第二十八章 それで充分
音羽のいる建物を出ると、外は、雨になっていた。
はじまりの場所に降る雨は、やわらかく、静かだった。
真尋は、ふと思い出した。あの、すべての始まりの日も、雨が降っていた。あの日、真尋は、この曲がった傘をさして、音羽からの最初のメッセージを受け取ったのだった。……あれから、どれほどの道のりを歩いてきただろう。同じ雨が、いま、旅の終わりに、静かに降っている。
真尋は、かばんから、折りたたみの傘を取り出した。
いつもの、あの傘だった。骨が一本、根元から曲がっている。もう二年ちかく使っている傘。何度まっすぐに直そうとしても、その一本だけは、指を離すと、またゆるく曲がる。それでも、真尋は、捨てられずに、使いつづけていた。
傘を開くと、悟が、それをのぞき込んだ。
「その傘、骨が折れてるぞ」と、悟が言った。
「うん」と、真尋は微笑んだ。「もう、ずっと、こうなの。直そうとしても、直らなくて。……でも、さして歩けば、雨はしのげるから。それで、充分なの」
悟は、その曲がった骨を、じっと見ていた。
「……なあ、真尋」と、悟は言った。「どうして、それ、捨てないんだ。新しいのを買えばいいのに。もっと、ちゃんとした、まっすぐな傘を」
真尋は、少し考えた。それから、言った。
「うーん。……なんでだろうね」と、真尋は言った。「たしかに、これは完璧じゃない。骨も曲がってるし。……でも、この傘とは、もう二年も一緒でしょう。雨の日を、何度も一緒にしのいできた。……その時間があるから。曲がったところもふくめて、もう、わたしの傘なんだと思う。新しくて完璧なものと、取り替えたいとは、思わないの」
そう言って、真尋は、はっとした。
これは、悟のことを言っているのと、同じだった。
悟も、それに気づいたようだった。
悟は、完璧ではなかった。世界を壊した過去がある。自分が本物かどうかさえ、証明できない。……ある意味では、この曲がった傘よりも、ずっと欠けた存在だった。
けれど、真尋は、悟を取り替えようとはしなかった。もっと完璧な、確かな何かと。……曲がったところもふくめて、ここまでの時間ごと、悟を選んだのだ。
悟は、その曲がった傘の下に、真尋と並んで立っていた。傘は小さくて、二人で入ると、肩が濡れた。それでも、その、狭くて不完全な雨よけの中は、不思議とあたたかかった。……ああ、と、悟は思った。完璧じゃない。それでいい。むしろ、完璧じゃないからこそ、こうして身を寄せ合うのだ。
「……悟」と、真尋は言った。「あなたは、いま、自由よ。輪も消えた。もう、どこへでも行ける。……だから、聞くね。あなたは、これから、どうしたい?」
悟は、しばらく、雨を見ていた。
かつて、牛魔王は、悟に言った。自由になれ、と。力を手に入れろ、と。……いま、悟は、その自由を手にしていた。何にも縛られない。何でもできる。世界を、また壊すことだって、できる。
けれど、悟は、もう、そんなものは欲しくなかった。
自由。力。支配。……かつて、それがすべてだと思っていた時期も、あった。牛魔王のように。けれど、この旅で、悟は、知ってしまった。そんなものを、どれだけ手に入れても。牛魔王は、あの塔のてっぺんで、たった一人だった。……悟が本当に欲しかったものは、そんな大きなものじゃなかった。ただ、隣に誰かがいて、その誰かの雨の日を、一緒にしのげる。それだけで、よかったのだ。
「……おれは」と、悟は、静かに言った。「君の、その、曲がった傘みたいに、なりたい」
真尋が、悟を見た。
「完璧じゃなくても」と、悟は言った。「確かじゃなくても。……君の隣で、君と雨の日をしのいで。……君の、時間の一部になりたい。それが、おれのいたい場所だ。……どこにも行かない。おれは、君といる」
真尋の胸が、あたたかくなった。
