第19章 百六十五点の壁
四月の答案は、もう紙の端が丸まっていた。
国語二十八。数学十七。英語十四。理科十九。社会二十二。五教科で百点。
蓮はそれを、学習記録ノートのいちばん後ろに挟んでいた。戒めのつもりではない。最初の一週間は、捨てるのが恥ずかしくて隠しただけだった。そのうち神崎が、捨てるなと言った。
「底が分からん人間は、どれだけ登ったかも分からん」
あの頃は、ずいぶん嫌な言い方をする幽霊だと思った。今も嫌な言い方をする幽霊ではある。
秋の県内模試が返る日、蓮は自習室でその百点の答案を開いた。
ノートには、四月にはなかった数字が並んでいる。英単語の確認数。数学の基礎計算にかかった秒数。理科と社会を復習した日。国語の説明文で、接続語と指示語を拾った数。
やった。
今度は、言い訳ではなく言えた。
教材を増やさなかった。分からない問題を、分かったふりで飛ばさなかった。当日、翌日、三日後、一週間後に戻った。眠い日は眠った。スマートフォンは机から離した。
百六十五点。
ノートの右上に書いた目標を、蓮は親指でなぞった。
「最低でも、そこ」
窓際に立つ神崎は、腕を組んだまま返事をしなかった。薄い色のサングラスの奥が、こちらを見ている。
「何か言えよ」
「何をじゃ」
「いつもなら、予想点を書けとか言うだろ」
「もう書いとる」
神崎の顎がノートへ向いた。
腹が立つほど、その通りだった。
知念が面談室から顔を出した。
「新垣。先に返すぞ」
蓮は立ち上がった。足が椅子の脚へ当たり、乾いた音がした。
緊張ではない。準備した人間の自信だ。そう言い聞かせる必要がある時点で、半分は緊張だった。
*
机の上へ、五枚の答案が並べられた。
知念は成績表を伏せたまま、国語から順に置いた。
「まず、前回が百点だったな」
「はい」
「今回は百五十一点」
五十一点上がった。
その事実は、胸の中へ入ってくる前に、別の数字へぶつかった。
「百六十五、いってない」
「目標には十四点足りない」
「偏差値は」
「そこは母集団で動く。点数だけ見て決めつけるな。ただ、四月より現在地が上がったのは間違いない」
蓮は成績表を受け取った。
国語三十四。数学三十一。英語二十七。理科二十九。社会三十。
どの教科にも、四月にはなかった点がある。それなのに、最初に見えたのは空白だった。取った百五十一点ではなく、取れなかった百四十九点。その中でも、目標へ届かなかった十四点だけが、赤い枠で囲まれたように見えた。
「でも、もっと取れたんすよ」
知念が数学の答案を指で押さえた。
「どこで」
「時間が足りなかった。最後まで行けてたら」
大問一の基礎計算は、以前より埋まっている。正負の数、文字式、方程式。白紙だった欄に式が残っていた。
だが満点ではない。符号を一つ落とし、途中式を詰めて書いたせいで、自分の数字を読み違えている。作図は条件を一つ見落とした。証明問題は、覚えれば取れる基本形なのに、対応する辺の順序が崩れていた。
それでも、蓮の目は後半の関数へ行った。
「この問題に時間を使いすぎました。ここさえ解けてたら」
「その後ろに、もっと正答率の高い問題が二つある」
「見たときには、もう時間なかったんです」
知念は責めなかった。
「努力の量は増えた。だから、落とし方が変わったな」
褒められたのか、慰められたのか分からなかった。
英語は二十七点だった。
単語の空欄は減っている。中学一年、二年で覚えるべき語を、蓮はようやく点へ換え始めていた。短い会話文なら、主語と動詞を拾える。
長文の後半は、鉛筆の跡が薄かった。
「一文ずつ日本語にしてるな」
「ちゃんと訳さないと意味分からないから」
「ちゃんと訳した結果、最後まで読めてない」
