第32章 分かったつもり
赤い丸は、人を簡単に善人にする。
新垣蓮は、十八個並んだ丸を数え、昨日までの自分を少し許した。
数学二十問中十八問。隣の英語は二十問中十七問。塾の自習室には、冷房の音とシャープペンの転がる音しかなかった。窓の外では、まだ明るい空に街灯が一つだけ点いている。
「見たか」
蓮は答案を持ち上げた。
「誰に言っておる」
「見えてる奴に」
窓際に立つ神崎零司は、革ジャンの腕を組んだまま答えなかった。室内なのにサングラスを外さない。褒める気がない人間は、顔の半分を隠すといっそう腹が立つ。
「数学九割。英語八割五分。昨日まで四十二点足りなかった男が、今日から三十五点くらい足りない男になった」
「その引き算は、どういう根拠じゃ」
「勢い」
「受験制度に勢い点はない」
神崎は机の端を顎で示した。
そこには、見覚えのない二枚の紙が伏せてあった。蓮が表に返す。数学は、さっきと同じ二次関数と図形の問題に見えた。ただし数値が違い、図の向きが反転し、問われる順番も入れ替わっている。英語も、使われている文法は同じらしいが、主語も場面も変わっていた。
「誰が作った」
「ワシは物に触れん」
「じゃあ、誰が」
「知念に頼んだ。お前が寝不足で計画表を書き直しておる間にな」
嫌な予感は、よく当たる。試験より正答率が高い。
蓮は数学から始めた。
一問目は解けた。二問目も、たぶん。三問目で手が止まった。さっきの問題なら、放物線と直線の交点を先に出した。だが今度は、面積の条件が文の途中に紛れ込んでいる。どの数字をどこへ入れるのか分からない。
解法は知っているはずだった。
知っているはず、という言葉だけが頭の中にあった。
英語はもっと露骨だった。見覚えのある構文なのに、知らない単語が二つ続いた瞬間、その先の語順まで崩れた。読み返すほど、文が長くなった気がした。
丸付けを終えると、数学は十一問、英語は十問だった。
「問題が悪い」
蓮は言った。
「便利な言葉じゃな」
「聞き方がひねってある」
「本番が、お前の読みやすい聞き方を選んでくれるのか」
「でも、やった内容ではある」
「では聞く。お前が覚えたのは、解き方か。それとも紙面の景色か」
蓮は、最初の答案と二枚目の答案を並べた。
同じ赤い丸だった。一枚目では終わりまで濃かった鉛筆の跡が、二枚目では途中から薄くなっている。分かったつもりは、答案にすると色が薄い。
蓮は二枚を裏返した。
「もう一回やる」
「今すぐか」
「そうだけど」
「答えを覚えてから、自分を採点する気か」
神崎の声は笑っていなかった。
蓮は椅子の背にもたれた。自習室の時計の秒針が、妙に大きく聞こえた。
*
数学の解説を読み終えるまでに、三分もかからなかった。
「ああ、それか」
蓮は思わず言った。
「知ってた?」
「途中までは。ここで相似を使うんだろ。そう言われたら分かる」
神崎は、白紙を一枚、ではなく、白紙のある机を指さした。紙を動かしたのは蓮自身だった。
「では閉じろ」
「何を」
「解説をじゃ。最初から説明してみろ」
蓮は解説を伏せた。
図を描いた。条件を書いた。相似になる三角形を探した。さっきまで明快だった道が、白紙の上では二つに分かれ、その先で消えた。
「……ここの角が同じで」
「なぜ同じじゃ」
「平行だから」
「どの二直線が」
「それは」
蓮は解説へ手を伸ばしかけ、止めた。
「解説を読んだ後なら、ワシでも予言者になれる」
「伝説の講師が言うと、ただの自慢に聞こえる」
「ワシの自慢は、もっと高い」
少しだけ笑ってから、蓮は白紙を見た。
説明を読んだ瞬間に生まれた「分かった」は、消えたのではない。最初から、紙の上にしかなかったのだ。
「どうしたら、分かったって言っていい」
神崎は答えなかった。
この頃、そういうことが増えた。以前なら「結論から言う」と始めた男が、蓮の口から結論が出るのを待つ。
「見ないで説明できる」
「ほかは」
「次の日にも解ける」
「ほかは」
「数字とか聞き方が変わっても使える」
神崎は顎を一度引いた。
「なら、その三つで測れ」
