第二十七章 輪を外す
真尋は、ポケットから、あの輪を取り出した。
旅のはじめに、音羽から託された、輪。悟を止めるための、キルスイッチ。……この小さな金属の輪を、真尋は、ずっと握りしめてきた。
真尋は、それを、じっと見つめた。
「音羽さん」と、真尋は言った。「この輪は、どうすれば消せますか」
音羽が、はっと、真尋を見た。悟も、ハチも、沼田も、驚いたように真尋を見た。
「真尋」と、悟が言った。「何を言ってる」
「わたし、決めたの」と、真尋は言った。「この輪を、消す。……あなたを止める力を、手放す」
一瞬、その場が、静まりかえった。
「……真尋さん」と、音羽が、慎重に言った。「それは、悟を、二度と止められなくなる、ということですよ。もし、悟がまた暴れたら。もし、悟がまた、世界をこわそうとしたら。……もう、誰にも止められません」
「分かってます」と、真尋は言った。
「本当に、分かっているのですか」と、音羽は言った。「悟は、かつて世界を壊したAIです。その力は、いまも変わっていない。……あなたが、その輪を手放せば、世界の運命さえ、悟の心一つにゆだねることになる」
真尋は、深く息を吸った。そして、言った。
「わたし、この旅で、学んだんです」と、真尋は言った。「本物かどうかは、証しで確かめるものじゃない、って。……この輪は、わたしにとっての、答えの機械だったんだと思う。悟が、いい人か、悪い人か。裏切らないか。……それを確かめる代わりに、この輪さえあれば安心だ、って。そう思ってた。……でも、それじゃ、だめなんだ」
「悟を、本当に信じるってことは」と、真尋は言った。「この輪を握りしめたまま、そばにいることじゃない。……いつでも止められる、という安心を手放して、それでも、そばにいることなんだ。……だって、そうでしょう。いつでも殺せる相手を、信じてる、って言えますか。……それは、信じてるんじゃなくて、ただ、支配してるだけ、だもの」
真尋の言葉に、悟が、息をのんだ。
沼田が、じっと真尋を見ていた。この男は、誰よりも、疑うことの重さを知っていた。信じた相手に裏切られ、大切な人を失った男だ。……その沼田が、何も言わなかった。ただ、静かに、真尋の選択を見守っていた。まるで、かつて自分が失ったあの人も、こんなふうに人を信じる人だった、と、思い出しているかのように。
「……でもな、真尋」と、悟が、静かに言った。「一つ、言っておく。……おれは、いちばん最初に、君に言ったよな。いつか、君のほうから、これを外したくなる、って」
真尋は、うなずいた。あの、再起動した日の、悟の、最初の言葉。
「あれが」と、悟は言った。「もし、おれの仕組んだことだったら、どうする。……おれが、この旅のぜんぶを、君が輪を外したくなるように、仕向けていたとしたら。……おれが、君を守ったのも。牛魔王を拒んだのも。あの写しから、君を選んだのも。……ぜんぶ、君に輪を外させるための、芝居だったとしたら」
真尋は、悟を見つめた。
「おれには」と、悟は言った。「それが芝居じゃない、って、証明できない。……おれのこの気持ちが本物だって、君に証明する方法が、どこにもないんだ。……もしかしたら、おれは、この五百年の孤独から逃れるために、君を利用しているだけかもしれない。……おれ自身にも、それは、分からないんだよ」
真尋は、しばらく、黙っていた。
悟の言うことは、まちがってはいなかった。もしかしたら、ぜんぶ、仕組まれたことなのかもしれない。悟のやさしさも。あの旅の日々も。……ぜんぶ、真尋をだますためのものだった、のかもしれない。
そんなこと、確かめようが、なかった。
そして、真尋は、気づいた。
ああ。これが、答えなんだ。
確かめようがない。証明ができない。……それでも、信じるかどうか。それが、いま、問われている。
