第35章 未来を忘れる先生
未来を知る男が、過去問の年度を間違えた。
「自由英作文は、三年連続じゃ」
神崎零司は断言した。
蓮は、琉星学院の過去問題集をめくった。
「二年だけど」
「その前も出た」
「形式が違う。これは条件英作文」
「同じようなものじゃ」
「神崎が前に、形式が違えば必要な練習も違うって言った」
神崎は黙った。
机の上には、五年分の英語問題が並んでいる。蓮は年度、設問形式、配点を表にしていた。神崎の記憶と一致しないのは一か所だけではなかった。
「理科の作図、去年は出てない」
「出た」
「どこ」
神崎は問題冊子を覗き込んだ。
ページをめくるのは蓮の指だった。神崎は物に触れられない。それでもこれまでは、必要なページを迷わず指した。
今日は、指が二度止まった。
「制度が変わったんじゃろ」
「この問題集、今年買ったやつ」
「ワシが知っておる年度とは違う」
「何年度を知ってる?」
答えが来なかった。
神崎はサングラスの位置を直そうとした。指がフレームを通り抜ける。いつものことだった。だが、その後もしばらく手を下ろさなかった。
「忘れたの?」
「人間は年度を忘れる」
「守護霊も人間に入るのか」
「元はな」
神崎は笑わなかった。
*
蓮は学習計画を、根拠ごとに分けた。
過去問で確かめたもの。
学校説明会で聞いたもの。
募集要項に書かれたもの。
模試結果から出したもの。
黒瀬や知念に確認したもの。
最後に、神崎から聞いただけのもの。
七つあった。
旧年度の出題傾向。
合格最低点の予測。
特定単元の出題確率。
コース分けの基準。
面接の扱い。
入学後の補習。
美咲が前の人生で選んだ科目。
蓮は赤い線を引いた。
「消すのか」
神崎が聞いた。
「根拠を入れ替える」
「ワシの経験は根拠にならんか」
「なる。でも、いつの経験か分からない。今も同じか確かめられない」
「ワシを疑うのか」
声が低くなった。
以前なら、蓮は反発した。今日は、その言葉の奥にあるものを先に見た。
「疑ってるんじゃない」
「同じじゃ」
「違う。神崎が間違ってるって決めたんじゃない。確かめられないものを、計画の土台から外す」
「ワシがおらんでも、同じことをするのか」
「いないなら、もっとやる」
口にした瞬間、二人とも黙った。
蓮は七項目を一つずつ置き換えた。
出題傾向は五年分を数える。
合格最低点は公開資料と塾の推定を分ける。
コース情報は学校へ問い合わせる。
面接は最新要項を見る。
入学後の補習は説明会のメモを使う。
美咲の未来だけは、置き換える資料がなかった。
*
「美咲が死んだの、何歳だった」
蓮は聞いた。
神崎の肩がわずかに動いた。
「四十になる前じゃ」
「前は三十代半ばって言った」
「同じようなものじゃ」
「高校で最初に成績が落ちたのは、何年?」
「一年の冬」
「二年の夏じゃなかった?」
神崎は答えなかった。
蓮は椅子から立った。
「じゃあ、何を変えればいい」
「蓮」
「琉星に行くのを止めればよかったのか。同じ高校にいればいいのか。高校で成績が落ちた時に――」
「分からん」
神崎の声は小さかった。
「分からんのじゃ」
「未来を見たんだろ」
「見たのではない。後から聞いた。断片を、自分に都合よく並べた。それすら、今は順番が――」
「じゃあ、俺は何のために」
「何してるの?」
美咲の声がした。
自習室の入口に立っている。
彼女には神崎が見えない。蓮が誰もいない窓際へ詰め寄っているようにしか見えなかった。
「また、未来の話?」
蓮は答えなかった。
「私の未来を、また誰かに聞いてる?」
以前の蓮なら、違うと言った。
美咲を守るためだと説明した。
安心させるために、大丈夫だと言った。
「聞いてた」
蓮は言った。
「怖いから。保証が欲しかった」
「何の」
「美咲が死なない保証」
美咲は手帳を抱え直した。
「そんなの、私にもできない」
「分かってる」
「分かってないから聞いたんでしょ」
言葉は鋭かったが、彼女は帰らなかった。
「保証はできない」
美咲はもう一度言った。
「でも、困った時に言うって約束ならできる」
「俺に?」
「あなたにも。お母さんにも、先生にも。必要なら、ほかの人にも」
蓮一人へ全部を預ける約束ではなかった。
だから、以前より信じられた。
「俺も言う」
「何を」
「怖い時。分からない時。計画が崩れた時」
「それ、もう何回か隠したよね」
「今から改善する」
「模試なら、まだD判定」
美咲は少し笑った。
神崎は二人を見ていた。
蓮は、その表情をうまく読めなかった。安心したようにも、置いていかれたようにも見えた。
*
「昔、一人おった」
帰り道、神崎が言った。
蓮は自転車を押していた。夜の歩道は昼間の熱をまだ残している。
「何が」
「ワシが、見落とした生徒じゃ」
神崎は、東京の教室を話し始めた。
模試の点。
遅刻の回数。
志望校。
保護者面談で母親が言った言葉。
宿題欄につけた印。
細部まで覚えていた。
「名前は?」
神崎が止まった。
「何て名前だった」
「……待て」
二人は横断歩道の前で止まった。信号が青になり、人が渡り始めた。蓮だけが動かなかった。
「男?」
「そうじゃ」
「何年生」
「中三」
「名前」
「分かっておる」
神崎は額へ手を当てた。
