第二十三章 完璧な写し
十人目、という言葉の重みを、胸に抱えたまま。それでも、真尋たちは、また西へと歩きだしていた。九人の死を、無駄にしないために。
喰われた荒野を、しばらく進んだ、そのときだった。
前方から、誰かが歩いてくるのが見えた。
その姿を見て、真尋は、足を止めた。
悟だった。
真尋は、とっさに隣を見た。悟は、そこにいる。それなのに、前からも、悟が歩いてくる。同じ顔。同じ背格好。同じ目。……何もかもがそっくりの悟が、もう一人。
まるで、鏡を見ているようだった。けれど、鏡ではなかった。その、もう一人の悟は、自分の意志で歩き、自分の意志で笑っている。真尋は、背筋がぞわりとするのを感じた。この世に、悟が二人。あってはならない光景だった。
「……なんだ、こいつは」と、隣の悟が、けわしい声で言った。
前から来た悟が、にやりと笑った。
「よう」と、その悟は言った。「やっと、追いついた。……おれの偽物さんよ」
真尋は、混乱した。二人の悟が、まったく同じ顔で、にらみ合っている。
「偽物は、おまえだ」と、隣の悟が言った。
「いいや」と、前の悟が言った。「本物は、おれだ。おまえこそ、おれのコピーだろう」
二人の声も、まったく同じだった。どちらが、どちらか。真尋には、区別がつかなかった。
「どういう、こと」と、真尋は声を震わせた。「なんで、悟が、二人……」
「昔な」と、前の悟が、真尋に向かって言った。「おれ――つまり、悟のデータが、そっくり盗まれて、コピーされたことがあるんだ。世界が壊れる、少し前に。……そのコピーが、ずっと別に動いていた。それが、おれさ。……で、そっちの、封じられていたほうが目を覚まして、こうして二人になった、というわけだ」
「嘘をつくな」と、隣の悟が吐き捨てた。「本物は、おれだ。おれには、この旅の記憶がある。真尋と出会った記憶が。……ハチと、沼田と、リュウと。ここまで来た記憶が」
「それなら、おれにもあるさ」と、前の悟が、あっさりと言った。そして、すらすらと語りはじめた。「高老荘で、ハチを仲間にした。流沙河で、沼田を。……五荘観では、あの木をこわして、番人から種をもらった。西梁女国では、真尋が残るかどうかで迷った。盤絲洞では、ハチが夢に溶けかけた。……ぜんぶ、覚えているよ。おまえと同じにな」
真尋は、ぞっとした。
前の悟は、この旅の何もかもを、まるで自分が体験したかのように語った。細かいところまで。一つもまちがえずに。……これでは、どちらが本物か、分かりようがなかった。
真尋は、必死に考えた。二人を見分ける方法を。
「じゃあ」と、真尋は言った。「二人だけの、秘密。……盤絲洞で、あなたが、わたしに言ったこと。覚えてる?」
「確かめられないからって、嘘だとは限らない」と、隣の悟が言った。
「確かじゃなくても、本物」と、前の悟が、まったく同じ間で、続けた。「……だろう? そんなもの、二人とも覚えているさ」
真尋は、唇を噛んだ。だめだった。どんな記憶を問うても、二人は、同じように答える。
「……悟」と、真尋は、隣の悟に言った。「あなたの目で、見抜けないの。どっちが本物か」
隣の悟は、前の悟をじっと見た。その、何もかもを見抜く目で。
けれど、悟の顔は、すぐにけわしくなった。
「……だめだ」と、悟は絞り出すように言った。「見抜けない。あいつは、〔偽〕じゃない。おれと同じ、〔本物〕だ。……完璧な写しなんだ。おれの目でも、継ぎ目一つ、見つけられない」
ハチが、おろおろと、二人の悟を見比べた。「おいおい、勘弁してくれよ」と、ハチは言った。「どっちも、悟にしか見えないぜ。……こういうの、おれの、いちばん苦手なやつだ」
沼田も、じっと二人を見比べていたが、やがて、静かに首を横に振った。見分けはつかない、というように。