「面倒くさ」
「面倒だから、皆、自分に甘い試験官になる」
蓮は学習記録ノートの隅に書いた。
説明。翌日。別の形。
三つの言葉は、十八個の丸より地味だった。だが丸より逃げ道が少ない。
*
翌日、美咲は難問を解いていた。
琉星学院の数学。蓮なら問題文の長さだけで閉じたくなる頁を、美咲は黙って半分まで進めている。彼女の手帳には、細い字で予定が詰められていた。以前ほど一分刻みではない。それでも余白は狭かった。
「それ、解けるの」
「途中までは」
「俺と同じ言い方」
「一緒にしないで」
口元だけ笑い、美咲は答案を裏返した。別の英語プリントが見えた。難しい長文には印が少ないのに、その前の文法問題に二つ、赤い斜線がある。
「そこ落としたの」
「見れば分かる問題だったから」
「見れば?」
蓮が聞き返すと、美咲は赤い斜線を指で隠した。
「確認しなかった。現在完了だって思って、最後まで読まなかったの」
「見たことある問題ほど、見てなかったってことか」
「言い方が嫌」
「俺は今日、その嫌な言い方に数学と英語で殴られた」
蓮は白紙再現に失敗した答案を差し出した。美咲はしばらく見てから、指で隠していた斜線を出した。
「難しい問題なら、できなくても理由を探すのに」
「簡単な問題だと?」
「できる自分を疑わない」
それは、美咲の成績が悪いという話ではなかった。むしろ逆だった。最難関校を受ける生徒にとって、基礎の二問は、蓮の十問より高くつくことがある。取る者が多い点を落とせば、順位は大きく下がる。
「問題、作り替えよう」
蓮は言った。
「あなたが?」
「その顔やめろ。数学は無理でも、英語なら単語と順番くらい変えられる」
「それを、あなたが解くの?」
「美咲が作ったのを俺が解く。俺が作ったのを美咲が解く」
「間違った問題を作ったら?」
「その時点で、作った奴が分かってないって分かる」
美咲は少し考え、手帳の空白へ「姉妹問題」と書いた。
「名前、ださい」
「じゃあ美咲が考えろよ」
「姉妹問題でいい」
「気に入ってんじゃん」
「時間がもったいないだけ」
彼女はそう言ったが、文字の横に小さな二重丸をつけた。
*
二日後、二人はノートも解説も鞄へ入れたまま、姉妹問題を机に置いた。
最初に、自信度を書いた。
三。絶対できる。
二。たぶんできる。
一。分からない。
蓮は英語の一問に「三」と書いて間違えた。数学の一問には「一」と書いて正解した。美咲も、理科の用語問題に「三」をつけて、説明の一部を落とした。
「自信、当てにならないな」
「あなたは特に」
「美咲も一個あるだろ」
「一個は一個です」
正答数だけなら、美咲が勝っていた。だが今日は勝ち負けの表の横に、別の欄がある。
自力で説明できる。
ヒントがあればできる。
まだできない。
蓮は、間違えた英語を「まだできない」へ移した。悔しさはあった。だが以前のように、問題が悪いとは思わなかった。箱が一つ変わっただけだ。次に何をするかが決まる。
「これ、一週間後にもやる?」
美咲が聞いた。
「やる。忘れた頃に」
「忘れないうちじゃなくて?」
「少し忘れた頃の方が、思い出す練習になる。らしい」
蓮は神崎を見た。
「合ってる?」
「ワシに聞く前に、何で確かめる」
「一週間後の点」
「それでよい」
神崎は、教室の後ろで腕を組んだままだった。答えを言わなかったことに、どこか満足しているように見えた。
*
模試結果は、紙の重さに反して重かった。
国語六十三。
数学六十九。
英語四十六。
理科五十五。
社会五十一。
三教科、百七十八点。
前回、百七十二点。増えたのは六点だった。
「こんなにやって、六点」
口に出すと、六という数字がさらに小さくなった。
前年の合格最低点は二百十四点。あと三十六点。安全圏として置いた二百二十七点までは四十九点ある。四十二枚だった赤いカードは、減るどころか形を変えて戻ってきた。
英語の欄には、初見長文での失点が並んでいた。覚えた単語を見れば意味は言える。しかし文の中で出会うと、取り出すまでに時間がかかる。数学は、見た型なら速い。条件の順番が変わると、式を立てる前に手が止まる。
