第21章 内申は誰のものか
評定表の数字は、赤くない。
それでも蓮には、美術の「2」だけが赤字に見えた。
国語三。数学三。英語三。理科三。社会三。音楽三。美術二。保健体育四。技術・家庭三。
模試は百点から百五十一点へ上がった。定期テストも、以前より取れている。提出物も、少なくとも今学期は期限を意識した。
なのに、数字は思ったほど動かなかった。
「技能教科は一・五倍だよ」
隣で陽向が言った。
「知ってる」
「じゃあ、その二は――」
「知ってるって」
言葉が強くなった。
この地域の公立高校入試では、内申が大きな意味を持つ。技能教科は加重される。数学で一問取るために何十問も解いても、美術の評定が一つ低ければ、その差は当日点だけでは簡単に埋まらない。
「受験に美術いらないだろ」
口にしてから、陽向の譜面ファイルが目に入った。
陽向は何も言わなかった。
*
美術室の棚から、蓮の作品が出てきた。
正確には、作品になりかけたものだった。
背景の半分は白い。下書きの線が消されず残り、提出票には日付がない。振り返り欄も空白だった。
「技術が低いから二、ではない」
美術教師は、作品を蓮と自分の間に置いた。
「準備、制作の過程、期限、振り返り。授業で何を考えて、どう直したかも見ています」
「今は、ちゃんとやってます」
「今学期の変化は、今学期の評価へ入れる」
「じゃあ上げてください」
「過去の未提出や、途中で手を止めた記録を、今頑張っているから消すことはできない」
教師の言い方は冷たくなかった。
冷たくない正論は、怒る場所を奪う。
「絵が下手なやつは、どうすればいいんですか」
「上手に描けとは言っていない。必要な材料を準備する。途中で諦めず、何を工夫したか残す。期限までに出す。できなかったなら、相談する」
最後の一つが、いちばん難しかった。
できないから相談するのではない。相談した時点で、できない自分が確定する気がする。だから蓮は、途中の作品を机へ入れた。忘れたふりをした。
教師は評定表を指した。
「今の君を見ないつもりはない。でも、今までの君がいなかったことにもできない」
蓮は未完成の作品を持って、美術室を出た。
窓際を歩く神崎が鼻を鳴らした。
「内申など、当日の学力とは別物じゃ」
「先生は黙ってて」
「何じゃ」
「当日の点だけ見て、取れないやつ切った側だろ」
神崎の足が止まった。
蓮も、自分が何へ触れたのか分からなかった。
「……そうじゃな」
短い返事だった。
*
金城奏太の提出物は、見本のように整っていた。
項目ごとに色が分けられ、付箋には提出日が書かれている。振り返りも空欄がない。
「次、何出すんだっけ」
蓮が聞くと、奏太はスマートフォンを見た。
「待って。母さんから来てる」
画面には、やる順番が番号で並んでいた。
一、理科レポート清書。
二、英語ワーク直し。
三、技術の振り返り。
提出する時刻まで書かれている。
「自分で覚えてないの」
「忘れるから送ってもらってる」
「それ、奏太の提出物なのか」
奏太の顔が固まった。
「俺が書いてるけど」
「でも順番も、期限も――」
「出してるんだから、よくない?」
蓮は言葉を失った。
親が全部管理しても、出したものは出したものとして評価される。自分は出さなかった。数字が違うのは当然だ。
それでも、奏太の方が自分で学んでいるとは思えなかった。
「評定は、自立度を測る純粋な検査ではない」
神崎が言った。
「学校が確認できる行動を、決められた範囲で評価する。親がどこまで手を入れたか、教師が全部見抜けるわけではない」
「じゃあ不公平だろ」
「不完全と不要は違う」
蓮は奏太の予定表を見た。正確な番号が並ぶほど、その紙に奏太自身の判断はなかった。
だが、それを選んだのは奏太ではない。
怒る相手を間違えるところだった。
*
三者面談の日、担任は蓮より先に母へ話しかけた。
「最近の点数は上がっています。ただ、これまでの内申を考えると、公立は――」
「先生」
蓮は鞄から資料を出した。
四月の百点答案。秋の百五十一点。誤答分析。琉星学院の募集資料。公立の候補校。内申の教科別推移。
机の中央へ、自分で並べた。
「俺にも説明してください」
母の手が止まった。
担任は蓮を見た。
「もちろん」
「今から何をしたら、今の俺を評価できますか」
「内申を上げる方法、という意味か」