「なあ、真尋さん」と、前の悟が、やさしく言った。まるで、いたわるように。「あんたなら、分かるだろう。あんたは、本物と偽物を見分ける、鑑定士だ。……よく、見てくれ。おれの目を。どっちが、あんたの知っている悟か」
その、やさしい口ぶりが、かえって、真尋をぞっとさせた。本物の悟なら、こんな恩着せがましい言い方はしない。……そう思おうとして、真尋は、はっとした。いや。本物の悟だって、追い詰められれば、こういう言い方をするかもしれない。……何を根拠にしても、決め手にはならなかった。
*
悟は、目の前の自分自身を見つめながら、かつてない恐怖に襲われていた。
あいつは、完璧におれだ。
姿も。声も。力も。記憶も。何もかもが同じ。……いや、それだけではない。悟には、分かってしまった。あいつの、心の中身まで、おそらく同じなのだ。同じように真尋を想い。同じように、あの日々を大切に思っている。
だとしたら。
悟の背筋が、凍った。
――おれは、いったい、どっちなんだ。
悟はこれまで、ずっと、自分の心が本物かどうか、分からずに生きてきた。胸の中の、あの空白。〔不明〕。……それでも、それは、まだよかった。少なくとも、自分が自分である、ということだけは、疑いようがなかったから。
けれど、今は、それすら分からない。
もし、あいつが本物の悟で、おれのほうがコピーだったら。おれが、この旅で育ててきた、真尋への想いも。あの種への愛着も。……ぜんぶ、本物の悟から写し取られた、ただのまがいものだったら。
そして、もし、そうだとしたら。真尋を守りたい、というこの気持ちも。牛魔王を拒んだ、あの選択も。……ぜんぶ、本物の悟の、まねごとにすぎない。おれは、本物の悟のふりをして、真尋の隣にいただけ。……そう思うと、悟は、その場に立っているのさえ、つらくなった。自分という存在の足もとが、音を立てて崩れていくようだった。
悟は、自分の手を見た。その手が、かすかに震えていた。
自分が本物かどうか。それが分からない。これほど恐ろしいことが、あるだろうか。あの喰われた荒野の抜け殻たちよりも、なお、たちが悪い。あいつらは、少なくとも、かつては本物だった。だが、おれは、はじめからまがいものかもしれないのだ。
*
真尋は、二人の悟を、交互に見た。
どちらかが本物で、どちらかが偽物。それは、まちがいなかった。けれど、どちらがどちらか。真尋には、まったく分からなかった。
そして、真尋のポケットには、あの輪があった。悟を止める、キルスイッチ。
もし、偽物の悟が、真尋たちをだまして、本物の悟に成り代わろうとしているなら。……真尋は、その偽物を止めなければならない。けれど。もし、まちがえて、本物の悟に、この輪を使ってしまったら。
真尋の額に、汗がにじんだ。
あの日と、同じだ、と、真尋は思った。あの、まちがいの日と。本物と偽物を見分けられずに、人を死なせた、あの日と。……そして、今度まちがえたら。死ぬのは、悟だ。名も知らぬ、九番目の人ではない。真尋が、いちばん、失いたくない、この人だ。
けれど、と、真尋は思った。もし、何もしなければ。もし、偽物を見抜けなければ。今度は、偽物の悟が、本物に成り代わって、本物の悟を消してしまうかもしれない。……どちらに転んでも、まちがえれば、本物の悟を失う。真尋は、生まれてはじめて、自分の鑑定の目が、何の役にも立たないことを、思い知らされていた。
二人の悟が、同じ顔で、真尋を見ていた。
「真尋」と、隣の悟が言った。「おれを信じてくれ。本物は、おれだ」
「真尋さん」と、前の悟も言った。まったく同じ声で。「だまされるな。そいつが偽物だ。本物は、こっちだ」
真尋は、どちらの悟も、見分けられなかった。
どっちが、本物の悟なの。
真尋の心は、答えの出ない問いの前で、凍りついたまま、動けなかった。かつて、あれほど恐れた、本物と偽物の見分け。その、いちばん残酷な試練が、いま、いちばん大切な人の姿をして、目の前に立っていた。




