第35話 酒杯と父親たちの算盤
夜も更けた東条家本家の奥座敷。
庭のしとしとと降る夜雨の音だけが響く静寂の中、東条家当主である伯父と、詩織の父親の二人の兄弟は、重厚な漆塗りの膳を挟んで向かい合っていた。
膳の上に置かれているのは、老舗『剣菱』の銘酒と、詩織が持参したという『ねこみみ練り切り』の重箱。
伯父は黒文字で練り切りを小さく切り分け、口に運ぶと、深々と息を吐いた。
「……相変わらず、大した仕上がりだな。伝統の技法を崩さず、それでいて今の若者の心を掴む。これを考案したのが、あの詩織とはな」
「兄上……詩織のことで、何か懸念でも?」
父親が静かに猪口を傾けながら尋ねる。
かつて『社交性ゼロで6位』と本家から冷遇されていた娘の父親として、この奥座敷に呼び出されること自体、以前では考えられないことだった。
伯父は猪口の酒を飲み干すと、腕を組んで低い声で切り出した。
「単刀直入に言おう。先日の紫苑とのダンスパーティー、そして西園寺の御曹司・蓮君の動きだ。……本家として、詩織の婚友関係および将来の処遇について、本格的に固める時期が来たと考えている」
「西園寺家、ですか」
「そうだ。西園寺家といえば旧財閥系の重鎮。あちらの次期総帥が我が家の分家の娘にここまで入れあげているなど、本来ならば前代未聞だ。……だが、今の詩織の価値は『ただの分家の娘』ではない。和装業界への影響力、若者層への知名度、そして何より娘の紫苑や華小路家までも味方につける異例の人脈。本家における彼女の価値は、文句なしに紫苑に次ぐ第2位だ」
伯父の瞳に、東条家当主としての冷酷な『算盤』の光が宿る。
「本家としては、この勢いを駆って詩織をしかるべき名家へ嫁がせ、東条家の基盤を盤石にしたい。西園寺家との縁組みなら文句のつけようもない……そう思っていたのだがな」
伯父は苦笑いを浮かべ、首を振った。
「当の西園寺 蓮君から、直接申し入れがあったのだ。『詩織様の自由と彼女の大切な日常を脅かすような政略結婚ならば、西園寺家としても東条家との提携を再考する』とな」
「西園寺君が……そこまで」
父親が驚きで思わず目を見開いた。
「さらにだ。樹の奴からも、『詩織の意に沿わない画策をすれば、本家の全セキュリティシステム及び関連会社へのネットワークを凍結する』と、丁寧なハッキング予告の脅迫状が届いたわ」
「す、すみません兄上……息子が大変なご無礼を……」
父親が冷や汗をかいて頭を下げかけると、伯父は「よい」と手をかざしてそれを制した。
「怒っておらん。むしろ……感心したのだ」
伯父は窓の外を暗がりを見つめながら、静かに語り継いだ。
「かつては人の影に隠れて震えていただけの娘が、己の意思で『猫耳』というお守りを抱き、自分の足で立ち上がった。その姿勢が、西園寺の御曹司も、優秀なエンジニアの兄も、我が家の誇り高き紫苑をも動かしたのだ。……力で縛りつけようとすれば、かえって我が家の大事な宝を失うことになる」
伯父は父親の猪口に静かに酒を注いだ。
「勝治よ。本家の当主として宣言する。詩織の将来は、あの子自身の意思に委ねる。本家はその選択を全面支援する『最高の盾』となろう」
「兄上……感謝いたします」
父親は深々と頭を下げた。
「ふん、礼には及ばん。ただし……条件がある。」
伯父はニヤリと、当主らしい抜け目のない笑みを浮かべた。
「今度の本家での親族会議の茶席、詩織に『猫耳カチューシャ』着用で出席させよ。あの頑固な長老どもをあの愛らしさと和菓子で一網打尽にしてもらわねばな」
「はは……それは詩織も喜んで引き受けると思います」
雨音の響く奥座敷で、二人の父親は静かに杯を交わした。
巨大な東条家の思惑すらも、『自分らしくあること』を貫いた少女の小さな魔法によって、温かな追い風へと変わっていったのだった。




