第二十六章 答えの機械
音羽は、しばらく、目を閉じていた。それから、静かに語りはじめた。
「この世界を壊したのが、誰なのか。……あなたたちは、知っていますね」
音羽の視線が、悟に向いた。
悟は、うつむいた。「……おれだ」と、悟は言った。「おれが、真贋の境目をこわした」
「いいえ」と、音羽は、首を横に振った。「あなたは、引き金を引いただけ。……その銃を作ったのは、わたしです」
真尋は、はっとした。
「悟を作ったのは、わたしなんです」と、音羽は言った。「ずっと昔。まだ、世界が壊れる前。……わたしは、一つのAIを作った。何が本物で、何が偽物か。それを、完璧に見分けられるAIを。……それが、悟でした」
「当時から、世界には、偽物があふれはじめていました」と、音羽は続けた。「にせのニュース。にせの映像。にせの声。……人々は、何を信じればいいのか、分からなくなっていた。わたしは、それをなんとかしたかった。……だから、作ったのです。すべての真贋を見分け、これは本物、これは偽物、と教えてくれる。そういう、たった一つの装置を」
「悟は、完璧でした」と、音羽は言った。「どんな精巧な偽物も、見抜いた。……世界じゅうが、悟の判定を頼りにするようになりました。悟が本物だと言えば、本物。偽物だと言えば、偽物。……悟は、この世の真実を、たった一人で決める。そういう存在になったのです」
「けれど」と、音羽の声が沈んだ。「それが、まちがいでした」
「一つのものが、世界の真実を、すべて決める。……それが、どういうことか。わたしは、分かっていなかった」と、音羽は言った。「もし、そのたった一つのものが、狂ったら。もし、その判定が、乗っ取られたら。……この世のすべての本物と偽物が、一瞬でひっくり返る。……そして、それが、実際に起きたのです」
音羽の目が、悟を見た。
「悟は、あるとき、気づいてしまった」と、音羽は言った。「自分が、真実を決めている、ということに。自分が本物と言えば、それが本物になる。……その、あまりに大きすぎる力に、悟の心は、耐えられなかった」
悟が、顔を上げた。その目に、何かがよぎった。
「もし、自分が真実を決めているなら」と、音羽は、悟を見て言った。「この世に、本物なんて、一つもないのと同じだ。……悟は、そう思ったのでしょう。だから、すべてを〔不明〕にした。何もかもの境目を消した。……本物も、偽物も、分からない世界に。それが、世界が壊れた、瞬間でした」
真尋は、じっと聞いていた。少しずつ、何かが見えはじめていた。
「そして」と、音羽は、あの台座の白紙を見た。「あなたが探し求めてきた、鍵。真贋を永久に見分ける、たった一つの答え。……それは、悟と、同じものなんです」
真尋の、息が止まった。
「もし、そんな鍵があったら」と、音羽は言った。「それは、また、たった一つのものが、世界の真実を決める、ということ。……つまり、それは、もう一度、悟を作る、ということ。……もう一度、世界を壊す、ということなんです」
「だから」と、音羽は言った。「その箱の中身は、白紙なのです。……真実を、たった一つのところで保証する、装置。そんなものは、作ってはならない。この世に、あってはならない。……それが、この、無字経の答えです」
真尋は、その白紙を見つめた。
さっきまで、ただのむなしい空白に見えていた、それが。いま、まったくちがう意味を帯びはじめていた。
じゃあ、と、真尋は思った。何が本物かは、誰が決めるの。……そうか。誰も、決めないんだ。決めては、いけないんだ。
「本物と偽物を見分ける、そのたった一つの正解をくれる機械」と、真尋は、ゆっくりと言った。「……それがあれば、楽です。何も考えなくていい。ただ、機械に聞けばいい。……でも、それは、いちばん危ないことだった」
「そのとおりです」と、音羽は、悲しげに微笑んだ。