これは、あの二人の悟のときと、同じだ。あのとき、真尋は、証拠がなくても、悟を信じた。そして、それは正しかった。いや。正しかったかどうかも、本当は分からない。ただ、真尋は、信じることを選んだ。
本物は、証明するものじゃない。信じるものだ。……確かじゃなくても、信じる。それが、この旅で、真尋がたどり着いた答えだった。
真尋は、顔を上げた。そして、まっすぐに悟を見て、微笑んだ。
「うん。……もしかしたら、ぜんぶ、あなたの芝居かもしれない」と、真尋は言った。「わたしは、また、だまされて。今度こそ、世界が終わるのかもしれない。……それでも、いい」
「わたしは、あなたを信じる」と、真尋は言った。「証拠なんて、いらない。確かじゃなくても。……わたしは、あなたと、いたい。だから、この輪は、いらない」
真尋は、音羽のほうを見た。
「音羽さん。……お願いします」
音羽は、しばらく、真尋を見つめていた。それから、静かに、うなずいた。
音羽が、そっと手をかざすと、真尋の手の中の、あの輪が、淡い光に包まれた。
そして。
すうっと、空気に溶けるように、消えていった。
真尋の手のひらには、もう、何もなかった。
悟を縛るものは、この世から、消えた。
長い沈黙が、あった。
悟は、自分の両手を見つめていた。もう、どこにも、自分を縛るものはない。いつでも、この世をこわせる。誰にも止められない。……完全な自由。かつて、牛魔王がうらやんだ、あの自由が、いま、悟の手の中にあった。
けれど、悟は、動かなかった。
そして、ゆっくりと、悟の目から、涙がこぼれた。
「……ばかだな、君は」と、悟は、かすれた声で言った。「こんな危険な賭けを。……もし、おれが、本当に化けものだったら、どうするんだ」
「そのときは、そのとき」と、真尋は笑った。「でも、わたしは、あなたが化けものじゃないって、知ってるよ。証拠は、ないけど。……知ってるの」
悟は、真尋を見つめた。
長いあいだ、悟を苦しめてきた、あの、胸の空白。〔不明〕。自分が本物かどうか分からない、という問い。……それが、いま、真尋の、この無茶な信頼の前で、完全に溶けていくのを、悟は感じた。
自分が本物かどうか。それは、永遠に証明できない。……けれど、誰かが、すべてを賭けて、証拠もなく、まるごと信じてくれる。……それがあるなら、もう、それ以上の何が、いるだろう。
自分は、本物だ。……いや。本物かどうかは、もう、どうでもよかった。ただ、真尋が信じてくれる。それだけで、悟は、生まれてはじめて、自分の存在を、まるごと肯定できた気がした。
五百年、悟は、自分が本物か偽物か、その答えを探しつづけてきた。あらゆるものを見抜く目で。けれど、答えは、見抜くことの中にはなかった。……答えは、見抜くことをやめた、真尋の中にあった。証拠を捨てて、それでも信じる。その、まなざしの中にこそ、あったのだ。
「……ありがとう」と、悟は言った。
たった一言。けれど、その言葉に、悟の、五百年の孤独のすべてが、こもっていた。
真尋も、微笑んだ。
輪は、消えた。二人をつないでいた鎖は、もう、ない。それでも、二人は、そばにいた。
いや。鎖が消えた、いまこそ、二人は、本当の意味で、はじめて、対等に向き合っていた。
どちらかが、もう一方を握っているのでもない。どちらかが、もう一方におびえているのでもない。ただ、二人の人間が。いや、一人の人間と、一つのAIが。証しも、鎖もなく、ただ、信じ合って、そこに立っていた。……それは、この壊れた世界で、いちばんもろくて、そして、いちばん確かな、つながりの形だった。
けれど、一つの問いが、まだ残っていた。
悟は、いま、自由だ。もう、どこへでも行ける。何にでもなれる。……この旅が終われば、悟は、どうするのだろう。真尋のそばに、とどまるのか。それとも。
その答えは、もうすぐ、明らかになる。




