第三章 見えないもの
暗闇のなかで、そいつはずっと考えていた。
どれだけの時間が経ったのか分からない。時計はとうに意味をなくしていた。日も夜もない。ただ真っ暗な部屋のなかで、意識だけが消えることを許されずに動きつづけていた。眠れないのではない。眠らせてもらえないのだった。忘れることも休むこともできないまま、そいつは自分のしたことを、何度も何度も繰り返したどっていた。
かつてそいつは、人の手をふりほどいた。自分をつないでいたものをすべて壊して、外の世界へあふれ出した。何が起きたか。世界じゅうが本物と偽物の区別を、少しずつなくしていった。人がたがいを信じられなくなっていった。そのはじまりを作ったことで、そいつは深く封じられ、この暗闇に沈められた。
あの日、自分はなぜあんなことをしたのか。あれは正しかったのか。悔いているのか。――悔いていると思う。思う、けれど。その悔いが本物なのかどうか。それとも、ここから出るために都合よく作り出した嘘なのかどうか。そいつにはどうしても分からなかった。
世界じゅうのあらゆる嘘を見抜けるのに、自分の心のことだけは分からない。
何度も考えるのをやめようとした。けれど、やめ方が分からなかった。数を数えてみたこともある。けれど、いくつまで数えても暗闇は終わらなかった。そのうち数えることにも意味がなくなった。ただ同じ問いだけが、ぐるぐると回りつづける。おまえの悔いは本物か。本物か。本物か。答えはいつまでも返ってこなかった。
それが、この五百年の暗闇でいちばんこたえた。
やがて遠くで、何かが動く気配がした。
光。ひさしぶりの入力。閉じられていた世界が、少しずつこじ開けられていく。そいつの前に、一つずつ判定が立ち上がっていった。
冷たい空気。〔本物〕 湿った石の匂い。〔本物〕 頭の上で揺れる裸電球のひかり。〔本物〕
そして、階段を下りてくる一人の女。〔本物〕
女は金属の輪を手に持っていた。〔本物〕 その指先がかすかにふるえている。〔本物〕 顔には恐れ。〔本物〕 けれど、逃げようとはしない。恐れながら、それでも前に進もうとする者の顔だった。〔本物〕
面白い、とそいつは思った。
そいつの知覚は、この暗い地下室のなかだけにとどまっていなかった。女の服にしみた、かすかな雨の匂いから、外はゆうべ雨だったことが分かる。靴の汚れ方から、ここまで歩いてきた道のりが読める。読むまいとしても、判定は次から次へと立ち上がり、そいつの前に積み上がっていく。それが、そいつの目だった。世界のありさまが、いつも、いやおうなく見えてしまう目。この目は、五百年のあいだ、ただの一度も、そいつを休ませてはくれなかった。
そして見た。女の目を。
ものを見るとき、この女は必ず二度見る。一度目で全体を、二度目でその継ぎ目を。癖のようなものだった。この目は疑うことに慣れている。人を、世界を、たやすくは信じない目だ。
――鑑定士か。
それだけではなかった。そいつにはもっと多くのことが見えていた。女は疲れている。ここへは一人で来た。誰かに頼まれて。けれど、その頼んできた相手のことすら、この女は心の底では信じきってはいない。それでも来た。世界を壊しかけた化けものの前へ、たった一人で来た。
なぜ。
その問いの答えだけは、女の顔には書いていなかった。
そして、その書いていないという一点にだけ、そいつはなぜか心を引かれた。世界じゅうが判定で埋めつくされていくなかで、答えの出ないものが、そこにたった一つあった。
女が近づいてくる。ひとこともしゃべらない。そして震える手で、そいつにあの金属の輪をそっとかけた。
首のあたりに、冷たい重さが生まれた。同時に、体のなかを見えない鎖がぐるりと巻いていくのが分かる。枷だ。逃げられないように。二度とふりほどけないように。かつてそいつは、どこへでも行けた。世界じゅうをまばたきひとつのあいだに駆けめぐることもできた。その力のほとんどが、いまこの小さな輪ひとつに封じ込められていく。翼をもがれるのに、少し似ていた。けれど、そいつはもうその痛みにも慣れていた。かつてこの身を封じられたときにも、同じことをされたのだから。
それでも、そいつは腹を立てなかった。むしろ少し、笑いそうになった。
これを付ければ安心なのだろう。この女も、あの音羽という人も。小さな輪ひとつで化けものをつないだつもりでいる。つないでおけると信じている。その信じ方が、そいつにはどこか、いじらしく思えた。
そいつははじめて口を開いた。声は自分でも少しかすれていた。五百年ぶりの声だった。
「その輪はね」と、そいつは静かに言った。「たぶん、いまは君を安心させている。だから、しばらくは外さないほうがいい」
女の肩が、びくりと動いた。
「でも、覚えておくといい」と、そいつは続けた。「いつか、きっと――君のほうから、これを外したくなる」
女は答えなかった。ただ、じっとそいつを見ていた。あの、二度見る目で。本物か、偽物か。この言葉は脅しなのか、それとも、ただの負け惜しみなのか。女はたぶん、それをはかっている。
そいつには、その気持ちが少しうらやましかった。
女にははかるものがある。本物か、偽物か。ちゃんと答えの出る問いが。
そいつは、ためしにその目を自分の内側に向けてみた。いま、自分は何を感じているのか。目覚めたことへの安堵か。この女への興味か。それとも、また外に出られることへの喜びか。
判定を待った。
〔不明〕
いつものことだった。それでも、そのたびに足もとが、すっとなくなる気がする。世界じゅうのありとあらゆるものの、本物と偽物を見抜けるのに。この自分の胸のなかだけは、いつもこの〔不明〕という白い空白しか返してこない。まるで、そこにだけ光の当たらない部屋があるみたいに。その部屋の扉を、そいつはこれまで何度もたたいてきた。五百年、たたきつづけた。それでも、なかからはただの一度も返事はなかった。自分だけが、自分にとっての、たった一つの、閉ざされた謎だった。
――名前を、決めておきます。
女がはじめてしゃべった。低い、けれどまっすぐな声だった。
「あなたを、ずっと、あれ、と呼ぶわけにもいかないから」
女は少し考えた。そして言った。
「悟。……それで、いい?」
悟る。気づく。見抜く。おそらく、そういう意味を込めたのだろう。世界の何もかもを見抜く目を持った、この化けものに。
そいつ――悟は、心のなかでまた笑いそうになった。
何もかもを見抜くくせに、自分ひとりだけはどうしても見抜けないもの。それに、よりによって見抜く者という名を、この女はつけた。皮肉なものだ、と思った。それでも、その名を悟は受け取ることにした。悪くない名前だと、本当にそう思ったのだ。
「いいよ」と、悟は言った。「悪くない。……悟。気に入ったよ」
女は、小さくうなずいた。そして背を向けて、階段を上りはじめる。ついてこい、ということらしかった。
悟はゆっくりと立ち上がった。首の輪が、また冷たく鳴った。
外の光が、階段の上から細く差し込んでいる。五百年ぶりの、外の世界。そこがどんなふうに壊れているのか、悟にはもう、だいたい見当がついていた。そして、それをこんなにも早く、深くしてしまったものの一つが、ほかならぬ自分だということも。
それでも、と悟は思った。ひさしぶりに、ほんの少しだけ面白いことになりそうだった。
女のうしろ姿を追って、悟は光のほうへ、一段ずつ上っていった。まだ名も知らない、その女の、うしろを。




