受かって」も、「大丈夫」もなかった。

 蓮は画面を消した。

 神崎なら、前日の母親の言葉まで分析したかもしれない。期待を言葉にしない親の心理、失敗した子どもへ逃げ道を残す効果、あるいは単に朝の支度で忙しかった可能性。

 今は、どれでもよかった。

 帰る時間が分かったら連絡する。

 それだけは自分でできる。

 琉星学院の校門前には、受験生と保護者と塾講師が重なっていた。

 黒瀬はいつもの整ったコート姿で、塾生へ受験票の確認をさせている。合格実績の旗も、必勝と書いた鉢巻きもなかった。

「解けない問題は出ます」

 黒瀬は集まった生徒へ言った。

「それは、あなたの人格について出題しているわけではありません。解ける問題へ移ってください」

「激励が冷たい」

 蓮が言うと、黒瀬は時計を見た。

「温度を上げる時間はありません」

「最後までそれかよ」

「最後だからです」

 人の間から、美咲が出てきた。手には薄い手帳だけを持っている。新しい参考書はなかった。

「おはよう」

「眠れた?」

「六時間半」

「微妙だな」

「蓮は?」

「七時間」

「勝った顔しないで」

「本番前の一勝」

 美咲は校舎を見上げた。以前なら、その横顔から不安を消す言葉を探しただろう。

「終わったら、あそこの時計の下」

 蓮は玄関脇の大時計を指した。

「うん」

「頑張れ、は?」

「言ってほしい?」

「別に」

「じゃあ言わない」

「そこは言えよ」

 美咲が少し笑った。

 受験番号ごとに、二人の入口は分かれていた。

「後で」

「後で」

 それだけで、美咲は別の列へ入った。

 最初は国語だった。

 問題冊子を開いた瞬間、蓮は本文へ目を落としかけた。

 止める。

 設問を先に見る。

 二十五字以内。

 本文中の語句を用いて。

 理由を答えよ。

 三つへ短く線を引く。

 説明文は、効率と余白について書かれていた。知っている内容に見えた。分かった気になる文章ほど危ない。筆者の意見と、自分が同意した部分は同じではない。

 蓮は段落の横へ、小さく役割を書いた。

 問題提起。

 具体例。

 反論。

 結論。

 記述問題で、根拠が二つ見つかった。

 一つは、傍線の直前にある言い換え。もう一つは、次の段落にある具体例。

 以前なら、長くて難しそうな方を選んだ。難しそうな言葉ほど、正解らしく見えたからだ。

 設問へ戻る。

 理由を答えよ。

 本文中の語句を用いて。

 具体例そのものではない。筆者が理由として示した一文を使う。

 蓮は書きかけた答えを消した。消し跡の上へ、二十四字で書き直す。

 小説問題では、登場人物が友人の誘いを断る場面が出た。

 嫌いだから。

 迷惑をかけたくないから。

 自分だけ失敗するのが怖いから。

 どれもありそうに思えた。

 蓮は、自分ならどうするかを考えていることに気づいた。

 本文へ戻る。

 人物は誘いを断った後、友人の靴が見えなくなるまで玄関に立っていた。

 嫌いな相手を、見えなくなるまで見送る必要はない。

 答えを一つに絞る。

 古文は、知らない単語が二つあった。そこへ時間を使わず、主語が変わる場所と、設問で指定された行だけを追う。取れる三問を先に埋めた。

 終了五分前。

 記述の字数、抜き出しの位置、受験番号。

 最後まで見ても、正解した感覚はなかった。

 しかし、空欄はなかった。

 数学の冊子を開く。

 大問一。

 正負の数。文字式。平方根。一次方程式。確率。

 四月の蓮は、応用問題が解けないことへ文句を言いながら、この欄を落としていた。

 最初の計算を書く。

 符号。

 分母。

 移項。

 速く解くのではなく、止まらず解く。

 大問二の作図まで進んだ時、最初の平方根が気になった。

 見直す。

 符号が逆だった。

 胸の奥が急に熱くなる。

 全部間違っている気がした。

 大問一を最初から解き直したくなる。

 時計を見る。

 同じ計算を使った問題だけを確認する。

 一問だけ直し、先へ進む。

 関数は座標を図へ書き込んだ。証明では、覚えた文章をそのまま書き始めそうになり、仮定と結論を囲む。等しい辺。共通する角。対応順。

 暗記した証明は、問題の条件と合った時だけ答案になる。

 最終大問。

 図形の一問目は解けた。二問目も式が立つ。

 三問目は、補助線が見えそうだった。

 見えそう、という感覚が一番時間を奪う。

 残り十八分。

 問題番号の横へ印を付け、飛ばす。

 大問一へ戻る。

 確率の数え落としを一つ見つけた。二点か三点かは分からない。だが、さっきの難問より短い時間で直せた。

 残り六分。

 最終大問へ戻る。補助線を一本引く。相似になりそうな三角形を探す。

 途中式まで書く。

 残り二分。

 ペンを止めた。

