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第20章 九十点の罠

 伊波陽向は、答案を点数の高い順に重ねた。

 数学九十二点。英語九十五点。その下に理科、社会、国語。いちばん下へ、県内模試の成績表を差し込む。

 隠したわけではない。

 見せる必要のないものを、下へ置いただけだ。

 塾から帰ると、陽向は次の定期テスト用ファイルを開いた。学校名、学年、学期、教科。透明なポケットに、過去の問題と類題が整然と収まっている。

 数学の一問目を見た瞬間、手が動いた。

 見覚えのある式。見覚えのある数字の並び。係数だけが変わっている。二問目も同じだった。

 十分で六問。全問正解。

 やはり、模試の方がおかしいのだ。

 学校でやっていない出し方をされても、分かるはずがない。定期テストなら九十点を取れる。通知表も悪くない。先生からも、真面目だと言われる。

 それが実力でなくて、何だというのだろう。

 机の横にはクラリネットのケースが立っていた。黒い表面に、地域行事の進行表が貼りついている。

 明日の練習終了は七時半。

 陽向は次の問題へ進み、途中でシャープペンを握ったまま眠った。

     *

 放課後の音楽室では、同じ四小節を六回繰り返した。

「クラリネット、二拍目が遅れる」

 顧問が指揮棒で譜面台を叩いた。

「三年生が引っ張らないで、誰が合わせるの。地域の人も楽しみにしているんだよ」

 正しいと思った。

 陽向も、音が揃う瞬間は好きだった。ばらばらだった息が一つになり、金管の音が背中を押し、木管の旋律がその上を走る。テストの丸とは違う。自分一人では作れない成功だった。

