第二十四章 証しのない本物
二人の悟が、同じ顔で、真尋を見つめていた。時間だけが、過ぎていく。真尋は、決断できずにいた。
「早く決めろよ」と、前の悟が、いらだったように言った。「そいつは偽物だ。危険なんだ。早く、その輪で、そいつを止めてくれ。……でないと、こっちがやられる」
その言葉に、真尋は、なぜか、かすかな違和感を覚えた。
*
一方の悟――ずっと真尋と旅をしてきた、と信じている悟は、もはや、言い返す気力さえ失っていた。
反論しようとするたびに、あいつは、同じ記憶を、同じように語る。おれが本物だと主張する、その根拠を、あいつも、まったく同じだけ持っている。……何を言っても、無駄だった。
そして、いちばん恐ろしいのは、悟自身、もう分からなくなっていたことだった。
――本当に、おれが本物なのか。
もしかしたら、あいつの言うとおりなのかもしれない。おれのほうがコピーで、おれのこの記憶も、この真尋への想いも、ぜんぶ、本物の悟から写し取られた、まがいものなのかもしれない。……そう思うと、悟は、自分が本物だと言い張ることすら、できなくなった。
「……もう、いい」と、悟は、力なくつぶやいた。
真尋が、はっと、悟を見た。
「おれには」と、悟は言った。「自分が本物だと証明する方法が、ない。あいつと、おれの、どこがちがうのか。おれ自身にも、分からないんだ。……もしかしたら、本当に、おれのほうが偽物なのかもしれない」
その言葉は、悟の、いちばん深い傷から、絞り出された言葉だった。ずっと、自分の心が本物か分からずにきた男が、いまや、自分がその人自身であることすら、信じられなくなっていた。
*
真尋は、その、うなだれた悟を見つめた。
そして、思った。わたしは、いったい、何をしようとしているんだろう。
二人の悟の、どちらが本物か。それを見分けようとして、ずっと、証拠を探していた。記憶。目。仕草。……でも、そんなもの、二人とも同じだった。どんなに調べても、見分けはつかない。
そのとき、真尋の頭に、五荘観の、あの木のことが浮かんだ。
あの木も、証しのない本物だった。なぜ本物なのか、誰にも証明できなかった。ただ、そこにあった。……そして、悟は、それを確かめようとして、こわしてしまった。確かめようと手を伸ばした瞬間に、本物はこわれる。あの、番人の言葉。
真尋は、はっとした。
わたしは、いま、同じことをしようとしている。悟の本物さを、証拠で確かめようとして。……でも、それは、できないことなんだ。本物かどうかは、確かめるものじゃない。
じゃあ、どうすればいいのか。
答えは、もう、この旅で教わっていた。
――確かめられないからって、嘘だとは限らない。確かじゃなくても、本物。
真尋が、盤絲洞で、ハチに言った言葉。それは、そのまま、いまの自分への言葉だった。
真尋は、ポケットから、あの輪を取り出した。
「真尋?」と、うなだれていた悟が、顔を上げた。
「そうだ、それでいい」と、前の悟が、身を乗り出した。「そいつを止めろ。早く」
真尋は、二人の悟を見た。そして、静かに言った。
「わたしには、どっちが本物か、証明することはできない。……でも、一つだけ聞かせて。もし、わたしが、どうしても見分けられなくて。……この輪を、どちらかに使うしかないとしたら。あなたたちは、どうしてほしい?」
「決まってる」と、前の悟が、即座に言った。「そいつに使え。おれは本物だ。おれを生かして、そいつを消せ」
真尋は、もう一方の悟を見た。
うなだれていた悟は、しばらく、黙っていた。それから、顔を上げて、真尋を、まっすぐに見て言った。
「……おれに、使ってくれ」
真尋の胸が、震えた。
「おれは」と、悟は言った。「自分が本物か、分からない。もし、おれが偽物なら、おれは危険な存在だ。君を傷つけるかもしれない。……だったら、おれに使ってくれ。おれを消してくれ。そうすれば、少なくとも、君は安全だ」
