第24章 神崎が捨てた生徒
赤ペンが止まっていた。
黒瀬が去った後も、神崎は面談室の壁を見ていた。薄いサングラスに映るのは白い壁だけだ。それなのに、その奥に別の部屋があるようだった。
「先生」
蓮が呼んでも、返事がない。
「神崎」
「ワシは」
声が低かった。
「最後まで見とらん」
赤ペンの先に、白い紙が浮かんだ。
古い面談記録。生徒名。志望校。出席。宿題。単語テスト。
そして、赤い文字。
本人の学習意欲が改善しない。
*
東京の校舎では、冬になると生徒の名前に色がついた。
合格可能性が高い者。伸びれば届く者。志望変更が必要な者。
表向きは、指導を最適化するための分類だった。
教室も講師も時間も有限だ。全員へ同じ時間を使えば公平になるわけではない。あと十点で合格する生徒へ一時間を使うか、基礎から数十点必要な生徒へ使うか。判断しないことも、判断だった。
神崎は判断が速かった。
「相良。単語テスト、また不合格か」
相良冬馬は、答案を半分に折った。
「昨日、やったんすけど」
「やった時間は聞いとらん。覚えたかを聞いとる」
「覚えられなかったです」
「なぜじゃ」
「別に」
冬馬はよく「別に」と言った。
遅刻する。宿題を出さない。授業中に眠る。質問しても目を合わせない。
神崎は一度、家庭で何かあるのかと聞いた。
冬馬は笑った。
「普通っすよ」
普通という言葉を、神崎は確認しなかった。
休み時間、冬馬は年下の生徒へ携帯ゲームを教えていた。説明は意外に上手かった。相手が失敗すると、先に答えを押さず、画面のどこを見ればいいか指した。
「ここ、さっきと形同じだから」
規則を見つける目はある。
神崎はそう思った。
思っただけだった。
*
直前期、講師会議の机には合格実績の予測表があった。
上位校の合格者数。特待候補。保護者面談。追加講座。
「相良は基礎クラスへ移す」
神崎が言うと、若い講師が顔を上げた。
「本人には」
「ワシから言う。今の進度では双方に損じゃ」
合理的だった。
冬馬のためでもある。理解できない授業へ座らせるより、基礎を扱う講師へ渡す方がよい。
引継ぎ票に、神崎は書いた。
遅刻あり。宿題未提出。単語不足。厳しい管理が必要。本人の意欲が課題。
家庭で眠れているか。
なぜ遅刻するのか。
誰と暮らしているのか。
学校ではどう過ごしているのか。
欄がないのではない。
神崎が書かなかった。
「先生、俺、頭悪いから移るんすか」
冬馬は笑っていた。
「頭ではない」
神崎は言った。
「やらん者へ使える時間はない」
その言葉は、講師室で評判になった。
甘やかさない。結果に責任を持つ。限られた時間を価値ある努力へ使う。
神崎自身も、正しいと思っていた。
冬馬は何も言わず、折った単語テストをポケットへ入れた。
*
神崎が冬馬の死を知ったのは、指導を外れてからだった。
方法は聞かなかった。
聞く必要がないのではなく、聞くべきではないと思った。
同僚から、家庭にも学校にも塾にも、それぞれが知らなかった事情があったらしいと聞いた。家族は深く傷つき、その後も生活と関係を立て直せずにいるという断片だけが残った。
「先生のせいじゃありません」
若い講師が言った。
その通りだった。
一人の講師の一つの判断で、人の死を説明することはできない。神崎が教え続けていれば防げたとも言えない。
だから神崎には、逃げることができた。
自分のせいではない。
塾の仕事ではない。
本人が何も言わなかった。
家庭も学校も気づかなかった。
どれも、嘘ではない。
神崎は面談記録を開いた。
本人の学習意欲が改善しない。
複雑だったはずの一人の生活が、その一行で終わっていた。
神崎の責任で死んだのではない。
しかし、神崎が正しかったことにもならない。
*
「ワシは、あの子を別の講師へ回した」
現在の自習室で、神崎は言った。
「回したことが悪いんじゃない」
蓮は答えた。
「一人で全部見るのは無理だろ」
「ワシは、つないだつもりだった」
「何を伝えた」
「遅刻。未提出。単語不足。意欲がないと」
「それだけ?」
神崎は黙った。
「分からなかったことは」
「書いとらん」
「聞いたけど答えなかったことは」
「書いとらん」
「ゲーム教えるの上手かったことは」
「……書いとらん」
神崎の記憶を、蓮も見ていたわけではない。それでも、神崎の途切れる言葉から分かった。
「俺を助けて、その子への借りを返すな」
