第29章 怖いと言える夜
美咲が作った比較表は、黒瀬の資料より一枚少なく、質問は三つ多かった。
琉星学院、公立進学校、私立特進、高専。横には授業進度、理系科目、通学時間、費用、校風、大学進学、途中で選び直せる余地。
黒瀬は表を一読した。
「結論を聞きましょう」
「琉星学院を第一志望にします」
母親の肩がわずかに下がった。安堵だった。
黒瀬も表情を変えないまま、次の資料へ手を伸ばす。
「合理的です。現在の学力と進学実績を考えれば――」
「偏差値が一番高いからではありません」
美咲が遮った。
母親の肩が元へ戻る。
「理系科目を深く学べること。県外大学の情報が多いこと。見学で会った先輩が、成績を落とした話を隠さなかったこと。私は、失敗しても相談できる学校かを見ました」
黒瀬の指が資料の端で止まる。
「よく調べています」
「もう一つあります」
「何でしょう」
「合格する確率と、私が通いたいことを、分けて話してください」
黒瀬は数秒、美咲を見た。
「分かりました」
黒瀬は反論せず、母親も納得していない。
美咲は比較表を自分の側へ引き寄せ、次の面談日を自分で書き込んだ。
帰りのバス停で、蓮は報告を聞いた。
「じゃあ、同じ――」
「あなたと同じだから選んだんじゃない」
「最後まで言わせろよ」
「言ったら、うれしそうな顔するでしょう」
「もうしてた?」
「してた」
美咲は笑ったあと、比較表を鞄へ入れられず、二つに折った。
「でも、蓮が学校を調べ始めたから、私も調べた。それは本当」
蓮の隣で神崎が、にやにやしながら腕を組んでいる。
「何だよ」
「ワシは何も言っとらん」
「顔がうるさい」
美咲には神崎が見えない。蓮が一人で赤くなったように見えた。
バスのライトが遠くに浮かぶ。
「怖い」
美咲の声は、エンジン音に消えそうだった。
「琉星が?」
「自分で決めたことが。今までは、お母さんや先生が言ったからって思えた。失敗しても、私だけのせいじゃなかった」
比較表の折り目を指でなぞる。
「自分で選んだら、失敗も自分のものになる」
蓮は「大丈夫」と言いかけた。
未来を知っている神崎さえ黙っている。
「俺も怖い」
代わりにそう言った。
「百点だった奴が最難関を受けるんだぞ。怖くない方がおかしい」
「それ、励ましてる?」
「たぶん」
美咲が少し笑った。バスが来ても、怖さは消えなかった。
消えないまま乗れることを、二人は初めて知った。
その夜、塾の消灯時刻になっても、一席だけ明かりが残っていた。
比嘉凛は英語の長文を開き、同じ行に定規を当てたまま動かなかった。
「最終バス、もうすぐじゃない?」
美咲が声をかける。
「今日は歩く」
「四十分かかるよ」
「別に。運動になるし」
机の隅には、冷めたおにぎりが一つ。スマートフォンには、幼いきょうだいからの着信が並んでいた。画面の下から、クレヨンで描かれた家族の絵がのぞいている。
「電話、出なくていいの?」
「あとで」
凛は笑った。傷ついているときほど、よく笑う人の笑い方だった。
美咲は向かいへ座った。
「今日は帰ると、何か困ることがある?」
「何それ」
「分からないから聞いてる」
「優等生には関係ないでしょ」
「うん。全部は分からない」
美咲は逃げなかった。
「だから、分かったふりはしない」
凛の笑みが消えた。
スマートフォンがまた震える。今度は家からだった。
「帰りたくない」
声は、英語の一行より短かった。
蓮は「じゃあ、うちへ」と言いかけた。
母親に頼めば、一晩くらいは何とかなると思った。少年漫画なら、それが正しい場面だったかもしれない。
けれど明日の夜はどうする。きょうだいはどうなる。家で何が起きているかも分からない。
「今夜、安全にいられる場所を、大人と考えよう」
蓮は知念を呼んだ。
凛の顔が硬くなる。
「大ごとにしないで」
「凛が悪いことにするためじゃない」
美咲が言った。