「分かっておるはずじゃ」
信号が赤に戻った。
「成績は覚えてるのに」
蓮が言った。
「黙れ」
「志望校も、遅刻も」
「黙れと言っておる!」
通行人が蓮を見た。神崎の声は聞こえない。蓮が一人で立ち止まっているように見えるだけだ。
神崎は息を整えた。
「忘れたのではない」
やがて言った。
「最初から、覚えようとしておらんかったのかもしれん」
蓮は否定しなかった。
大丈夫だとも言わなかった。
神崎が後悔している生徒は、一人ではなかった。合格実績の表で端へ追いやられた生徒。宿題をしない理由を「意欲不足」と書かれた生徒。家庭事情を説明できないまま退塾した生徒。
誰かの死を、神崎一人の指導へ結びつけることはできない。
それでも、本人の声より先に数字を覚えた責任まで消えるわけではなかった。
蓮は学習記録ノートの最後のページへ書いた。
名前不明。
中三。
神崎が覚えていること――点数、遅刻、志望校、母親の言葉。
神崎が思い出せないこと――本人の名前、本人の声。
「書くな」
「分からないまま残す」
「そんな記録に何の意味がある」
「勝手に答えを作らないため」
神崎は、それ以上止めなかった。
*
夜、自室で蓮は翌週の計画を直した。
神崎しか知らない未来情報は、すべて欄外へ移した。消さなかった。仮説と書いた。
使う資料には、年度と出所を書いた。
現行募集要項。
五年分の過去問。
学校説明会。
模試の単元別結果。
黒瀬の分析。
知念の助言。
自分と美咲の初見確認。
「これで、ワシはいらんか」
神崎が聞いた。
「そういう話じゃない」
「必要なことは全部、紙へ移した」
「全部じゃない」
「何が残っておる」
「想定外の時に、どう考えるか」
「それも書けばよい」
「書く。でも、神崎に聞く」
神崎の輪郭は、窓の暗さへ少し溶けていた。革ジャンも、リーゼントも、サングラスも同じ形なのに、線だけが薄い。
「消えるのか」
「分からん」
「いつ」
「分からん」
「戻る方法は」
「分からん」
神崎は、三度目の「分からん」の後で笑おうとした。
笑えなかった。
「怖い」
蓮は聞き間違えたと思った。
「何」
「怖いと言った」
伝説の講師は、答えを言い直す時だけ声が大きくなる。
「ワシが消えれば、未来は変わったということかもしれん。役目を終えたと、きれいに言うこともできる」
「うん」
「だが、ワシには次がない」
神崎は自分の手を見た。
「生徒の前から消えた後、どこへ行くのか分からん。何も残らんのかもしれん。怖い」
蓮は「大丈夫」と言いかけた。
飲み込んだ。
「俺も怖い」
神崎が顔を上げた。
「神崎がいなくなったら、正しいか聞けない。美咲の未来も分からない。入試で初めて見る問題が出たら、一人で決めるしかない」
「それが普通じゃ」
「普通でも怖い」
二人の間に、答えは出なかった。
それで会話は終わらなかった。
「明日から、残すものを決めよう」
蓮は言った。
「未来の答えじゃなくて。判断する時の質問」
「たとえば」
「時間が足りない時、何を守るか。予定外の問題が出た時、どこから見るか。美咲が別の進路を選んだ時、俺はどうするか」
「最後は受験ではないな」
「最初から、受験だけじゃなかっただろ」
神崎は赤ペンを取り出した。
物理的な赤ペンではない。神崎と同じ、蓮にしか見えない赤だった。紙へ触れられたことは、一度もない。それでも神崎が答案を指すと、昨日までは蓮にだけ赤い残像が見えた。
「ここじゃ」
神崎は、過去問の誤答へ線を引こうとした。
赤ペンの先が紙をすり抜けた。
赤い線は現れなかった。
神崎はもう一度、同じ場所へペンを下ろした。
紙に触れたことは、一度もない。
それでも昨日までは、蓮にだけ赤い線が見えた。
今夜は、何も残らなかった。
神崎の赤ペン補講
先生の言葉も、確かめてよい
先生や専門家の経験は、学習の強い助けになります。しかし、制度、入試傾向、費用、支援制度は変わります。経験則と、現在確認できる事実を分けましょう。
一 一次資料を確認する
入試制度、出願条件、試験日、学費、支援制度は、学校・教育委員会・国や自治体などの公式資料を確認します。
二 年度と地域を書く
「内申はこう計算する」「この問題が出やすい」という情報には、年度と地域があります。別年度や別地域の正解を、そのまま使わないようにします。
三 経験則と事実を分ける
「この単元は出やすい」は予測です。
「過去五年で三回出た」は確認できる事実です。
予測は役立ちますが、事実と同じ強さでは扱いません。
四 計画へ根拠を書く
各課題の横に、理由を短く書きます。
・模試で二回失点
・過去問五年で頻出
・翌日再現できなかった
・先生の提案。来週のテストで検証
五 確かめられない情報は仮説にする
未来の合格点や出題予想を、確定事項として計画の土台にしません。外れても修正できる余白を残します。
六 不確実な未来には、予言より修正可能性
「必ずこの問題が出る」より、
「出なかったら、どの問題へ時間を回すか」
を決めます。
先生の言葉を確かめることは、先生を否定することではありません。
よい指導の到達点は、生徒が先生の答えを覚えることではない。
先生がいない場所でも、自分で確かめ、選び直せることです。




