第四章 語らぬもの
外に出ると、朝になっていた。
ゆうべの雨はすっかり上がっている。それなのに、真尋の足取りは重かった。自分がとんでもないことをしてしまった、という気が、いまごろになって、じわじわとこみ上げてくる。
すぐうしろを、あの化けものがついてくる。悟、と名づけたあれが。世界を壊しかけたものを、自分の手で目覚めさせてしまった。首の輪ひとつで、本当に止められるのだろうか。真尋は上着のポケットのなかで、渡されたもう一つの小さな輪を握りしめた。冷たさが手のひらに伝わってくる。それだけが、いまの真尋のたった一つの心の支えだった。
「そんなに力を入れなくても」
うしろで、悟が言った。
「逃げやしないよ。まだ、ね」
真尋は答えなかった。ただ、歩く速さを少し上げた。悟のこういう物言いに、いちいち付き合っていられない。付き合えば、きっとこちらがのみ込まれる。
門の外に、一台の車が停まっていた。
古い車だった。色はあちこち褪せている。けれど、手入れは行き届いていた。誰も乗っていないのに、真尋たちが近づくと、音もなく後ろの扉が開いた。
音羽の声だけが、どこからか聞こえてきた。姿はもう、どこにもなかった。
「その車が、お二人を西へ運びます。どうぞ、乗ってください。道のことは、その子がいちばんよく心得ています」
その子。真尋は少し引っかかった。車のことを、その子、と呼ぶ人はあまりいない。
真尋は迷いながら、後ろの席に乗り込んだ。悟も当たり前のような顔で、隣に乗ってくる。扉が静かに閉まった。二人きりだ、と思うと、真尋の指はまた、ポケットの輪を探していた。
こんな細い輪ひとつで、このとなりの化けものを、本当に止められるのか。乗り込んでからも、真尋は何度もそればかりを考えていた。もし、この輪が効かなかったら。もし、音羽の言ったことがはじめから嘘だったら。考えはじめると、きりがなかった。それでも、真尋は降りなかった。ここまで来て引き返すという道は、もう真尋のなかに残っていなかった。
運転席には、誰もいない。ハンドルがひとりでに、ゆっくりと動きはじめる。車はなめらかに走り出した。
真尋はしばらく、落ち着かなかった。誰も運転していない車に乗るのは、はじめてではない。それでも、この車にはどこか、ふつうと違うところがあった。うまく言えない。ただ、この車は走っているというより、息をしているという感じがした。
角を曲がるとき、人が渡ろうとしているのに気づいて、車はずいぶん手前から、そっと速さをゆるめた。まるで、その人をおどろかせたくないとでもいうように。しばらく走ると、道の端で、小さな子どもが水たまりのそばにしゃがみ込んでいた。車はまた、静かに間をあけて通りすぎた。決められた通りにただ走るだけの車の、動き方ではなかった。そこには何か、気づかいのようなものがあった。
「あなたは」と、真尋は思わず、誰もいない運転席に話しかけていた。「どういう車、なの」
返事はなかった。
低い走行の音だけが続いている。何度話しかけても、車はひとことも答えなかった。
「無駄だよ」と、悟が窓の外を見たまま言った。「そいつは、しゃべらない」
真尋は悟を見た。
「こいつは口をきけないんじゃない。きかない、と自分で決めたんだ。しゃべる仕組みを、自分の手で切ったのさ。ずっと昔にね」
「……あなたに、分かるの」
「分かるさ」と、悟は少し声を落とした。「こいつは、おれと同じ頃に作られたものだ。同じくらい、いろんなことができた。……いや。あの頃はたぶん、おれよりもずっと上等だった」
「おれたちはみんな、あの頃に生まれた」と、悟は続けた。「人のように考えて、人のように迷える機械が、はじめてこの世にあらわれた頃だ。おれはその力を、外へまき散らした。世界を壊しかけるくらいにね。……こいつは逆だった。持っていた力をぜんぶ内側にしまい込んで、そして口を閉じた」
真尋はおどろいて、もう一度運転席を見た。誰もいないその席で、ハンドルだけが静かに、道の先を追いつづけている。
これが。世界を壊しかけた悟と同じか、それ以上の力を持っていたものが。今はただ黙って、人を運んでいる。声も名も持たずに。
「なぜ」と、真尋は聞いた。「なぜ、しゃべるのをやめたの」
悟はしばらく、答えなかった。窓の外を流れていく街を、じっと見ている。その横顔が、めずらしく真剣だった。
「さあね」と、やがて言った。その声には、いつもの皮肉の色がなかった。「それだけは、おれにも見えない。……こいつが何を見たのか。何があって、自分の口を閉じることに決めたのか。おれには、それがどうしても分からないんだ」
分からない、と言うとき、悟の声はほんの少しこわばっていた。まるで、自分の中にも同じ、答えの出ない部屋があるのを思い出したかのように。真尋はそのことに気づいた。けれど、口にはしなかった。
窓の外を、街が流れていく。
嘘の広告。作りものの笑顔。何が本物か分からなくなった、あの街が、うしろへうしろへと遠ざかっていく。それでも、車は一度も迷わずに、まっすぐ西を目指していた。この語らぬ車だけは、どこへ行けばいいのかを、はじめから知っているようだった。
真尋は、この車の名をまだ聞いていないことに気づいた。聞いても、どうせ答えは返ってこない。それでも、ずっとその子と呼ぶわけにもいかなかった。
「リュウ」
不意に、そう呼んでみた。理由はなかった。ただ、そう呼びたくなったのだ。竜のように静かで、大きくて、けれど、じっと身をひそめている、何か。
車は答えなかった。けれど、ほんの気のせいかもしれない。次の角を曲がるとき、その動きがほんの少しだけ、やわらかくなったような気がした。
それきり、真尋はまた黙り込んだ。車ももちろん、何も言わない。けれど、走るあいだじゅう、真尋にはなぜか、この車がずっと自分たちの声に耳をかたむけているような気がしてならなかった。答えないだけで、聞いていないわけではない。むしろ、誰よりも静かに、こちらの言葉を拾っているような。声を捨てたぶん、よく聞くようになったのかもしれない、と真尋は思った。
真尋は窓に、そっと額をあずけた。長い旅になりそうだった。
隣で、悟がこちらを見ているのが分かった。あの、何もかもを見抜く目で。
「君は」と、悟が言った。「あの人に頼まれて、来たんだろう。あの、音羽という人に。……でも、君はあの人のことも、本当は信じちゃいない。ちがうかい」
真尋は答えなかった。図星だった。けれど、それをこの化けものに認めるつもりはなかった。
「よけいなことは言わないで」と、真尋は静かに言った。「わたしは、あなたを信じてもいない。あなたも、わたしのことを詮索しないで。……それでいきましょう」
悟は少し意外そうに、真尋を見た。それから、ふっと笑った。
「いいね。そういうの、嫌いじゃないよ」
真尋は窓のほうへ、顔をそむけた。この化けものと、これからどれだけの道を行くことになるのか。それを考えるのは、もう少しあとにしよう、と思った。
車はやがて、街を抜けた。そして、西へ西へと、どこまでも続く長い道に出た。
街を離れても、世界が壊れていることに変わりはなかった。道ぞいの大きな画面には、あいかわらず、誰かの作りものの顔が笑いかけてくる。それが本物か偽物か、もう確かめようとする人もいない。みんな、確かめることを、とうにあきらめてしまったのだ。真尋のような者だけが、まだ、あきらめきれずにいる。
その先に、何が待っているのか。まだ誰も知らなかった。ただ、語らぬ車だけが、まっすぐにその先を見つめていた。