 だから、部活のせいで勉強できないとは言いたくなかった。

 言った瞬間、音楽を大切にしてきた三年間まで、言い訳に変わる気がした。

「もう一度、頭から」

 時計は七時二十分を過ぎていた。

 陽向は譜面へ目を戻した。

 全員が同じだけ参加しなければ、音は揃わない。それも正しい。

 けれど、受験日は全員同じではなかった。志望校も、現在の学力も違う。

 二つの正しさがぶつかるとき、陽向はいつも、声の大きい方を選んだ。

     *

「その過去問、覚えてるだけじゃないか」

 翌日の塾で、蓮は言った。

 陽向は顔を上げた。

 机には、模試で間違えた数学問題と、学校の過去問が並んでいる。蓮は二枚を見比べていた。

「同じ形なら解ける。でも、混ぜられると何を使うか分からなくなってる」

「九十点、取ってるけど」

「だから、その九十点が――」

 蓮はそこで止まればよかった。

「本当の実力じゃないんじゃないか」

 自習室の空気が、わずかに薄くなった。

 陽向は過去問を閉じた。

「私が何時間やったと思ってるの」

「時間の話じゃなくて」

「じゃあ何。塾からもらった問題を解いて、学校の範囲を覚えて、九十点を取った。それも勉強でしょ」

「模試では取れてない」

「模試だけが本物なの?」

 蓮は答えられなかった。

 窓際の神崎が、サングラスを指で上げた。

「正しいことを、相手が受け取れん形で投げるのは、教えたことにならん」

「分かってるよ」

「今、分かった顔をしただけじゃ」

 陽向は答案を鞄へ入れた。

「私、部活もあるから。効率よくやらないと無理なの」

 効率。

 以前の蓮が、量を積まずに点を取るため使った言葉だった。

 だが、陽向の効率は怠けるためではない。音楽室から帰れば、眠るまでの時間が少ない。本当に時間がない人間が、取れる点を守るため選んだ方法だった。

 そこまで考えず、蓮は正しさだけを投げた。

「ごめん」

 陽向は返事をしなかった。

     *

 翌日、蓮は二組の問題を持ってきた。

「三日だけ、試してほしい」

「何を」

「俺が間違ってるかもしれないから、比べる」

 Aと書いた束には、同じ種類の問題が並んでいた。一次方程式なら一次方程式。比例・反比例なら比例・反比例。

 Bの束には、それらが混ざっている。問題を読んで、自分で使う方法を選ばなければならない。

「今日はAをまとめてやる。Bは、答えを見ないで一回考える。明日と三日後に、同じ考え方を使う別問題を解く」

「Aの方が速いに決まってる」

「たぶん」

「意味ある?」

「三日後に決めよう」

 初日は、陽向の言った通りになった。

 Aはほとんど迷わなかった。問題の上に単元名が書いてあるようなものだった。正答率も速度も高い。

 Bでは、式を立てる前に止まった。方程式か、割合か、比例か。選ぶ時間が必要だった。

「ほら」

 陽向が得点表を蓮へ向けた。

「やっぱり、まとめた方が効率いい」

 蓮は口を曲げた。

 神崎が後ろで笑った。

「教える側の顔をして、負けると腹が立つか」

「まだ三日後がある」

「結果を先に決めるな。それをやったばかりじゃろ」

 二日目、Aの問題はまだ解けた。ただ、数字を変えられると途中で手が止まった。Bは遅いままだったが、前日より「何を使うか」を言える問題が増えた。

 三日目。

 Aと同じ型を、単元名を隠して混ぜた。陽向は最初の二問で迷った。昨日まで滑らかに動いた手が、問題の種類を知らせてもらえないだけで止まる。

 Bの方は、正解まで時間がかかった。それでも、解法を選ぶ理由を口にできた。

「これは、速さを求めるから一次方程式。こっちは割合を先に出す」

 得点を並べると、初日とは順序が変わっていた。

 陽向は表を見たまま言った。

「一回やっただけだよね」

「うん」

「三日だけだし」

「うん。これで全部証明したとは言えない」

「じゃあ」

「でも、今の勉強を見直す材料にはなる」

 陽向は、九十五点の英語答案を取り出した。

「今までの九十点は、偽物だったの」

「違う」

 蓮は今度は急がなかった。

「学校の範囲を覚えて、学校のテストで取った点だろ。それは本物。でも、模試で初めて見る問題を解く練習とは、目的が違った」

「同じ勉強なのに」

「俺もそう思ってた。国語で線を引けば読めた気になったし、理社は答えを見れば分かった気になった」

 神崎が横から言う。

「英単語を眺めて覚えた顔もしておった」

「それは今、言わなくていい」

 陽向が少し笑った。

 蓮は続けた。

「過去問を捨てるんじゃない。何のために使うか、決めるんだと思う」

     *

 陽向は、顧問へ予定表を差し出した。

 練習が始まる前だった。ほかの部員が楽器を組み立てる音が、音楽室に散っている。

「先生、相談があります」

 顧問は表へ目を落とした。

 参加する行事。最後まで出る合奏。後輩へ引き継ぐパート。帰宅する時刻。自宅で録音を確認する日。模試前に練習を減らしたい期間。

「三年生だけ特別扱いはできないよ」

「特別に休みたいわけじゃありません」

「一人欠けたら、全員の音が変わる。伊波さんは分かっているでしょう」

 分かっていた。

「はい。だから、急に来なくなるんじゃなくて、引き継ぎたいです」