国語は、根拠へ線を引く癖がついた分だけ上がった。
理科と社会は、知識を答えとして取り出すところでまだ揺れた。
「六点は増えた」
蓮は、自分で言ってみた。
慰めにはならなかった。
神崎は、やはり慰めなかった。
「六点は何が増え、三十六点は何が足りん」
「そういう聞き方、今しないと駄目?」
「いつなら数字が気を遣ってくれる」
蓮は答案を教科順に並べた。
増えた六点の多くは、国語の根拠問題と数学の既知形式だった。足りない三十六点は、難問だけではない。英語の初見長文、数学の条件整理、国語の根拠確認。何度も見たはずのものを、何もないところから取り出せなかった点だ。
蓮は学習記録ノートに二本の線を引いた。
反復して速くする問題。
形を変えて確かめる問題。
その下に、確認日を書いた。
翌日。三日後。一週間後。
「六点しか、じゃない」
蓮は言った。
「六点の中身が分かった。次にやることも」
「なら、六点は仕事をした」
神崎はそれだけ言った。
*
廊下で知花颯真に会った。
颯真は塾内順位表の最上段に名前がある。模試の点も、蓮よりずっと高い。制服の襟は崩れず、教材の角も傷んでいない。努力を隠す天才ではなく、努力を一度も乱さない秀才だった。
「同じ問題を、数字変えて解くの、やってみない?」
蓮が言うと、颯真は姉妹問題ノートを見た。
「今さら基礎?」
「基礎っていうか、本当に使えるかの確認」
「確認して、順位が上がるのか」
「たぶん」
「たぶんに使う時間はない」
声は穏やかだった。嘲笑もなかった。
「本番までに、出る型を一つでも多く潰す。塾内模試では、それで取れてる」
正しかった。
少なくとも、いま見える数字では。
蓮は反論を探した。だが百七十八点の人間が、首位へ「お前の勉強は間違っている」と言うのは簡単ではない。正しさは、言う人間の点数で値段が変わる。
「点が高い者ほど、何を測り損ねる」
神崎が後ろで言った。
蓮にしか聞こえない。
颯真は一礼し、先に歩いた。鞄の口が少し開いていた。中から、白い封筒が半分だけ覗いている。
見慣れない模試会社の紋章。
宛名の下に印刷された文字。
塾内順位ではなく、県内順位。
颯真は、その封筒をまだ開けていなかった。
神崎の赤ペン補講
分かったつもりを見破る五つの試験
「分かった」という感覚は、学習の出発点にはなります。しかし、試験本番で答えを取り出せる証拠にはなりません。教科書や解説を見ながら内容が滑らかに読めると、私たちは理解も深まったように感じます。これが「流暢性の錯覚」です。
一 見ずに思い出せるか
教科書やノートを閉じ、覚えた内容を白紙へ書き出します。読む回数を増やすだけでなく、記憶から取り出す「検索練習」を入れます。
二 白紙から説明できるか
解説を閉じて、「なぜこの式になるのか」「なぜこの選択肢が違うのか」を自分の言葉で説明します。説明の途中で止まる場所が、理解の穴です。
三 形が変わっても使えるか
数字、語順、図の向き、質問の仕方を変えた姉妹問題を解きます。答えや紙面を覚えたのではなく、原理を使えるか確かめるためです。
四 時間を空けてもできるか
学習直後だけでなく、翌日、三日後、一週間後にも確認します。直後の正解は短期記憶に助けられていることがあります。少し忘れた頃に思い出し、その後に正答を確認することが、長期記憶を強くします。
五 自信と正答が一致しているか
解く前に「絶対できる/たぶんできる/分からない」と予想し、採点後に比べます。自信満々で間違えた問題こそ、優先して直すべき問題です。
実践用の三分類
・自力で説明できる
・ヒントがあればできる
・まだできない
注意
再読や同じ問題の反復が無意味なのではありません。初めて学ぶときには、例題を読み、手順をまね、同じ型を繰り返すことが必要です。ただし、それだけで「本番でも使える」と判断しないこと。反復で手順を作り、白紙再現・姉妹問題・時間を空けた確認で、使える知識へ変えていきます。