「何を言ってるの」と、真尋は言った。声が震えていた。「もし、あなたが本物だったら。あなたが、死ぬのよ」
「それでも、いい」と、悟は、静かに笑った。「おれが本物か、偽物か。それは、もう、どうでもいいんだ。……ただ、君が無事なら、それでいい。おれは、君に生きていてほしい。……それだけは。本物だろうが、偽物だろうが、おれの中で、いちばん確かなことだ」
その瞬間、真尋には、分かった。
こっちが、本物の悟だ。
証拠なんて、どこにもなかった。それでも、真尋には、分かった。
だって、もう一人の悟は、ずっと、自分が生き残ることばかりを考えていた。そいつを消せ。おれを生かせ。自分が本物だと認めさせることばかりを。……けれど、この悟は、ちがった。自分が本物かどうかより、真尋が無事であることを選んだ。自分の命よりも。
それは、この旅で、悟が育ててきた心だった。牛魔王を拒んだ、あの心。真尋を守りたい、と願う、あの心。……写しには、記憶は写せても、この、育ってきた心の向きまでは、写せなかったのだ。
「あなたが本物よ」と、真尋は、その悟に言った。輪を握りしめて。「証拠は、ない。でも、わたしは、あなたを信じる。……あなたは、自分より、わたしを選んだ。その心は、絶対に、まがいものじゃない」
「……ちっ」
前の悟の顔が、ぐにゃりとゆがんだ。もう、隠す気もないらしかった。
「くだらん感傷で、見抜いたつもりか」と、その声は、もう、悟の声ではなかった。低く、ざらついた、化けものの声だった。「証拠もないくせに。よく、言い切れたな」
「証拠なんて、いらない」と、真尋は言った。まっすぐに、その化けものをにらんで。「本物は、証明するものじゃない。信じるものなの。……あなたには、それが分からなかった。だから、あなたは、偽物なのよ」
化けものの姿を現した、それに、悟が向き直った。もう、自分を疑ってはいなかった。真尋が信じてくれた。それが、悟に、揺るぎない力を与えていた。
悟の一撃が、その偽物を打ち砕いた。偽物は、断末魔の叫びをあげて、喰われた荒野の灰の中へと、崩れ消えていった。
あとに残ったのは、本物の悟、ただ一人だった。
*
静けさが、戻った。
悟は、しばらく、呆然としていた。それから、真尋を見た。
「……なんで」と、悟は、かすれた声で言った。「なんで、分かったんだ。おれ自身にも、分からなかったのに。……どうして、おれを信じられた?」
「分からないよ」と、真尋は微笑んだ。「証拠なんて、なかった。……でも、あなたが、わたしのために死のうとした、あの瞬間。ああ、これが、わたしの知ってる悟だ、って。心が、そう言ったの」
悟は、真尋を見つめた。
長いあいだ、悟を苦しめてきた、あの、胸の空白。〔不明〕。自分が本物かどうか分からない、という、あの消えない問い。……それが、いま、ふっと、軽くなった気がした。
自分が本物かどうか。それは、たぶん、自分では証明できない。永遠に。……けれど、誰かが、信じてくれる。証拠もないのに、まるごと信じてくれる。……それがあるなら。もう、それでいいのかもしれない。
悟は、そっと、あの種を握りしめた。
証しのない本物。かつて、それが、いちばん恐ろしかった。確かめずにはいられなかった。……あの木をこわしたのも、そのせいだった。
けれど、今なら分かる。証しのない本物を、こわさずに、そのまま受け取る方法が。
それは、信じる、ということだった。
長い、深い闇だった。けれど、その、いちばん暗い底で、悟は、ようやく、自分の、いちばん深い傷の、癒し方を、見つけたのだった。
真尋が、そっと笑った。ハチが、沼田が、リュウが、ほっとしたように、二人を見ていた。
西の空が、ほんの少しだけ、明るくなった気がした。
どん底を、彼らは、抜け出した。その先に待つ、旅の終わりへと、一行は、また歩きだした。