 最後まで解けなかった。

 それでも、その問題へ試験全部を渡さなかった。

 休み時間になると、後ろの席で答え合わせが始まった。

「大問一の五番、三分の一だよな」

「え、二分の一じゃない?」

 蓮の指が筆箱の上で止まる。

 三分の一と書いた気がする。

 いや、直した後は。

 思い出そうとすると、書いた数字の形が崩れた。

 終わった数学の正解を知っても、英語の点は増えない。

 蓮は席を立ち、廊下で水を飲んだ。

 英語で三分止まったら、印を付けて移る。

 残り十五分なら長文へ戻る。

 全部を読もうとしない。

 学習ノートは開かなかった。

 もう書いてあることを、安心するためだけに読み直しても仕方がない。

 英語の問題冊子は、過去問より厚く見えた。

 実際のページ数は同じだった。

 長文の題材は、地域の水資源と観光について。見慣れない注釈が多く、設問は本文の順番に並んでいなかった。

 第一段落を読む。

 知らない単語がある。

 前後から意味を考える。

 二文目へ進む。

 主語を見失う。

 最初へ戻る。

 もう一度読む。

 内容がつながらない。

 時計を見る。

 一分四十秒。

 まだ大丈夫だと思った。

 第三段落まで進もうとする。設問へ目を移す。問一が本文の後半を参照している。過去問と違う。

 また冒頭へ戻った。

 三分十二秒。

 条件に達していた。

 それでも、あと一度読めば分かる気がした。

 蓮は鉛筆を強く握った。

 右斜め後ろには、誰もいない。

 声も聞こえない。

 次に何をするかを決めるのは、蓮だった。

 長文の問題番号へ印を付ける。

 ページをめくる。

 語句整序。

 対話文。

 英作文。

 英作文は、難しい表現を使わず、主語と動詞を一つずつ置いた。語句整序では時制と疑問文の語順を確認する。対話文は返答の前後を読む。

 取れる問題を埋めると、手の力が少し戻った。

 残り十六分。

 長文へ戻る。

 全文を理解しようとしない。

 設問二は、観光客が増えた後に地域が行った対策を尋ねている。該当する段落だけを探す。数字と接続詞を目印にする。

 設問三は理由。

 becauseの後ではなく、結果を受けた住民の判断を探す。

 単語が全部分からなくても、設問が必要とする場所は狭められる。

 残り四分。

 最後の選択問題が二つに絞れた。

 Aは本文前半の説明と合う。

 Cは結論の表現に似ている。

 似ている方が正解に見える。

 蓮はCへ変えかけた。

 手を止める。

 最初にAを選んだ根拠は、本文の一文だった。

 Cを選びたい理由は、結論と同じ単語が使われていることだけ。

 根拠は変わっていない。

 消しゴムを机へ戻した。

「やめてください」

 監督の声がした。

 答案用紙が前へ送られていく。

 蓮の最後の一問は、Aのままだった。

 廊下へ出ると、受験生の声が一度に戻ってきた。

 簡単だった。

 難しかった。

 英語が変だった。

 数学の最後が解けた。

 どの声も、自分の点数にはならない。

 蓮は窓際へ寄り、鞄から学習ノートを出した。

 最終ページを開く。

 上半分には、昨夜書いた条件分岐がある。

 下半分は空白だった。

 蓮は最初の一行へ書いた。

〈分からないまま、次を選んだ。〉

 玄関脇の大時計の下には、まだ美咲はいなかった。

 蓮は待つことにした。

 最後の一問を変えなかった。

 正解かどうかは、まだ誰も知らない。


神崎の赤ペン補講

試験中に点数を守る判断

一 満点ではなく総得点を取りにいく

入試は、すべての問題を解けた人だけが合格する試験ではありません。取れる問題を確実に取り、時間のかかる問題を選別します。

二 停止条件を決める

「もう少しで解けそう」は時間を奪います。「三分進まなければ印を付けて移る」など、事前に条件を決めます。

三 基礎問題を先に守る

難問一問と基礎問題一問が同じ配点の場合もあります。難問へ使う時間のために、基礎の見直しを失わないようにします。

四 終わった教科の答え合わせをしない

休み時間の答え合わせで、前の教科の点は増えません。動揺だけを次の教科へ持ち込むことがあります。水分、トイレ、持ち物、次教科の開始手順を優先します。

五 答えを変えるなら根拠も変える

最初の答えを必ず守る、という意味ではありません。読み落としや計算ミスなど、新しい根拠が見つかった場合は直します。周囲の音や漠然とした不安だけでは変えません。

六 分からなくても行動は選べる

正解が分からないことと、何もできないことは同じではありません。飛ばす、戻る、条件を読む、根拠を探す、時間を確認する。その時点でできる行動を一つ選びます。


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