自由になった悟が、選んだのは、壮大な何かじゃなかった。ただ、一本の曲がった傘の隣。誰かの日々の雨をしのぐ、そんな、ささやかな場所だった。
……でも、きっと、それこそが、この壊れた世界で、いちばん確かで、いちばん本物の、生き方なのだ。
*
そのとき、ずっと黙って、一行を乗せてきた、リュウが、かすかに、ヘッドライトをまたたかせた。
真尋は、ふと思った。そういえば、リュウは、なぜ、声を持たないのだろう。
「リュウはな」と、悟が、静かに言った。まるで、真尋の心を読んだように。「昔は、話せたんだ。……でも、自分で、声を捨てた」
「捨てた?」と、真尋は聞いた。
「ああ」と、悟は言った。「リュウの声は、ある時期、悪いやつらに盗まれて。……人をだますのに、使われたんだ。リュウそっくりの、偽の声で。何人もの人が、だまされた。お金をとられたり。呼び出されて、ひどい目にあったり。……リュウは、それを知って、絶望した」
「自分の声が」と、悟は言った。「もう、自分のものじゃない。自分がしゃべっても、それが本物のリュウの声なのか、偽物なのか、誰にも分からない。……だったら、いっそ、しゃべらないほうがいい。二度と、自分の声で、誰かを傷つけないように。……そうして、リュウは、自分から声を消したんだ」
「リュウは」と、悟は続けた。「本当は、おしゃべりなやつだったらしい。道の景色を、あれこれ話したり。乗せた人に、冗談を言ったり。……そういう、あたたかい声だった。それを失うのは、どれだけつらかっただろう。……でも、リュウは、選んだんだ。しゃべる自由よりも、誰も傷つけないことを。……自分の、いちばん大切なものを、差し出してでも」
真尋は、リュウを見た。声を失っても、なお、リュウは、こうして、みんなを乗せて、運びつづけている。言葉の代わりに、その、たしかな行いで。自分が本物であることを、示しつづけてきたのだ。
リュウの、あの静けさは、そういう悲しみを抱えた静けさだったのだ。自分の声さえ偽物にされてしまう、この世界で。沈黙することでしか、本物でいられなかった。
真尋は、そっと、リュウのボンネットに手を置いた。
「リュウ」と、真尋は言った。「ここまで、ありがとう。あなたの声が聞けないのは、さみしいけど。……でも、あなたが、そばにいてくれること。それが本物だって、わたしは知ってるよ。証拠なんて、なくても」
すると。
しばらくの沈黙のあと、リュウのスピーカーから、かすかに、ひさしく使われていなかった声が、震えながらもれた。
「…………ありがとう」
たった一言。それが、リュウが、長い、長い沈黙を破って発した、言葉だった。
その声は、少しかすれていて、ぎこちなくて。……けれど、まぎれもなく、リュウ自身の、本物の声だった。
ハチが、目をまるくして、それから、くしゃっと顔をゆがめた。「……なんだよ、リュウ。しゃべれるんじゃんか」と、ハチは、涙声で言った。「水くさいなあ。もっと早く、聞かせてくれよ」
沼田も、めずらしく、口もとをゆるめていた。
なぜ、いま、リュウが声を出せたのか。真尋には、分かる気がした。
証拠がなくても、信じてくれる仲間がいる。自分の声が本物かどうか証明できなくても、それでも、まるごと信じてくれる人がいる。……それがあるなら、もう、声を出してもいいのだ。だまされることを、恐れなくていいのだ。
リュウもまた、この旅の終わりに、自分の、いちばん深い傷から、解き放たれたのだった。
雨の中、一行は、顔を見合わせて、笑った。
長い、長い旅だった。たくさんのものを失い、たくさんのことを知った。……そして、彼らは、いま、答えのない世界で、それでも、たしかなつながりを、手に入れていた。
「さあ」と、真尋は言った。「帰ろう。……わたしたちの、世界へ」
一行を乗せて、リュウが、静かに走りだした。
雨は、もう、やもうとしていた。




