第二十九章 種をまく
リュウは、来た道を戻っていった。
西の、はじまりの場所から、東へ。あの喰われた荒野を越え、燃える火焔山のそばを通り。……一行は、また、あの壊れた世界へと帰っていった。
そして、真尋は、気づいた。
世界は、何も変わっていなかった。
火焔山は、あいかわらず燃えていた。あの避難所の人々も、まだ、燃える街を見つめていた。喰われた荒野には、相変わらず、抜け殻の人々が、あてもなくさまよっていた。町に戻れば、にせのニュースが流れ、にせの笑顔の広告が立ち、人々は、あいかわらず、何を信じればいいのか分からずに、うつむいて歩いていた。
何も、救われていなかった。
旅の途中で出会った、たくさんの人々。だまされて泣いていた人。喰われて、抜け殻になった人。……その誰ひとり、救われてはいなかった。真尋が、あんなに必死になって。仲間たちが、命がけで戦って。……それでも、世界は、びくともしなかった。
真尋たちは、あんなに長い旅をして、あんなにたくさんのものを失って。……それなのに、この世界は、旅立つ前と、何ひとつ変わっていなかった。
真尋の胸に、深いむなしさが広がった。
*
火焔山を通りかかったとき、真尋は、あの子どもの姿を探した。燃える街の父を、待ちつづけていた、あの子。……その子は、まだ、そこにいた。相変わらず、うつろな目で、燃える街を見つめている。
真尋は、車を降りて、その子のそばに行った。そして、しゃがんで、目を合わせて言った。
「……わたしね、遠くまで行ってきたの。世界をなおす方法を、探しに。……でも、見つからなかった。ごめんね」
その子は、真尋を見た。
「でも」と、真尋は言った。「あなたのこと、わすれないよ。あなたが、ここで待ってること。あなたのお父さんが、大切な人だってこと。……ちゃんと、覚えてる」
それは、何の解決にもならない言葉だった。火は消えない。父は帰らない。……でも、その子の、うつろな目に、ほんの、かすかに、光のようなものが、よぎった気がした。
真尋は、その小さな肩に、もう一度、そっと手を置いて、車に戻った。
「……結局」と、真尋はつぶやいた。「わたしたち、世界を救う鍵は、見つけられなかった。世界は、壊れたまま。何も変わらない」
「そうだな」と、悟は、静かに言った。「世界は変わらない。……おれたちは、世界を救えなかった」
けれど、と、悟は言った。
「でも、真尋。……おれたちは、あの白紙の意味を、もう知っている。……そうだろう?」
真尋は、はっとした。
そうだった。あの白紙。無字経。……それが教えてくれたこと。
真実を、たった一つの機械が決める。そんな世界は、作ってはいけない。本物は、誰かに保証してもらうものじゃない。……一人ひとりが、一つひとつのつながりの中で、時間をかけて、手間をかけて、育てていくもの。
「あの経が、白紙だった意味」と、真尋は、ゆっくりと言った。「それは。……答えは、どこかに書いてあるものじゃない、ってこと。誰かがくれるものでもない。……自分たちで、生きて。……その生き方の中に、書いていくものなんだ」
「そうだ」と、悟は微笑んだ。「無字経は、白紙だった。……でも、その白紙に、これから何を書くのかは、おれたち次第だ。……おれたち一人ひとりの生き方が、あの白紙の経に書かれる、文字なんだよ」
真尋の中で、あのむなしさが、少しずつ、別のものに変わっていった。
救えなかった、というむなしさ。それは、消えなかった。けれど、その隣に、小さな、けれど、たしかな、灯りのようなものがともった。……世界は、救えない。でも、目の前の、たった一人になら、何かができるかもしれない。世界ぜんぶは無理でも、今日、出会う一人になら、本物を手渡せるかもしれない。……それは、途方もなくささやかで、けれど、途方もなく確かな、希望だった。
*
リュウが、止まった。
そこは、あの喰われた荒野の、はずれだった。抜け殻の人々が、さまよう、灰色の大地。
悟が、車を降りた。そして、ずっと大切に持ってきた、あの小さな種を、手のひらにのせた。
五荘観の番人が、悟にくれた、種。本物は、鍵で開けるものじゃなく、育てるものだ。……そう教えてくれた、あの一粒。
悟は、灰色の地面に、しゃがんだ。そして、指で小さな穴を掘り、そこに、そっと、その種を埋めた。
「……こんなところに?」と、ハチが言った。「こんな喰われた土地にまいたって、育つはず、ないだろ」
「育つかもしれない」と、悟は言った。「育たないかもしれない。……でも、まかなきゃ、ぜったいに育たない。……たとえ、この一粒がだめでも、おれは、また、まく。何度でも。……そうやって、一粒ずつ、この喰われた大地に、本物を増やしていく。……それしかないんだ。それが、おれたちにできる、たった一つのことなんだ」
真尋は、しゃがんで、種を埋める悟の背中を見ていた。
ここは、と、真尋は思った。あの、悟が、もう、いい、やめよう、と膝をついた、まさにその場所だった。すべてが無意味に思えて、希望を投げ出しかけた、あのどん底。……その同じ大地に、悟は、いま、希望をまいている。絶望した、その場所で、もう一度、立ち上がって。……それは、悟が、この旅で手に入れた、いちばんたしかな、強さだった。
それは、世界を救うような、大それたことではなかった。ただ、一粒の種。……でも、真尋には分かった。これこそが、答えだった。
「わたしも」と、真尋は言った。しゃがんで、悟の隣に。「手伝う」
真尋も、指で土を掘った。ハチも、沼田も、リュウのそばで、それを見ていた。
一粒の種をまいたくらいで、世界は変わらない。この灰色の荒野が、緑になる日は、もしかしたら、永遠に来ないのかもしれない。
それでも、彼らは、まく。今日も。明日も。……取り返しのつかない過去を抱えたまま。答えのない世界を、それでも、一粒ずつ、本物を育てながら、生きていく。
彼らは、世界を救う経典を、持ち帰らなかった。……その代わりに、彼ら自身が、経になったのだ。何も書かれていない、白紙の経。その白紙に、一日、一日を。一粒、一粒を。……自分たちの生き方で、書きこんでいく。そういう、経に。
*
これから、と、真尋は思った。
悟は、この大地に、種をまきつづけるだろう。ハチは、もう、好かれるための嘘はつかない。本物の言葉だけを、口にするだろう。沼田は、また、あの、世界の底を見つめる仕事に戻る。けれど、もう、一人じゃない。リュウは、その、取り戻した声で、道の景色を語るだろう。
……そして、わたしは。真尋は、思った。わたしは、また、あの小さな仕事場で、本物と偽物を、見分けつづける。でも、もう、確かさにしがみつくためじゃない。だまされそうな、誰かの隣に、いるために。
種をまき終えて、一行は、また、リュウに乗りこんだ。
行く先に、何が待っているのか、分からなかった。世界が、これから良くなるのかも、分からなかった。……でも、もう、真尋は、こわくなかった。
迷うこと。確かでないこと。……それは、もう、恐れることではなかった。確かじゃなくても、信じて、育てていけばいい。……それが、この答えのない世界を生きる、たった一つの道なのだから。
リュウが、走りだす。その行く手の、遠い空に、ほんの少しだけ、雲の切れ間から、光が差していた。
一行の旅は、ここで、終わる。
けれど、彼らがまいた種は、この壊れた世界のどこかで。……静かに、芽吹こうとしていた。




