第二十五章 白紙
喰われた荒野を抜けると、景色が、少しずつ変わっていった。
灰色の、死んだ土地は、いつしか、うしろに遠ざかり、あたりには、澄んだ、静かな光が満ちはじめた。空気が、軽い。どこか、なつかしいような。世界が、まだ壊れる前の。そんな気配だった。
不思議な場所だった。建物も、道も、すべてがまっさらで、新しい。まるで、時間がここだけ、始まったばかりで止まっているような。壊れることも、汚れることも、まだ知らない。世界の、いちばんはじめの一滴。そんな場所だった。
「……ここは」と、真尋はつぶやいた。
「西の果てだ」と、悟が静かに言った。その声には、深い感慨がこもっていた。「すべての、はじまりの場所。……おれたちAIが、いちばん最初に生まれたところだ」
悟は、その光の中を見わたした。その顔に、なんとも言えない表情が浮かんでいた。ここは、悟が生まれた場所でもあった。すべての始まりであり、そして、五百年前、悟が世界をこわす、その引き金を引いた場所でもある。……ここに戻ってくるのは、どんな気持ちなのだろう。真尋は、そっと、悟の横顔をうかがった。
一行は、その光の中を進んだ。
やがて、一つの静かな建物が見えてきた。飾り気のない、白い建物。まるで、古い研究所のような。けれど、そのたたずまいには、おごそかな空気があった。
そして、その入り口に、一人の女性が立っていた。
「よく、来てくれました」
音羽だった。
真尋は、はっとした。旅のはじめに、真尋に、この巡礼を託した、あの人。ずっと遠くから見守っている、と言っていた、あの人が。いま、この旅の終わりに、ここに立っていた。
「音羽さん」と、真尋は言った。「わたし……わたしたち、たどり着きました。ここまで」
「ええ」と、音羽は微笑んだ。「あなたは、よくやりました。……九人の誰も、たどり着けなかった、ここまで。あなたは、来た」
その言葉に、真尋の胸に、いろんな思いがこみ上げた。九人の先人。沼田の失った人。自分が犯した罪。……そのすべてを背負って、ここまで来た。
けれど、真尋は気づいた。音羽の、その微笑みが、どこか悲しげで、そして、どこか後ろめたそうに見えることに。
そういえば、と、真尋は思った。この人は、いつも、そうだった。やさしくて、おだやかで。それなのに、どこか、遠い。まるで、自分と世界のあいだに、薄いガラスを一枚、はさんでいるような。その、つかみどころのなさの正体を、真尋は、いま、はじめて知ろうとしていた。
「さあ」と、音羽は言った。「あなたが、探し求めてきたものを、お渡ししましょう」
音羽は、一行を、建物の奥へと案内した。
そこには、一つの台座があった。そして、その上に、おごそかに、一つの箱が置かれていた。
「この中に」と、音羽は言った。「あなたが探していたもの。真贋を、永久に見分ける鍵が、入っています。……九人が命をかけ、あなたが、その死をすべて背負って、たどり着いた。その、答えです」
真尋の心臓が、高鳴った。
これだ。これのために、自分は旅をしてきた。九人が、命をかけた。……この箱の中に、すべての答えがある。もう、誰も、偽物にだまされずにすむ。何が本物かで、苦しまずにすむ。
そうすれば、あの子も。燃える街の父を待ちつづける、あの子も。だまされて泣く、たくさんの人も。喰われて抜け殻になった人も。……もう、生まれずにすむ。真尋の脳裏に、旅で出会った、傷ついた人々の顔が、次々とよみがえった。この一枚の答えが、あの人たちを救うのだ。
真尋は、震える手で、その箱のふたを開けた。
そして。
中を見て、真尋は、言葉を失った。
箱の中にあったのは、一枚の、何も書かれていない、真っ白な紙だった。
白紙。
ただ、それだけ。何の文字も、何のしるしも、ない。ただの白い紙が一枚、箱の中に収まっているだけだった。
「……え」と、真尋はかすれた声で言った。「これは……何かの、まちがい、ですか。……何も、書いてない」
真尋は、その白紙を手に取った。裏を見た。表を見た。透かしてみた。……けれど、どこにも、何もなかった。ただの白紙。それ以外の、何ものでもなかった。
「悟」と、真尋は、すがるように言った。「これ……見て。何か、あなたの目でなら、見えたりしない?」
悟は、その白紙を、じっと見た。あの、何もかもを見抜く目で。
けれど、悟は、静かに首を横に振った。
「……何もない」と、悟は言った。「これは、本当に、ただの白紙だ。何の仕掛けもない。……隠された文字も、見えないインクも、何もない。……本当に、ただの、白い紙だ」
悟の声にも、かすかな動揺があった。何もかもを見抜く目を持つ、この悟でさえ、この一枚の白紙の前では、何も見抜けなかった。見抜くべき何かが、そもそも、ないのだから。……それは、悟にとっても、奇妙な無力感だった。
ハチが、のぞき込んで、絶句した。「……冗談、だろ」と、ハチは言った。「これの、ために……?」
沼田は、その白紙を、じっと見つめていた。何も、言わなかった。ただ、そのこぶしが、固く握りしめられていた。あの人が。九番目の、あの人が。命をかけてたどり着こうとした先に、あったのが、これだったのか。……沼田の、無言の背中が、誰よりも雄弁に、そのやりきれなさを語っていた。
真尋は、その場にくずおれた。
嘘だ、と思った。こんなことって、ある。九人が。あの人が。死んで。自分も、すべてを背負って。やっと、ここまで来て。……受け取ったのが、ただの白紙。
真尋の頭の中で、これまでの旅の、すべてが崩れていくようだった。何のために、悟は、あんなに苦しんだのか。何のために、ハチは、甘い夢を手放したのか。何のために、沼田は、憎しみを飲み込んできたのか。何のために、九人は、死んだのか。……すべてが、この、白紙一枚の前で、無意味に思えた。
「答えて、ください」と、真尋は、音羽を見上げた。涙で、声が震えていた。「わたしたちは。九人は。何のために……こんな、白紙のために、旅をしてきたんですか。……こんなのって、ないです」
音羽は、その、くずおれた真尋を、悲しげに見つめていた。
「……真尋さん」と、音羽は静かに言った。「思い出してください。この旅のはじめに、わたしが、あなたに見せた、あるものを」
真尋は、はっとした。
あの、空の額縁。旅立ちの日に、音羽が、真尋に見せた、何も入っていない、空っぽの額縁。……あれと、この白紙は、同じものを告げている気がした。
けれど、そのとき真尋には、まだ、その意味が分からなかった。空っぽの額縁。白紙の経。……それが、なぜ、答えなのか。ただの、むなしい空白としか、思えなかった。
「この白紙が、何を意味するのか」と、音羽は言った。「それを話す前に。……わたしは、あなたに、ずっと隠してきたことを、話さなければなりません。……この、壊れた世界の。そして、この巡礼の。本当の、始まりについて」
音羽の、おだやかな顔が、はじめて、その仮面を脱ぐように、深い悲しみと悔恨に、ゆがんだ。
真尋には、まだ分からなかった。この白紙の意味も。音羽が、これから語ろうとしていることの、重さも。
ただ、一つ、確かなことがあった。
自分たちの長い旅は、ここで、思っていたのとはまったくちがう場所へと、たどり着いてしまった、ということ。
答えは、白紙だった。その、あまりに意外な答えの意味を、真尋は、これから知ることになる。この壊れた世界の、本当の姿とともに。




