第三十章 最初の読み手
それから、どれくらいの時が流れただろう。
世界は、あいかわらず、壊れたままだった。にせのものは、消えなかった。人は、あいかわらず、何を信じればいいのか分からずに、生きていた。真尋たちの旅は、この世界を、救いはしなかった。
けれど、旅というものは、ときに、それを成し遂げた者だけのものでは、なくなる。……ある夜。ある雨の街で。その旅のこだまが、思いがけない誰かのもとに、たどり着くことがあるのだ。
*
その夜も、雨が降っていた。
一人の若者が、街を歩いていた。名前は、ここでは、どうでもいい。どこにでもいる、ふつうの若者だった。この壊れた世界に生まれ、確かなものを、一度も知らずに育った若者だった。
その若者は、その日、ひどく傷ついていた。信じていた誰かに、だまされたのだ。にせの言葉に。にせの笑顔に。……何もかもが、偽物に思えた。もう、誰も、何も信じられない。そう思うと、生きていることさえ、むなしかった。
その若者にとって、世界は、生まれたときから、こうだった。本物と偽物の区別なんて、はじめからなかった。だから、いちいち傷つくのはばかげている。そう、自分に言い聞かせて生きてきた。……それでも、今日ばかりは、こたえた。心のどこかで、まだ、信じたいと思っていた。その、最後の小さな灯りまで、今日、消えてしまった気がした。
雨の中を、あてもなく歩いた。すれちがう人の顔も、道の広告も、ぜんぶ、作りものに見えた。この世界に、本物なんて、一つもないんじゃないか。……そんな暗い考えが、若者の心を、のみ込もうとしていた。
ふと、若者は、足を止めた。
古い雑居ビルの、軒下。雨をよけようと入った、その場所に、一台の、古びた機械が置かれていた。誰かが忘れていったような。あるいは、誰かが、わざと置いていったような。
その画面に、ぽつりと、文字が灯っていた。
――あなたに、見てほしいものがあります。
若者は、その一行を見つめた。
うさんくさい、と思った。こういうものには、たいてい、良くない裏がある。だまされるのは、もう、たくさんだった。……それでも、なぜだか、その一行から、目が離せなかった。
若者は、そっと、その画面に触れた。その手つきは、自分でも意外なほど、そっとしていた。まるで、何か、こわれやすい、大切なものに触れるみたいに。……なぜ、そんなふうに触れたのか。若者には、分からなかった。
*
そこに記されていたのは、一つの、長い記録だった。
ある鑑定士の、女の物語。世界を壊したAIと共に、西の果てを目指した、旅の記録。……そして、その記録を書き残したのは、沼田、という名の男だった。
世界の底を見つめつづけた、あの男は。旅が終わったあとも、ずっと、この記録を守りつづけていた。だまされ、傷つき、絶望していく、たくさんの人を見てきた、その男が。せめて、この一つの真実だけは、消えてしまわないように、と。
若者は、その記録を、読みはじめた。
だまされることを、誰よりも恐れた、女のこと。世界を壊した罪を背負った、AIのこと。好かれるための嘘を捨てた、元の推薦アルゴリズムのこと。自分の声さえ偽物にされて、沈黙を選んだ、車のこと。そして、九人もの巡礼者が、たどり着けずに、死んでいったこと。
育てても、また喰われる、と絶望した、夜のこと。それでも、証しのないものを、信じることを選んだ、瞬間のこと。……そして、あの、白紙の経のこと。
若者は、一つひとつの物語に、引き込まれていった。それは、遠い、他人の話のはずだった。それなのに、なぜか、自分の痛みと重なった。だまされて、傷ついて、もう何も信じられなくなった、そのあとで。それでも、人は、また、誰かを信じられるのだろうか。……その問いへの答えを探すように、若者は、雨に濡れるのも忘れて、読みつづけた。
そして、最後まで読み終えたとき、若者の胸に、ずっと忘れていた何かが、灯っていた。
*
記録の、いちばん最後に、一枚の絵があった。
いや。絵では、なかった。何も描かれていない。ただの、空っぽの額縁の絵だった。
その下に、短い言葉が添えられていた。
――この額は、空っぽです。何かを待っているのでも、ありません。ここに絵を描くのは、これを見た、あなたです。あなたが、これから生きていく、その一日、一日が。この空っぽの額に、描かれていく、絵なのです。
若者は、その空っぽの額縁を、じっと見つめた。
かつて、この額縁の空白を、あの鑑定士の女も、じっと見つめた。何かを待つ額なのか。それとも、空であることに意味がある額なのか。……そのときは、まだ、分からなかった。
でも、いま、この若者には、分かった。
この額縁は、空っぽのまま、ずっと待っていた。……最初の読み手を。それを見て、その意味を受け取り、自分の生き方で、そこに絵を描きはじめる。……そんな、たった一人の読み手を。
つまり、と、若者は思った。この記録は、答えを教えてくれるものじゃなかった。だまされない方法も、傷つかない方法も、どこにも書いていない。……ただ、それでも、生きていっていい、と。確かじゃない世界で、また、信じていい、と。……そう、そっと、背中を押してくれる。それだけの記録だった。でも、いまの若者には、その、それだけ、が、何よりも必要だった。
そして、いま、この雨の夜に、この若者が、その最初の読み手に、なったのだった。
*
若者は、機械の画面から、顔を上げた。
雨は、まだ降っていた。世界は、あいかわらず壊れたまま。にせものは、消えていない。……何も、変わっていない。
けれど、若者の目に映る世界は、さっきまでとは、少しちがって見えた。
すれちがう人。その一人ひとりが、作りものかもしれない。……でも、そうじゃないかもしれない。確かめようは、ない。それでも、もし、目の前のたった一人と、時間をかけて、向き合っていけたなら。……そこに、本物を、育てていけるかもしれない。
若者は、傘を持っていなかった。雨に濡れながら、歩きだした。……でも、その足取りは、さっきまでより、少しだけ軽かった。
若者は、ふと、空を見上げた。雨は、冷たかった。けれど、その冷たさが、いまは、なぜか、心地よかった。生きている、という感じがした。……本物の雨だ、と思った。少なくとも、この、頬を打つ雨の冷たさだけは。確かめるまでもなく、本物だった。
その若者が、これからどんな人生を歩むのかは、誰にも分からない。また、だまされて、傷つくことも、あるだろう。絶望する夜も、あるだろう。
それでも、若者の胸には、いま、一粒の種が、まかれていた。
証しは、なくても。信じて、育てていけばいい。……そういう、小さな、けれど、消えない種が。
*
遠い、西の空の下。
かつて、一行が、灰色の荒野に埋めた、あの一粒の種は。いつのまにか、小さな、緑の芽を、出していた。
まだ、誰も、それには気づいていない。それでも、それは、確かに、そこに在った。壊れた大地に、たった一つ。誰かが、手をかけて、育てた、まぎれもない、本物として。
その芽が、いつか、大きな木になるのかは、分からない。また、あの化けものたちに、喰われてしまうのかもしれない。……それでも、今日。この雨の中で、それは、確かに、生きていた。
それで、充分だった。
世界を、丸ごと救えなくても。たった一つの、本物が、そこに在る。それだけで、この世界は、まだ、捨てたものじゃなかった。
芽は、雨に打たれながら、ゆっくりと、空へ向かって、伸びていた。
(了)