理科は二十九点。用語問題は取れた。しかし実験条件が一つ変わったとき、結果がどう動くかを問われると止まった。
社会は三十点。世界地理、日本地理、明治までの歴史。覚えた言葉は増えたが、地図と統計資料を合わせる問題、出来事を年代順に並べる問題で崩れた。
国語は三十四点。
説明文には線が引かれていた。四月にはなかった線だ。ただし重要な箇所だけではない。ほとんどの段落に線があり、どれが根拠なのか分からなくなっていた。記述欄には本文中の言葉が三つ書かれ、その間を自分の都合でつないでいる。
「五教科とも上がってる」
知念は言った。
「でも、五教科とも次の失敗へ進んだ」
「失敗に次とかあるんですか」
「ある。何も知らなくて落とす段階と、知っているのに使えなくて落とす段階は違う」
蓮は椅子へ深く座った。
「じゃあ、もっと時間増やします」
窓際にいた神崎が、ゆっくり答案へ顔を寄せた。
「お前、この十四点を全部、時間不足の箱へ捨てる気か」
知念には聞こえない。蓮は返事を飲み込み、成績表を二つに折った。
*
家へ帰ると、蓮は机の上へ五教科を並べ直した。
誤答ノートの原因欄へ、同じ言葉を書く。
時間不足。
次も、時間不足。
その次も、時間不足。
神崎は机の横に立っていた。革ジャンの袖をまくる必要などないのに、癖なのか、肘のあたりへ指をかけた。
「何だよ」
「別に」
「言いたいことある顔してる」
「顔で分かるなら、聞く必要はないじゃろ」
「面倒くせえ」
「その分類よりは、ましじゃ」
神崎は赤ペンを持っていた。いつもなら、蓮の誤答欄へ勝手に印をつける。物には触れられないはずなのに、その赤ペンだけは神崎の手の一部のように見えた。
今日は動かない。
「最後まで行けなかった。だから時間不足。何が違う」
「その判断を証明する数字はどこにある」
「見れば分かるだろ」
「見れば分かる。解説を読めば分かる。授業を聞けば分かる。お前がいちばん信用してはいかん言葉ばかりじゃな」
蓮は数学の答案を持ち上げた。
「時間さえあれば、ここは解けた」
「では、もう一度やれ。時間を測らずに」
蓮は関数の問題へ向かった。
十分後、式は途中で止まった。
条件から何を求めるべきか、分かっていなかった。試験中に時間がなくなったのは事実だ。だが、時間があれば正解したというのは事実ではない。
神崎はノートの余白を示した。
「五つに分けろ」
「五つ?」
「知識不足。読み違い。計算ミス。時間不足。解法選択の誤り」
「先生が答え言ってるじゃん」
「箱の名前だけじゃ。どこへ入れるかは、お前が決めろ」
数学の関数は、解法選択の誤り。作図は読み違い。証明は知識不足。符号の落としは計算ミス。
時間不足と書けたものは、思ったより少なかった。
英語の長文へ移る。
一文ずつ訳して最後へ届かなかった。これは時間不足だ、と蓮は言った。
「なぜ遅い」
「読むのが遅いから」
「なぜ遅い」
「単語を思い出すのに時間がかかる」
「それは何不足じゃ」
蓮は消しゴムで「時間」を消した。
知識不足、と書き直す。
正確には、見れば分かる単語を、文の中ですぐ取り出せない。知識がないのではなく、使える速さになっていない。
理科の実験問題は読み違いだと思った。だが条件の違いを説明しようとすると、関連する知識そのものが曖昧だった。
社会の資料問題は知識不足に見えた。ところが地名も年代も覚えている。どの知識を使うか選べなかった。
国語は、重要箇所へ線を引く方法を覚えたつもりだった。実際には、線を引くことが目的になっていた。何を問われているか確認する前に、重要そうな文を集めている。
五教科の誤答が、別の顔を見せ始めた。
