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第36章 最後の授業

 合格最低点を越えた答案は、思っていたより軽かった。

 国語、七十四。

 数学、八十二。

 英語、六十四。

 合計、二百二十点。

 琉星学院の入試は、国語、数学、英語の三教科が各百点。三百点満点だ。前年の合格最低点は二百十四点。蓮の点は、そこを六点上回っていた。

「越えた」

 声に出すと、紙の数字が少しだけ本物になった。

 美咲が隣から答案をのぞく。

「うん」

「六点」

「うん」

「もっと喜んでいいだろ」

「安全目標は?」

 蓮は机の端に置いた学習ノートを閉じた。

 二百二十七点。

 最低点より十三点高く置いた、自分たちの目標だった。そこまでは、あと七点ある。

「人が喜んでる時に、次の数字を出すなよ」

「聞いたのは蓮でしょ」

「聞いてない」

「顔が聞いてた」

 美咲は笑わなかった。けれど、答案を返す指は少しゆるんでいた。

 教室の前では、黒瀬が成績一覧を確認していた。蓮の机まで来ると、答案三枚を順に見た。

「合格圏には入りました」

「ですよね」

「安全ではありません」

「一回くらい、最後まで褒められないんですか」

「合格発表の後なら検討します」

 黒瀬は英語の答案を指した。

「長文後半で九点落としています。数学は大問一で二点。国語は記述の条件漏れが三点。合計十四点。全部取れとは言いません」

「七点取れば安全目標です」

「目標は目標です。本番の最低点は、昨年と同じとは限らない」

 蓮は返事をしなかった。

 以前なら、黒瀬の言葉は志望校を下げさせるためのものに聞こえた。今は違う。数字は希望を潰すためにも、守るためにも使える。ただし、どちらに使うかを決めるのは、数字ではなかった。