「数字だけじゃなくて。何を見て、その数字にするのか知りたいです」
担任は教科ごとの評価資料を開いた。
テスト。提出物。授業中の課題。実技。作品。振り返り。教科によって比重も見方も違う。
「過去の未提出は消えない。中一、中二の記録も変えられない」
「はい」
「今からできるのは、今の評価期間で示すことだ。期限を守る。途中で分からなくなったら、そのまま隠さず相談する。振り返りを、感想だけで終わらせない。何ができて、何を直すかを書く」
母が口を開いた。
「家でも私が確認を――」
「母さん」
蓮は母を見た。
「期限は俺が書く。忘れてたら、一回だけ聞いて」
「一回で大丈夫なの」
「大丈夫じゃないかもしれない。でも、最初から全部やられたら、俺が覚えることない」
奏太の完璧な提出物が浮かんだ。
担任は母へ向けていた資料を、蓮の正面へ回した。
「公立高校については、内申を無視できない。私立最難関は当日点を重く見るとしても、合格後の学習習慣は必要になる」
「分かってます」
「本当に?」
以前なら反発した。
蓮は、自分の未完成の作品を思い出した。
「分かってるつもりでした。だから、今からやったものを見てください」
評定はその場で上がらなかった。
志望校を認めてもらえたわけでもない。
それでも、親と教師が自分のいないところで、自分の未来を決める面談ではなくなった。
*
面談が終わると、担任は母へ白い封筒を渡した。
「私立を受ける場合の、費用と支援制度の資料です。年度で変わるものもあるので、学校の最新案内も確認してください」
「ありがとうございます」
母は封筒を鞄へ入れた。
家に帰り、蓮は美術の作品を机へ広げた。白いまま残った背景を、いきなり塗り始めない。まず、いつまでに何をするかを自分で書いた。
台所で紙の擦れる音がした。
母が封筒を開いている。
受験料。入学時の納付。授業料。制服。教材。交通費。
蓮が立ち上がると、母は封筒を裏返した。
「何でもないよ」
その言葉は、美咲の「大丈夫」とよく似ていた。
数字を見せろと言ったのは蓮だった。
母が隠した数字だけを、見なかったことにはできなかった。
神崎の赤ペン補講
第21回 内申点は、何のためにあるのか
1.内申点とは
内申点は、学校での学習状況を一定期間にわたって評価した記録です。高校入試での扱い方、計算方法、対象学年、技能教科の加重は地域や年度で異なります。必ず教育委員会や志望校の最新資料を確認してください。
本作の架空地域では、九教科の評定を使い、技能四教科を1.5倍する設定です。
2.なぜ当日点だけではないのか
一回の試験だけでは、
・継続して学ぶ
・期限までに取り組む
・実技や表現を行う
・授業で考えを修正する
といった面を十分に見られません。
内申には、日々の学びを評価しようとする役割があります。
3.内申の限界
評価する教師が見られる範囲には限界があります。
・家庭でどこまで助けてもらったか
・提出できない事情があったか
・疲労、経済状況、家族の世話
・本人が言えない困りごと
・学校や教師による説明の差
数字は必要な情報ですが、子どもの人格や自立度を完全に測るものではありません。
4.評価に納得できないとき
「上げてください」だけでなく、次を質問します。
・何が評価対象ですか
・現在の評価期間はいつまでですか
・不足している証拠は何ですか
・今から改善できる行動は何ですか
・作品、実技、振り返りはどう見られますか
感情的にならないことより、具体的な条件を確認することが重要です。
5.提出物を親の作品にしない
親の支援には価値があります。
支援:
・期限を一緒に確認する
・必要な材料を準備できるよう助ける
・困ったときに相談へつなぐ
代行・過剰管理:
・内容を親が決める
・順番をすべて指示する
・忘れる前に毎回親が管理する
・失敗する機会を完全に奪う
最初は助けが必要でも、徐々に本人へ戻すことが大切です。
6.子どもの意見表明
子どもの意見を聞くことは、希望をすべて無条件に通すことではありません。
・本人にも制度を説明する
・本人が質問できる
・不安や希望を言える
・親と教師が理由を示す
・最終判断へ本人が参加する
進路は子どもだけで背負うには重く、大人だけで決めるには本人の人生に近すぎます。必要なのは、情報と責任を共有することです。