時間不足という一つの言葉は便利だった。努力時間を増やせばいい。明日から三十分足せばいい。根性を出せばいい。
原因を見なくて済む努力は、いつだって始めやすい。
「平日三時間。休日六時間にする」
書きかけた計画を、神崎の赤ペンが指した。
「それで、どの失点が消える」
蓮は答えられなかった。
「ワシが決めてやろうか」
以前の神崎なら、もう決めていたはずだ。教材のページ、問題数、制限時間、復習日。蓮が文句を言えば、結果を出してから言えと切った。
だが、神崎は何も言わなかった。
「で、どれから直す」
「……考えてる」
「考えろ」
命令形なのに、答えはなかった。
*
翌日の昼休み、陸が成績表を覗き込んだ。
「百五十一?」
「声でかい」
「四月、百点だっただろ。五十一点上がったわけ?」
「目標は百六十五」
「知らん。五十一点上がっただろ」
陸の計算は簡単だった。現在から目標を引く蓮と、過去から現在を引く陸。どちらも間違っていないのに、答えが違う。
「まだ偏差値も足りないし。琉星は、こんなんじゃ」
「百点だったお前が、今のお前見たら何て言うば」
「別に」
「出た。別に」
蓮は机の中へ成績表を押し込んだ。
四月の自分なら、百五十一点を見て何と言うだろう。
運がよかった。模試が簡単だった。塾の先生が当てた。そんなところだ。
笑うかもしれない。百五十一点で喜んでいると思われたくなくて、自分から先に笑う。
数学の基礎計算を、白紙のまま終えなくなった。
英語長文を、最初の三行で捨てなくなった。
理科と社会の一問一答を、点へ換えた。
国語の説明文に、少なくとも根拠を探そうとした跡がある。
どれも、百六十五点には足りない。
だが、なかったことにはできない。
「すごいって言うと思う」
蓮が答えると、陸は一度だけ頷いた。
「なら、十四点足りないやつの顔しろ。五十一点落としたやつみたいな顔すんな」
それだけ言って、陸は購買のパンを開けた。
神崎より短いくせに、神崎より逃げ道がなかった。
*
放課後、蓮は誤答ノートのページを二つに割った。
左に「伸びた点」。右に「次に取る点」。
数学。
基礎計算は、正答数だけでなく時間を測る。作図と証明は、今日できたかではなく、翌日、三日後、一週間後に何も見ず再現する。大問ごとの終了時刻を決め、解けそうな一問へ居座らない。
英語。
中一、中二の単語を日本語と英語の組み合わせだけで終えない。短い文の中で思い出す。長文は全文を日本語へ直さず、主語、動詞、接続語を取る。時間を測る。
理科と社会。
一問一答を眺める時間を減らす。教科書を閉じて書く。資料問題を混ぜる。間違えたら、答えではなく、なぜその知識を選ぶのか説明する。
国語。
線の本数を増やさない。設問が何を聞いているか先に確認する。記述は、必要な要素がいくつあるか採点基準から見る。
書き終えた計画を、神崎へ向けた。
「どう」
「ワシの許可が要るのか」
「確認くらいするだろ」
「やってみて、数字を見て、お前が直せ」
「間違ってたら」
「間違っとったと分かる。前より一つ賢くなる」
神崎は答案を見下ろした。
「ワシがいなくても、それを直せるか」
その問いだけ、少し遠くから聞こえた。
蓮は神崎の顔を見た。サングラスの色はいつもと同じだった。
「一回やって、数字見て直す」
「そうせい」
知念が、別の生徒の答案束を抱えて自習室へ入ってきた。
いちばん上に、学校の定期テストがあった。
数学九十二点。英語九十五点。丁寧な字で、丸が並んでいる。
その下から県内模試の成績表が滑った。
蓮より低い順位だった。
「あ」
知念が拾うより先に、女子生徒が手を伸ばした。
伊波陽向。
