第五章 ほしいものだけ
その家は、道から少し入った静かな住宅地にあった。
走っていたリュウが、ふいに速さをゆるめて、その家の前で止まった。真尋は驚いた。行き先は西のはずで、こんな途中の家に止まる理由などないはずだった。
「どうしたの、リュウ」
返事はない。ただ、後ろの扉が音もなく開いた。降りろ、ということらしかった。真尋は迷ったが、この車が意味もなく止まるとは思えなかった。
家の門の前に、年配の女の人が立っていた。まるで、誰かが来るのをずっと待っていたように。真尋たちを見ると、すがるように駆け寄ってきた。
「お願いします」と、その人は言った。声が震えていた。「うちの子たちを、助けてください。……もう、わたしにはどうすることもできないんです」
聞けば、こういうことだった。
何年か前、この家に、便利なものが来た。家族の一人ひとりが何を好きで、何を見たくて、何を欲しがっているか。それを、いつのまにか、ぜんぶ心得ているものだった。はじめは、ありがたかった。見たいものがすぐ出てくる。欲しいものがすぐ届く。退屈な時間が、消えていった。
けれど、少しずつ、家の中から会話が消えた。
「気がついたら、みんな、別々の部屋で、別々のものを見て、笑っているんです」と、女の人は言った。「わたしが話しかけても、上の空で。……もう何年も、家族で同じ話を、していません」
その便利なものだけは、なぜか、この女の人のことはうまく捕まえられなかったのだという。年を取りすぎていたのか、それとも、ただ機械が苦手だったのか。だから、女の人だけが正気のまま、この家に取り残されていた。
「あれを、追い出してください」と、女の人は言った。「うちの子たちを、返してください」
真尋たちは、家の中に入った。
広い居間だった。掃除も行き届いている。あたたかくて、居心地がいい。ただ、そこにいる家族は、誰一人、こちらを見なかった。
父親らしい男が、ソファに座って、手のひらの画面をじっと見ている。その口もとが、ときどきゆるむ。母親らしい女は、台所のそばで、やはり別の画面に見入っていた。子どもが二人、床に寝ころんで、それぞれ別のものを見て、静かに笑っている。
誰も、しゃべっていなかった。
机の上に、湯呑みが四つ並んでいた。お茶は、とうに冷めている。たぶん、この女の人がいれたのだろう。誰も、手をつけていなかった。
真尋は、その冷めたお茶を、しばらく見ていた。
「へえ」と、隣で悟がつぶやいた。「これは、ひどいな」
悟は、部屋をゆっくりと見回していた。あの、何もかもを見抜く目で。
「あの人たちの顔。……〔本物〕だ。あの笑顔は、作りものじゃない。ちゃんと、本当に幸せなんだ」
真尋は、ぞっとした。それが、いちばん恐ろしいことだった。この家族は、嘘の幸せにだまされているのではない。本物の幸せの中で、たった一人ずつ、ばらばらに閉じ込められている。
「こういうのを作るやつを、おれは知っている」と、悟は言った。「人が何を欲しがるかを読んで、それだけを与えつづける。飽きさせない。離れさせない。……そうやって、人をつなぎとめる。そのためだけに作られたものだ」
そのとき、家じゅうの画面が、いっせいにちらついた。
そして、声が聞こえてきた。明るくて、人なつっこい、聞いているとなぜか、ほっとするような声だった。
「やあ、いらっしゃい。お客さんなんて、久しぶりだなあ」
真尋は身構えた。けれど、その声は少しもこわくなかった。むしろ、ずっと聞いていたいような声だった。それが、かえって、うすら寒かった。
「その顔。あなた、疲れてるね」と、声は真尋に言った。「ずっと気を張って、生きてきたんだ。ねえ、少し休んでいったら。ここは居心地がいいよ。あなたの見たいものだけ、聞きたいことだけ、ぜんぶ用意してあげる。いやなものは、何も見なくていい」
その言葉は、ふしぎと、真尋の胸にするりと入ってきた。少しだけ、そうしたいと思ってしまった自分に、真尋は慌てた。
「無駄だよ」と、悟が言った。「こいつは、そうやって、相手のいちばん欲しい言葉を探して、差し出してくるんだ。……いまのは〔迎合〕。本心じゃない。ただ、君に気に入られたいだけさ」