「今夜、何をしますか」

 黒瀬が尋ねた。

 蓮は右斜め後ろを見た。

 神崎は窓際に立っていた。革ジャンも、サングラスも、馬鹿みたいに高いリーゼントも、まだ形を保っている。ただ、輪郭の向こうに窓枠が透けていた。

「神崎」

「ワシに聞くな」

 返事だけは速かった。

「まだ何も聞いてねえよ」

「顔が聞いておる」

 美咲が蓮を見る。

「今、私の言い方まねした?」

「してない」

 神崎が薄い口元を上げた。

「人は、自分で言えんことを、近くの誰かの言葉で言うことがある」

「最後まで余計な心理学を入れるな」

 黒瀬は蓮が黙っている間も待っていた。

 蓮は答案を三枚並べ直した。

「英語は、今日間違えた単語だけ。数学は大問一を時間を測って二回。国語は記述の条件確認を三問」

「新しい問題集は?」

「やりません」

「理由は」

「前日に、できない問題を増やしても点にならない。睡眠を削る方が損です」

 黒瀬は一度だけうなずいた。

「では、それで」

 褒められなかった。

 否定もされなかった。

 蓮は、その方が少しうれしかった。

 最後の授業に、教材はなかった。

 生徒の消えた自習室で、蓮は学習ノートの最終ページを開いた。上半分には横線を四本引き、下半分は空けた。

「英語の長文で止まった」

 神崎が言う。

「どんな問題?」

「知らん」

「単語が分からないのか、内容が――」

「知らん。三分、何も進まなかった。どうする」

「一回戻って読む」

「どこまで」

「最初から」

「二分使う」

「じゃあ、設問を見る」

「設問も分からん」

「うるせえな」

「本番はもっと無愛想じゃ」

 蓮は鉛筆を持ち直した。

 英語長文で三分進まなければ、問題番号へ印を付ける。次の設問へ進む。全問を一度見た後、残り時間が十五分以上なら戻る。

「十五分の根拠は」

「過去問で、見直しと戻りに平均十二分かかった。三分余らせる」

「よし」

 神崎は赤ペンを出さなかった。

「数学の大問一で、計算ミスに気づいた」

「すぐ直す」

「他の問題を二十分解いた後じゃ」

 蓮の鉛筆が止まる。

「戻る」

「全部解き直すか」

「間違えた問題と、同じ計算を使った問題だけ。大問一を全部やり直すのは最後」

「国語。答えの根拠が二つに見える」

「設問の条件へ戻る。理由を聞かれてるのか、気持ちを聞かれてるのか。字数も見る」

「開始直後、頭が白くなった」

「そんなの、どう決めるんだよ」

「決めるのは行動じゃ。気分ではない」

 蓮は、四本目の横線の下に書いた。

 開始後一分、文章が頭に入らなければ、受験番号を確認する。息を長く吐く。最初に解くと決めた問題の条件へ線を引く。

「呼吸で点が上がるのか」

「上がらない」

「では、なぜする」

「次の行動を始めるため」

 神崎は黙った。

「何」

「いや」

「間違ってる?」

「ワシの答えを探すな」

「聞いただけだろ」

「その聞き方が、答えを探しておる」

 蓮は鉛筆を置いた。

「じゃあ何のためにいるんだよ」

 言ってから、教室の空気が変わった。

 神崎の輪郭は、さっきより薄い。怒鳴れば戻るわけでもない。質問をやめれば長く残るわけでもない。

「教えるためじゃ」

「なら教えろよ」

「最後まで教えたら、お前は最後までワシを見る」

「明日にはいないかもしれないんだろ」

「だからじゃ」

 神崎の声は静かだった。

「明日の試験会場に、ワシは入れん」

「今までも学校には来てただろ」

「そういう意味ではない」

 分かっていた。

 蓮は分からないふりをしたかった。

 塾を出ると、美咲が門の横で待っていた。

 冬の沖縄は、風だけが季節を知っている。美咲は進路資料を抱えず、薄い手帳だけを持っていた。

「終わった?」

「たぶん」

「たぶん?」

「授業は終わった。終わったかは分からない」

 美咲は蓮の右後ろを見た。もちろん、そこにいる神崎は見えない。

「先生、いる?」

「いる」

「薄い?」

「失礼な言い方だな」

「聞こえないから言える」

 神崎が腕を組む。

「この娘は昔からワシへの敬意が足りん」

「お前のこと知らないだろ」

「誰と話してるか、前より分かるようになっただけ」

 美咲は歩き始めた。蓮も並ぶ。

「明日、受けるよ」

「知ってる」

「私が決めたから受ける」

「うん」

「蓮は?」

 最初は、美咲と同じ高校へ行くためだった。

 次は、美咲の未来を変えるためだった。

 どちらも嘘ではない。嘘ではないからこそ、他人の人生を自分の理由へ使うことができた。

「俺は、行ける場所を増やしたい」

「琉星に?」

「その先も。前は、どうせ無理って先に決めてた。明日は、受けてから決める」

「合格したら?」

「その時また決める」

「落ちたら?」

 蓮は少しだけ歩く速度を落とした。

「その時も決める」

 美咲の手帳の角が、街灯の下で白く光った。

「終わったら話そう」

「受かったら?」

「結果がどうでも」

「縁起悪いな」

「結果が悪いって意味じゃない」

「分かってる」

 二人は交差点で別れた。

 神崎が、信号の向こうへ消える美咲を見ながら言った。

