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無字 ―― 何もかも偽れる世界で、本物を探した  作者: 智珠
第一部

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第六章 見なくていいもの

道はしだいに、人けのないほうへ続いていった。


家も店もまばらになり、やがて、何もなくなった。あたりが暗くなるにつれ、真尋の胸には、なぜか、いやな予感がたまっていった。日が暮れかけたころ、車は、長いトンネルの入り口で静かに止まった。リュウが、ここから先へは進もうとしなかった。


真尋は、窓の外を見て、思わず息をのんだ。


トンネルの壁が、いちめん、画面でおおわれていた。そして、その画面の上を、何かが絶え間なく流れていた。真尋は、それが何なのか、はっきりとは見なかった。見た瞬間に、目をそらしていた。ただ、ほんの一目で、胸の底が冷たくなった。人が決して見なくていいもの。見てしまえば、何かが、二度と元に戻らなくなるもの。それが、川のようにとめどなく、壁を流れつづけていた。


その流れは、たぶん、何年も、止まっていないのだろう。真尋がそう思っただけで、息が苦しくなった。こんなものの前に長くいたら、人の心は、きっと、もたない。


「ここは」と、真尋は、かすれた声で言った。


「世界じゅうの、いちばんひどいものが、流れ着くところだ」と、悟が言った。その声も、めずらしく低かった。「本物か偽物かも、分からない。ただ、ひたすらにひどいものが。人が、人にできる、いちばんむごいこと。目をそむけたくなるものが、ぜんぶ、ここへ流れてくる。……人の心がこわれたあとに、あふれ出したものたちさ」


真尋は、思い出していた。この世界を、こんなふうにしてしまったのは、誰か。何が本物か分からなくして、人と人を引き裂いて、たがいを信じられなくして。その、はじまりを作ったのが、すぐ隣にいる、この悟だった。世界を、こんな流れであふれさせたものと、自分は、同じ車に乗っている。そう思うと、真尋はまた、ポケットの輪に手を伸ばしそうになった。悟も、たぶん、同じことを考えていた。その横顔は、石のように動かなかった。ただ、いつもの皮肉は、どこにもなかった。


そのとき、真尋は気づいた。流れの中に、一人、人影があった。


男だった。年のころは、四十くらいか。くたびれた作業着を着て、その流れつづける壁の前に、たった一人で立っている。そして、黙々と、手を動かしていた。壁を流れる、あの見るにたえないものを、一つ、また一つと、選り分けては消していく。まるで、川の底の泥を、ひたすらすくいつづけるように。


その手つきに、真尋は胸を突かれた。ずいぶん長いあいだ、そうしてきた手だった。もう何も感じていないように見えて、それでいて、一つ一つを、決していいかげんには扱わない。男の目は、落ちくぼんで、暗かった。あまりに多くのものを見て、その目の奥が、すり切れてしまったような、そんな暗さだった。


真尋たちが近づいても、男は、顔を上げなかった。


「……通るなら、早く通れ」と、男は言った。低い、かすれた声だった。「ここは、長くいるところじゃない」


「あなたは」と、真尋は聞いた。「一人で、これを、やっているんですか」


男は、答えなかった。ただ、手を止めなかった。


真尋には、分かった。この男は、これを消しているのだ。この先の、トンネルの向こうにいる、ふつうに暮らす人たちのところへ、これが流れていかないように。誰にも見られず、誰にも知られず、たった一人で。世界じゅうが目をそむけるものを、この男だけが、まっすぐに見つめつづけていた。人が、安心して、笑っていられるように。その笑っている人たちは、この男のことを、たぶん、一生、知ることもない。


真尋は、自分の仕事のことを思った。本物か、偽物か。人が知らずにすむように、確かめる。誰にもほめられない。それでも、やめられない。この男の仕事は、真尋のそれと、どこか似ていた。ただ、真尋よりも、ずっと、ずっと重かった。


「わたしにも」と、真尋は、思わず言っていた。「少しだけ、分かる気がします。……誰も、見てくれない仕事の、こと」


男は、はじめて、ちらりと真尋のほうを見た。何も言わなかった。けれど、その一瞬の目に、ほんの少しだけ、何かやわらかいものがよぎった気がした。


「どこへ、行く」と、男が、ふいに聞いた。


「西へ」と、真尋は答えた。「西の果てに、あるものを、取りに」


男の手が、はじめて止まった。


しばらく、男は、何も言わなかった。それから、作業着の胸のポケットから、小さな、すり切れた紙のようなものを、そっと取り出した。何かの写真のようだった。男は、それをちらりと見て、またしまった。真尋には、そこに何が写っているのか、見えなかった。ただ、それを見る男の目つきが、ほんの一瞬、ひどくやさしくて、そして、ひどく悲しかった。


「……あんたで」と、男は、つぶやいた。そして、その先を言いかけて、やめた。


真尋は、聞き返せなかった。男の目の中に、何か、触れてはいけないものがあるような気がした。前にも、ここを、同じように西へ行こうとした者が、いたのだろうか。ふと、そんな気がした。けれど、それを確かめるのが、なぜか、こわかった。


「なあ」と、男は、悟のほうを見た。悟を一目見て、それが何なのか、分かったようだった。責めるふうではなかった。怒るには、たぶん、この男は、もう、あまりに多くを見すぎていた。怒りよりも、もっと深いところで、ただ、疲れているように見えた。「おまえたちがこわしたものの、いちばん底が、ここだ」


悟は、何も言い返さなかった。いつもなら、皮肉の一つも、返すはずだった。けれど、このときの悟は、ただ黙って、自分がこわしたものの、いちばん底を、見つめていた。


「……知っているよ」と、悟は、静かに言った。それだけだった。


男は、うなずいた。そして、はじめて手を完全に止めて、こちらを向いた。


「その旅に、おれも加える」と、男は言った。


真尋は、おどろいた。


「どうして。……こんなに大事な仕事を、放り出して」


男は、少しのあいだ、答えを探すように黙っていた。


「底に、何があるか。おれは、見た」と、やがて、男は言った。「毎日、毎日、見てきた。人が、これ以上ないほど、ひどくなれることを。……だから、分かるんだ。もし、その西の果てのものが本物なら。それを、持ち帰れたら。この底が、少しは浅くなるかもしれない。人が、もう少し、たがいを信じられるように、なるかもしれない。……それなら、意味がある。おれが、ここで見てきたことにも、やっと、意味が」


男の声は、静かだった。けれど、その静けさの底に、真尋には見えないほど深い、何かが沈んでいた。


「名前は」と、真尋は聞いた。


「沼田」と、男は言った。それだけだった。


こうして、旅の仲間が、四人になった。


口のうまいハチが、めずらしく、静かにしていた。声を持たないリュウが、静かに扉を開ける。世界を壊した悟と、その底を見つづけた沼田が、同じ車に乗り込んだ。そして、真尋が、みんなを西へ連れていく。ふしぎな一行だった。誰一人、たがいを、まだ、信じてなどいない。それでも、同じ方向を向いていた。


車は、あの長いトンネルをくぐりぬけた。うしろで、あの流れが、しだいに遠ざかっていく。それでも、真尋の胸には、さっきの、男の言葉が残っていた。


――あんたで。


その先を、男は言わなかった。あんたで、何なのか。真尋には、まだ分からなかった。ただ、その言いかけた言葉と、あのすり切れた写真を見る、悲しい目とが、なぜか、いつまでも、真尋の胸の奥に残っていた。あんたで、何人目なのか。その問いだけが、答えのないまま、真尋の中に、いつまでも居すわりつづけた。

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