吹奏楽部の譜面ファイルを抱え、まだ制服の袖を肘までまくっている。陽向は模試を定期テストの下へ挟んだ。隠したというほど露骨ではない。けれど、見せたい順番ではあった。
蓮は目をそらした。
「ごめん。見えた」
「いいよ」
陽向は笑った。
「模試って、学校でやってない出し方ばっかりだから」
四月、応用問題が解けなかった蓮も、似たようなことを言った。
基礎ができていない自分を隠すために、問題の方へ腹を立てた。
陽向の九十点の答案には、端まできれいな丸が並んでいる。
九十点の答案は、十四点足りなかった蓮の答案より、ずっと上手に失敗を隠していた。
神崎の赤ペン補講
第19回 点数が伸びたのに、失敗した気がするとき
1.点数だけでは、三つの比較が混ざる
試験結果を見るときは、少なくとも三つを分けます。
・前回の自分との比較
・今回の目標との比較
・受験者集団の中での比較
蓮の151点は、前回100点から見れば51点の成長です。一方、目標165点には14点不足しています。どちらか一方だけを見れば、「大成功」または「失敗」と単純化してしまいます。
点数は、その試験で何点取ったかを示します。
偏差値は、難しさや受験者集団が異なる試験でも、集団の中でのおおよその位置を比べるために使います。
同じ150点でも、試験が難しければ集団内の位置は高くなり、易しければ低くなることがあります。そのため、前回との学習内容の比較には得点と答案を、志望校までの現在地には偏差値や判定を、両方使います。
2.誤答を五つに分ける
間違えた問題を、次の五つへ仮分類します。
・知識不足
・読み違い
・計算ミス
・時間不足
・解法選択の誤り
分類は完全でなくても構いません。一問に複数の原因があることもあります。大切なのは、すべてを「ケアレスミス」や「時間不足」で終わらせないことです。
3.「時間不足」をもう一段分ける
最後まで解けなかったときも、原因は同じではありません。
・基礎計算が遅い
・英単語の意味を取り出すまで時間がかかる
・一問へ執着した
・問題を解く順番が悪い
・時間があっても解法が分からない
・見直し時間を先に確保していない
時間不足だから勉強時間を増やす、とは限りません。必要なのが処理速度なのか、知識なのか、試験戦略なのかを確認します。
4.成長曲線は直線ではない
学習量を増やしても、毎回同じ割合で点数が上がるわけではありません。
基礎知識が点へ変わる時期、覚えた知識を初見問題で使えるようにする時期、時間内に処理する時期では、伸び方が違います。停滞は努力が無意味だった証拠とは限りません。ただし、「そのうち伸びる」と信じるだけでも不十分です。答案から、現在の失敗の種類を確認します。
5.次回計画を「何時間」だけで作らない
悪い計画:
「平日三時間勉強する」
改善した計画:
「数学の基礎計算20問を制限時間内に解き、正答率と時間を記録する」
「英語長文を15分で読み、主語・動詞・接続語を確認する」
「理社の一問一答を閉じて思い出し、翌日に再テストする」
学習時間は必要です。しかし時間は、学習した事実を示すだけで、何ができるようになったかまでは示しません。
6.五教科の答案で見る場所
国語:
設問の要求、根拠箇所、記述に必要な要素。
数学:
基礎正答率、途中式、単元別失点、問題選択、所要時間。
英語:
語彙、文法、文構造、長文の処理速度、設問根拠。
理科:
用語だけでなく、実験条件、因果、計算、グラフ。
社会:
用語だけでなく、地図、年代、資料、因果関係。
最後に
努力は、結果が出なかった理由を免除する証明書ではありません。
しかし、結果を分析し、次の行動を変えられる自分を作った証拠にはなります。