知念は質問を急がなかった。今すぐ帰ることで危険があるか。きょうだいは誰といるか。連絡できる親族や学校の先生はいるか。
答えられないことには、凛は答えなかった。
塾だけで抱え込まず、学校の信頼できる教員と連絡を取り、今夜の安全を確認する。必要なら、さらに専門の窓口へつなぐ。
神崎は受付の隅に立っていた。
「先生なら、何て言う」
蓮が小声で聞く。
「昔のワシなら、勉強できる場所を用意して満足した」
「今は?」
「生きる場所が揺れとる子に、学習計画から渡すな」
赤ペンは出さなかった。
連絡を待つ間、美咲と凛は同じ机の反対側へ座った。
「私も、ずっと大丈夫って言ってた」
美咲が言う。
「一緒にしないで」
「しない。私と凛は違う」
凛は目を伏せる。
「じゃあ何」
「違うから、聞く」
長い沈黙のあと、凛は家での時間を少しずつ話した。
食事を作る。入浴させる。寝かしつける。機嫌を損ねないようにする。勉強を始められるころには、日付が変わる。
「模試、百十点だった」
「知ってる」
「みんな、やれば上がるって言う。やる時間がある奴の言葉だよ」
美咲は、自分の一日三時間を思った。同じ三百点満点でも、答案へ来るまでの一日は同じではなかった。
「怖いなら、怖いって言えば」
凛が言った。
「美咲も」
今度は美咲が言葉を受け取る番だった。
翌日、凛の問題は解決していなかった。
ただ、塾と学校の大人が事情を共有し、本人と安全な過ごし方を相談し始めた。学習計画も、家で毎日三時間ではなく、学校と塾にいられる時間を中心に組み直すことになった。
帰り道、美咲が蓮を呼び止めた。
「私、琉星を受ける」
「うん」
「あなたと同じだからじゃない。私が選んだ」
「分かってる」
「でも」
美咲は一度だけ視線を外した。
「同じだったら、少しうれしい」
蓮の返事より先に、スマートフォンが鳴った。
琉星学院の過去問採点結果。
合格最低点まで、四十二点。
「俺、まだ受けるって言える点じゃない」
「じゃあ、取れば」
背後で神崎が赤ペンを抜いた。
「恋愛の続きは、四十二点取ってからにせい」
「だから顔がうるさいんだよ」
美咲が首をかしげる。
四十二点の壁は、昨日までより高く見えた。
それでも蓮は、もう誰かに運んでもらう未来を待ってはいなかった。
神崎の赤ペン補講 「怖い」「帰りたくない」を勉強の問題にしない
一 自分で選ぶと不安が増えることがある
他人に決められた選択は、失敗の責任を外へ置ける。自分で決めると、結果をすべて自分の責任だと感じやすい。しかし自己決定とは、一人ですべてを背負うことではない。情報を集め、相談し、選んだ後も修正できることまで含む。
二 志望校比較表
偏差値と進学実績だけでなく、授業内容、通学、費用、校風、支援体制、部活動、科目選択、進路変更の余地を比較する。本人が重視する項目へ優先順位を付ける。
三 「大丈夫」を確定答案にしない
困っている子ほど、相手を心配させないために「大丈夫」と答える場合がある。「本当はどうなの」と追及するより、「今日、帰ると困ることはある?」「今夜、安全に過ごせる?」のように答えやすい範囲から尋ねる。
四 家庭の世話と学習時間
家事やきょうだいの世話を日常的に担う子どもは、机に向かう時間だけでなく、注意力と回復時間も奪われる。同じ勉強法や時間目標を当てはめず、学校、塾、公共施設など安全に学べる場所を含めて設計する。
五 援助要請
助けを求めることは、弱さではなく状況を変えるための能力である。友人一人に背負わせず、信頼できる大人、学校、専門機関など複数へつなぐ。差し迫った危険がある場合は、勉強より安全を優先する。
六 分からないまま聞く
相手と同じ経験がなくても支援はできる。「分かる」と急いで言わず、分からない部分を認めて聞く。解決策を先に出すより、本人が何に困り、何を望み、何を恐れているかを整理する。