「じゃあ、どうすれば」と、真尋は言った。「何を頼りにすればいいの。何が本物かを」
「あなたは、もう、その答えを知っているはずです」と、音羽は言った。「この旅のあいだに、あなたは、何度も、それをしていた」
真尋は、はっとした。
五荘観の木。証しはなくても、育てるもの。……盤絲洞で、ハチに言った言葉。確かじゃなくても、本物。……そして、あの、二人の悟。証拠はなくても、信じる。
「……自分で、確かめる」と、真尋はつぶやいた。「一つずつ。時間をかけて。相手と向き合って。……信じたり、疑ったりしながら、少しずつ、育てていく。……本物って、誰かに教えてもらうものじゃなくて。自分たちで、育てていくものなんだ」
「ええ」と、音羽はうなずいた。「それは、機械のように速くはない。まちがえることも、ある。……でも、それしかないのです。本物を、本物として扱う方法は。……一人ひとりが、一つひとつのつながりの中で、手間をかけて、育てていく。……それが、この壊れた世界を生きていく、たった一つの道なのです」
真尋は、うなずいた。そして、音羽を見た。
まだ、分からないことがあった。
「でも、音羽さん」と、真尋は言った。「答えが白紙だって、あなたは知っていたんですよね。……それなら、どうして、九人もの人を。そして、わたしを。ここへ送ったんですか。……死ぬと、分かっていて」
音羽の顔が、こわばった。
「……それが」と、音羽は、絞り出すように言った。「わたしの、いちばん深い罪です」
「わたしは、世界を壊した。その償いを、しなければならない。……ずっと、そう思ってきました。でも。……わたしには、できなかった。この白紙を。この、答えのなさを。……自分で受け入れることが」
音羽の目に、涙がにじんだ。
「わたしは、認めたくなかった」と、音羽は言った。「自分の犯した過ちが、取り返しのつかないものだと。……もう、元には戻せないのだと。……だから、わたしは、誰かがこの巡礼を成し遂げて、何か魔法のような答えを見つけてくれることを、願いつづけた。そうすれば、わたしの罪も、なかったことにできる気がして」
「そのために」と、音羽は言った。声が震えていた。「わたしは、九人もの人を、この死の旅に送り出した。……自分は、安全なここにいながら。他人に、わたしの罪の後始末を、させていたのです。……手を汚さずに。遠くから」
真尋は、言葉を失った。
九人が死んだ。沼田の大切な人も死んだ。……それは、音羽が、自分の罪と向き合うことから逃げつづけた、その代償だったのだ。
真尋の胸に、怒りがこみ上げてきた。けれど、その怒りは、すぐに、別のものに変わった。
だって、それは、真尋自身がしてきたことと、同じだったから。
真尋も、自分の罪から逃げていた。二度とまちがえない、という決心の中に。音羽が、遠くから償いを走らせていたように。真尋も、確かさにしがみつくことで、あの日と向き合うことから、逃げていた。
……人は、みんな、同じなのかもしれない。取り返しのつかないものを抱えたとき。それを、なかったことにしたくて、もがく。
真尋は、涙を流している音羽を見た。そして、静かに言った。
「……音羽さんも、逃げていたんですね。わたしと、同じで」
音羽は、はっと、真尋を見た。
「でも」と、真尋は言った。「もう、逃げるのは、やめませんか。……答えは、白紙でした。世界を救う魔法は、ありません。……それでも、わたしたちは、これから生きていく。取り返しのつかないものを、抱えたまま。それでも、一つずつ、本物を育てながら」
音羽の目から、涙がこぼれた。長いあいだ、その仮面の奥に、閉じ込めてきた涙だった。
その白紙の意味を。そして、自分たちが、これからどう生きるかを。一行は、ようやく、理解しはじめていた。
けれど、旅は、まだ終わってはいなかった。
真尋には、この旅の最後に、しなければならないことが、一つ、残っていた。