「受験が大事なのは、みんな同じです」

「でも、同じ時間が必要なわけじゃないです」

 声が震えた。

 顧問の眉が動いた。怒ったようにも、考えたようにも見えた。

「次の行事までは、今の体制でやってほしい」

 陽向の胸が沈んだ。

「その後、一週間試しましょう。あなたが抜ける時間を、後輩が埋められるか。合奏が崩れるなら、また考える」

 全面的な許可ではなかった。

 それでも、最初から拒絶されたわけでもない。

 後ろで聞いていた同級生が、楽器のキーを強く押した。

「いいよね、頭いい人は。部活まで自分の都合で選べて」

 陽向は振り返った。

 言い返す言葉はなかった。自分が時間を選べば、誰かの負担が増える。それも事実だった。

 選ぶことには、正解だけでなく、引き受けるものがあった。

     *

 その夜、陽向は過去問の束を机へ置いた。

 捨てなかった。

 表紙に付箋を貼る。

「定期テスト――範囲と形式の確認用」

 その隣へ、初見問題集を置いた。白紙を一枚重ね、翌日の日付と三日後の日付を書く。

 過去問を開けば、今日も高い点を取れる気がする。

 白紙を前にすると、自分が何を思い出せないのかが見える。

 以前なら、その不快さを「効率が悪い」と呼んだ。

 塾で蓮に得点表を見せると、蓮は満足そうに頷いた。

「これなら次の模試、上がる」

「まだ分からないよ」

「でも、やり方は――」

「新垣くんは?」

「え」

「数学、同じ種類の基礎計算ばっかり続けてない?」

 蓮の口が止まった。

 神崎が腹を抱えて笑う。

「教えたつもりの人間は、自分がいちばん見えんからのう」

「うるさい」

 陽向は九十点の答案を鞄へ戻した。

 今度は模試の上へ置かなかった。二枚を横に並べた。どちらも自分の結果で、どちらも自分の全部ではなかった。

 その横で、蓮が学校から届いた仮評定を開いた。

 五教科の数字より先に、技能教科の評定が目に入る。この地域では、その数字が一・五倍される。

「何で、受験に関係ない教科で」

 蓮の声が低くなった。

 陽向は自分の高い評定表を見た。

 提出物も、実技も、部活動も、言われた通り積み上げてきた数字だった。

 けれど、その数字は、いったい誰の力を測っているのだろう。


神崎の赤ペン補講

第20回 定期テスト九十点でも、実力テストで取れないのはなぜか

1.二つのテストは、測る範囲が違う

定期テストは、一定期間に学校で学んだ内容の理解と定着を確認します。授業、教科書、学校教材、配布物を中心に準備することが有効です。

実力テストや模試では、より広い範囲から、単元を明示せずに出題されることがあります。知識を覚えているだけでなく、「この問題では何を使うか」を選ぶ必要があります。

定期テスト高得点は偽物ではありません。ただし、それだけで広範囲の初見問題へ対応できるとは限りません。

2.「すらすら解ける」の二つの意味

同じ型を続けて解くと、次に使う方法を予想しやすくなります。処理が速くなり、自信も生まれます。

一方、本番では単元名が書かれていません。問題を見分け、解法を選ぶ段階が必要です。

すらすら解ける理由が、

・理解して選べるから

・直前と同じ方法を繰り返しているから

のどちらなのか、時間を空けた確認で見ます。

3.流暢性の錯覚と再読の錯覚

読みやすい。見覚えがある。解説を見れば分かる。

この感覚を、「自力で思い出せる」と取り違えることがあります。

確認方法は単純です。

・教材を閉じる

・何も見ずに説明する

・翌日、もう一度解く

・問題の順序や問い方を変える

4.検索練習

覚えた内容を、何も見ずに思い出す練習です。

教科書をもう一度読む前に、白紙へ書く、小テストをする、口頭で説明するなどの方法があります。

思い出せなかった箇所が、次に復習すべき箇所です。

5.交互学習

異なる種類の問題を混ぜて解きます。

数学なら、方程式、関数、図形を単元別に固めた後、混合問題で「何を使うか」を選びます。

最初は遅くなり、正答率が下がる場合があります。しかし、本番の判断に近い練習になります。

6.過去問の役割

過去問には価値があります。

・出題範囲と形式を知る

・時間配分を試す

・頻出分野を確認する

・現在地を測る

・学校ごとの問い方に慣れる

一方、答えや並びを覚えるほど繰り返した問題は、初見対応力の測定には使いにくくなります。

目的を決め、類題、混合問題、時間を空けた再テストと組み合わせます。

7.部活か勉強か、だけにしない

続けるか辞めるかの二択にする前に、

・参加する行事

・練習終了時刻

・役割の引継ぎ

・模試前の期間

・睡眠時間

・移動時間

を具体化します。

部活動には仲間と共同で作る価値があります。同時に、受験生ごとに必要な学習時間は異なります。本人、家庭、顧問が情報を共有し、現実的な参加方法を考える必要があります。

最後に

九十点は、努力の証拠です。

しかし、どの試験にも通用する万能の証明書ではありません。

成功した方法ほど、「何に成功した方法なのか」を確かめる必要があります。


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