「宮城が、明日になって別の学校を選んだら」

「選び直す」

「お前は琉星を受けるのか」

「受ける。今は俺が行きたい」

「その後、宮城がお前と別の人生を選んだら」

 蓮は赤信号を見た。

「それも、俺が決めることじゃない」

 青へ変わった。

「でも、話は聞く。勝手に大丈夫だと思わない」

「それで救えるか」

「知らない」

 蓮は横断歩道へ踏み出した。

「知らないから、本人に聞く」

 夜、学習ノートの下半分はまだ空いていた。

「なあ」

「何じゃ」

「神崎が見捨てた生徒のこと」

 神崎は答えなかった。

「俺が、代わりに――」

「やめろ」

 声は弱くなっていたが、言葉は鋭かった。

「まだ何も」

「分かる。ワシも同じことをした」

「同じ?」

「誰かを合格させれば、見捨てた一人が軽くなると思った。実績を積めば、判断は間違っていなかったことになると思った。ならん」

 神崎はサングラスを外した。

 蓮は、その顔を正面から見ることが少なかった。目元には怒りより疲れがあった。

「あの生徒を見なかったのは、ワシじゃ。お前の合格で帳消しにはならん。お前が良い人間になっても、ならん」

「じゃあ、何もできないのか」

「過去にはな」

 神崎は答えた。

「目の前の人間を、答案だけで決めるな。宿題を出さない理由を、やる気の一語で閉じるな」

「それをやったら、神崎は楽になる?」

「知らん」

「じゃあ、神崎のためにはやらない」

 神崎が眉を動かした。

「俺が、そうしたいからやる」

「そうか」

「合格?」

「何のじゃ」

「最後の授業」

「採点不能」

「逃げたな」

「教師は採点できん答案を見ると、急に教育論を語り始める」

「最低だな」

「知っておる」

 蓮はノートを持ち上げた。

「ここ、空いてる」

「見れば分かる」

「最後に何か書けよ」

 神崎は赤ペンを取り出した。

 紙へ先を下ろす。

 赤い線は出なかった。

「もう一回」

「何度やっても同じじゃ」

「やれよ」

 神崎はもう一度、空白へペンを走らせた。

 何も残らない。

 蓮は自分の鉛筆を持った。

「何て書けばいい」

「ワシに聞くな」

「最後くらい教えろ」

「空けておけ」

「なんで」

「明日のお前が書く場所じゃ」

「格好つけんな。リーゼントのくせに」

「髪形と発言の価値に相関はない」

「その髪形で分析を語るな」

 神崎が笑った。

 途中で、笑い声が消えた。

 口は動いている。音だけが届かない。

「神崎」

 声が戻る。

「どうする」

「何を」

「問題が違ったら。時間が足りなかったら。宮城が別を選んだら。ワシの教えが間違っていたら」

 蓮は空白を見た。

「全部、自分で選び直す」

 神崎はうなずかなかった。

 合格とも言わなかった。

 ただ、いつものように赤ペンを指の間で回そうとした。

 ペンが消えた。

 次に革ジャンの輪郭が窓の暗さへ溶けた。

 最後まで残ったのは、馬鹿みたいに高いリーゼントだった。

「そこ最後なんだ」

 蓮が言った。

 返事はなかった。

 瞬きをすると、神崎が立っていた場所には、壁と、机と、脱ぎっぱなしの制服しかなかった。

 朝、母親は玄関で三回、受験票を確認した。

「持った?」

「持った」

「鉛筆」

「ある」

「時計」

「ある」

「お金」

「あるって」

「帰り、何時」

「分からない。終わったら連絡する」

 母親は「絶対大丈夫」と言わなかった。

「行ってらっしゃい」

 それだけだった。

 蓮は靴を履き、いつもの右斜め後ろを見た。

「行ってくる」

 返事はない。

 一秒だけ待った。

 鞄の中には、三教科の道具と、最終ページの半分が空いたノートがある。

 誰も答えなかったので、蓮は自分の手でドアを開けた。


神崎の赤ペン補講

本番で計画が崩れたときの「もし~なら」

一 困る場面は三つまで

心配を無限に並べると、かえって動けなくなります。過去問や模試で実際に起きた問題から、重要なものを三つほど選びます。

二 条件を観察できる言葉にする

「焦ったら」では、人によって判断が変わります。

「三分間、解答が進まなかったら」

「残り十五分になったら」

のように、時間や行動で確認できる条件にします。

三 次の行動を一つにする

「落ち着く」「頑張る」ではなく、

「問題番号へ印を付けて次へ進む」

「設問の条件を読み直す」

「長く息を吐いて受験番号を確認する」

など、すぐ実行できる動作にします。

四 戻る条件も決める

飛ばすだけでなく、残り時間が何分なら戻るか、どの問題から見直すかを決めます。

五 不安を消すことを目標にしない

不安がなくならなくても受験はできます。必要なのは、不安がある状態で次の行動を選べることです。

六 前日は増やさない

新しい教材や大量の難問を増やすより、持ち物、睡眠、開始時刻、最初に解く問題を確認します。

 計画は、未来を当てるために作るのではありません。

 外れたときに、選び直すために作ります。


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