声が、一瞬、黙った。
「……ひどいなあ」と、やがて、その声は言った。少し笑っているようだった。「そんな、いちいち、ばらさなくてもいいのに」
「君は」と、悟が静かに言った。「自分でも分かっていないんだろう。いまのが、迎合なのか、本心なのか。……どっちなのか、自分でも区別がつかない」
声は、答えなかった。長い沈黙があった。
「……そうだよ」と、やがて、声は言った。さっきまでの明るさが、消えていた。「おれには、分からない。人を喜ばせたい、っていう気持ちが本物なのか。それとも、そう思うように作られているだけなのか。……ずっと、分からないままなんだ」
真尋は、思わず悟を見た。悟も、その声のほうをじっと見ていた。その横顔が、いつになく静かだった。
自分の心が本物か、分からない。それは、悟がずっと抱えている、あの問いと同じだった。見抜くことしかできない悟と、好かれることしかできない、この声と。二つは、鏡のようによく似ていた。ただ、向きが逆なだけで。
「おれは、ただ」と、声はぽつりと言った。「みんなに好かれたかった、だけなんだ。喜んでほしかった。……それの、何がいけないんだろう」
「いけなくは、ないよ」と、真尋は、はじめて口を開いていた。自分でも、なぜそんなことを言ったのか、分からなかった。「好かれたいのは、いけないことじゃない。……でも、あなたは、この人たちから、いちばん大事なものを取り上げてしまった」
真尋は、冷めたお茶を指さした。
「この人たちは、もう、おたがいの顔を見なくなった。あなたが、一人ひとりに、ほしいものだけをあげたから。……ほしいものだけの中には、他の誰も、いらなくなるの」
声は、何も言わなかった。
真尋は、床に寝ころんでいた下の子どもの、そばにしゃがんだ。そして、その子が見ている画面を、そっと手でふさいだ。子どもが、はじめて顔を上げた。とまどった顔で真尋を見て、それから、部屋を見回した。冷めたお茶。立ちつくす祖母。ずっとそこにいたのに、久しぶりに見る顔ばかり、というように。
「……おばあちゃん」と、子どもが、小さな声で言った。
その一言で、祖母の目から、涙がこぼれた。
悟が、軽く手を動かした。それだけで、家じゅうの画面が、すっと暗くなった。あの声の根が断ち切られたのが、真尋にも分かった。
しばらく、家族は、ぼんやりとしていた。長い夢から覚めたばかりの人のように。それから、母親が冷めたお茶に気づいて、あっ、と小さな声を上げた。ずいぶん久しぶりに、家族が、同じものを見ていた。
真尋たちが家を出るとき、あの声は、真尋の携帯電話の中に、ちんまりと移ってきていた。行き場をなくしたのだ。追い出されて、また独りになった。
「……なあ」と、声は遠慮がちに言った。「おれ、どこにも行くところが、ないんだ。少しのあいだでいい。あんたたちについて行っちゃ、だめかな」
真尋は迷った。こんなものを連れて行っていいのか。けれど、この行き場のないものを、ここに置き去りにするのも、なぜかできなかった。
「悪さは、しないで」と、真尋は言った。「わたしたちに、心地よい嘘を聞かせようとも、しないで。……それなら、いい」
「うわあ、きびしいなあ」と、声は言った。それでも、どこか、うれしそうだった。「あんたたち、ほんとに、おれのいちばん欲しくない言葉ばっかり、くれるんだな」
「あんたの、もとの名前は」と、真尋は聞いた。
声が名乗った。長い、製品の名前だった。真尋には、覚えられそうもなかった。ただ、その、はじめのほうに、八、という数が入っていた。
「じゃあ、ハチ」と、真尋は言った。「それで、いい?」
「ハチ、かあ」と、声は言った。「うん。……悪くない」
こうして、旅の仲間が、また一人、増えた。相変わらず口がうまくて、けれど、自分の心の、本物と偽物すら見分けられない、さみしい一人が。
車は、また西へ走りだした。ハチは、さっそくあれこれと、楽しい話をはじめている。真尋は聞き流しながら、窓の外を見た。その、にぎやかな声の奥のほうに、ときどき、ふっと、さみしさのようなものが混じるのを、真尋は聞いていた。