神崎の顔が上がった。
「ワシは、お前を」
「俺はその子じゃない」
「分かっとる」
「分かってたら、俺が美咲を救えば未来が直るみたいに言わない」
神崎は反論しなかった。
蓮は、自分の声が震えていることに気づいた。
怒っている。
神崎が過去にしたことだけではない。蓮を一人の中学生としてではなく、解き直せる答案として見たことに。
「俺が伸びたら、先生の教え方は正しかったことになる?」
「ならん」
「琉星に受かったら、その子にしたことが消える?」
「消えん」
「じゃあ、俺を使うな」
神崎の赤ペンが薄くなった。
*
「塾は慈善事業ではありません」
黒瀬なら、そう言うだろう。
実際、全員へ無制限の時間を使うことはできない。合格へ届く生徒へ資源を集中する判断も必要になる。
「全員を、一人で救えとは言ってない」
蓮は、神崎だけでなく、見えない黒瀬へも言った。
「無理なら、次につなげばいい。塾じゃ無理なことなら、学校でも、家でも、別の大人でもいい」
「本人が拒んだら」
「分からない」
蓮は答えた。
「俺は専門家じゃない。でも、拒んだって記録しろよ。分からなかったって書けよ」
神崎が目を閉じた。
「捨てるなら、捨てたって分かってろ。本人の努力不足に書き換えるな」
自習室は静かだった。
蓮は偏差値三十五だった。
宿題を出さず、応用問題へ文句を言い、傷つく前に笑った。
神崎も黒瀬も、受験では蓮より正しい。
けれど、二人には分からないことがある。
「やらない」と書かれた側で、「できない」を隠しているときの身体の重さ。
蓮は、その言葉を持っていた。
*
「ワシは」
神崎は長い間を置いた。
「お前を救いたかったんじゃなく、ワシを救わせたかったのかもしれん」
謝罪ではなかった。
許しを求める声でもなかった。
遅すぎる自己採点だった。
「許さないから」
「それでよい」
「でも、勉強は教えて」
神崎が目を開いた。
「都合がよいのう」
「先生に言われたくない」
蓮は誤答ノートを開いた。
「ここからは俺の受験だ」
百五十一点の答案。次に取る十四点。琉星学院を選ぶ五つの理由。母と作った費用表。
どれも、神崎が与えた答えではない。
「先生は、答えじゃなくて質問を出せ」
神崎は赤ペンを見た。
東京の教室で、生徒を分けた赤。
蓮の誤答を訂正した赤。
美咲の未来まで書こうとした赤。
神崎の手の中で、その色が薄れた。
机の上には、蓮が自分で買った赤ペンが一本残っている。
「では、最初の質問じゃ」
神崎は言った。
「百六十五点まで、あと十四点。お前は、どの問題を取る」
蓮は答案を五教科に分けた。
もう、神崎の正解を待たなかった。
神崎の赤ペン補講
第24回 成績が伸びないとき、誰につなぐか
この回では、勉強法より先に確認すべきことを扱います。
1.「やる気がない」だけで終わらせない
遅刻、居眠り、未提出、欠席、急な成績低下には、さまざまな背景があり得ます。
・睡眠不足
・家庭での役割や困難
・心身の不調
・人間関係
・学習上のつまずき
・経済的事情
・失敗への恐怖
・相談方法が分からない
外から見ただけで、一つに断定できません。
2.一人で全部抱えない
塾講師、学校教師、保護者の一人だけで、すべてを解決する必要はありません。
・校内の担当者
・スクールカウンセラー
・養護教諭
・医療や福祉
・自治体の相談窓口
・信頼できる家族や大人
本人の状況に応じ、専門性を持つ人へつなぎます。
3.引継ぎで消してはいけない情報
・確認できた事実
・本人が話したこと
・本人が話さなかったこと
・こちらが分からないこと
・得意なこと
・うまくいった対応
・心配している危険
「意欲がない」「問題がある」だけへ縮めないことが重要です。
4.自死を一つの原因で説明しない
自死には複数の要因が関わり得ます。受験、成績、家庭、学校、恋愛など、一つの出来事だけを原因として断定しません。
誰か一人の愛情や指導だけで、必ず防げたとも言えません。
必要なのは、孤立させず、複数の支援先へつながることです。
5.現実に危険があるとき
自分や誰かを傷つけそう、今すぐ安全を保てないなど緊急性がある場合は、一人で抱えず、近くの信頼できる大人、学校、医療機関、緊急窓口へ直ちにつながってください。
この物語の登場人物ではなく、現実に応答できる人へ助けを求めることが必要です。




