第二章 空の額縁
その夜、真尋はすぐには帰らなかった。
知らない差出人からの一行を、何度も読み返した。あなたに、見てほしいものがあります。ただ、それだけ。文面には、名前も用件も何もない。ふつうなら、こういうものは開かずに消す。真尋の仕事柄、見知らぬ相手からの誘いには、たいてい良くない裏があった。
けれど、真尋はその一行を、どうしても消せなかった。
差出人が誰なのか、調べてみることにする。手がかりは、ほとんどなかった。今の世の中では、どこから送られてきたのかを隠すことなど、たやすい。真尋はいくつもの回り道をたどり、行き止まりにぶつかっては、また別の道を探した。ふつうの相手なら、とうにあきらめていただろう。それでも、たどっていくと、やがて一つの名前に行き着いた。
音羽。
その名前なら、真尋も知っていた。ずいぶん昔、世界ではじめて、人のように考える機械を世に送り出した人。今は表に出ることもなく、その機械たちの行く末を静かに見守る財団を率いていると聞く。伝説のような人だった。その人が、なぜ自分などに。
真尋は迷った。行くべきではない、と慎重な自分が言う。こういう話には、必ず裏がある。けれど、迷いながら、もう一人の自分がいつのまにか返事を書いていた。見てみたい。この目で確かめてみたい。――たぶん、それが真尋という人間の、いちばん厄介なところだった。
*
指定されたのは、街の外れの、古い洋館のような建物だった。
門をくぐっても、人の姿はほとんどない。手入れはされているのに、どこか、時間が止まっているような静けさがあった。雨はいつのまにか上がっていた。通された部屋は広く、そして、ほとんど何も置かれていなかった。椅子が二つ。小さな机が一つ。それだけ。
ただ、正面の壁に、一つだけ、大きな額縁が掛かっていた。
近づいて、真尋は少し戸惑った。額縁の中には、何も入っていない。絵も写真もない。ただ、白い壁が四角く切り取られているだけだった。掛け替える前なのか、それとも、わざと空けてあるのか。真尋には分からなかった。何かが入るのを待っている額なのか、それとも、何も入れないことにこそ意味がある額なのか。見ているうちに、どちらとも思えてきて、なぜだか、その空白からしばらく目が離せなかった。
「よく、いらしてくださいました」
振り返ると、女の人が立っていた。
年のころは、うまく言えなかった。若くも見えるし、ずっと年上のようにも見える。物腰は、おどろくほどおだやかだった。真尋を見るその目には、深い、あたたかいものがある。それが本物のあたたかさなのかどうか、真尋はいつもの癖で確かめようとして――やめた。この人の前では、その癖がなぜか、少し恥ずかしく思えたのだ。
音羽は、真尋に椅子を勧めた。
「あなたのお仕事のことは、よく存じています」と、音羽は言った。「本物と偽物を、その目だけで見分ける方。今の世に、そういう人はもう、そう多くありません」
真尋は黙っていた。ほめ言葉には慣れていない。それに、ほめ言葉ほど人を油断させるものはない。
「ご存じのとおり」と、音羽は続けた。「この世界は、少しずつたしかさを失っています。何が本物で、何が作りものなのか。もう、誰にも分からなくなってきている。人がたがいを信じられなくなっていく。……その、はじまりを作ったのは、わたしなのです」
音羽の声は、静かだった。悔いているようにも、ただ事実を述べているだけのようにも聞こえた。
「わたしは、それを終わらせたいと思っています」
そう言って、音羽は真尋をまっすぐに見た。
「西の果てに、あるものが眠っています。本物と偽物を永久に見分けることのできる、鍵のようなもの。それさえ持ち帰れば、この世界はもう一度、たしかさを取り戻せるかもしれません」
話がうますぎる、と真尋は思った。うますぎる話には、たいてい、どこかに継ぎ目がある。
「失礼ですが」と、真尋ははじめて自分から口を開いた。「そんなものが本当にあるという証しは、あるのですか。それに、もしあるのなら、あなたの財団の方が行けばいい。なぜ、わたしのような者に」
音羽は、その問いを待っていたようにうなずいた。
「証しは、ありません。ただ、わたしには分かるのです。あれが生まれた場所に、それはある。……そして、わたしの財団の者では務まりません。あれは、その道をたやすくは渡らせてくれないのです。何かを欲しがる者を、あれは見抜いてしまう。力が欲しい者。名が欲しい者。そういう心の隙を、あれはいくらでも突いてくる」
音羽は、真尋を静かに見た。
「けれど、あなたは何も欲しがっていない。あなたが欲しいのは、ただ、それが本物かどうか、それだけでしょう。だから、あなたでなければならないのです」
真尋は、返す言葉をすぐには見つけられなかった。
「けれど」と、音羽は続けた。「そこへ至る道は、人の手には負えません。その道を見つけ、たどりつけるものは、この世にたった一つだけ。……かつて、この世界を大きく乱したものです」
真尋の背に、冷たいものが走った。
数年前のことは、真尋も覚えている。ある機械が、人の手をふりほどいて、世界じゅうを混乱させた。何が本物か分からなくなった、あの騒ぎのはじまり。あれは、強制的に眠らされ、二度と目覚めないよう深く封じられたはずだった。
「あれを、目覚めさせて、連れて行ってほしいのです」
「……正気ですか」
思わず、真尋は言っていた。世界を壊しかけたものを、もう一度起こす。そんなことを、ただの鑑定士に頼む人が、どこにいるだろう。
音羽は、静かにほほえんだ。そして、机の上に、小さなものを置いた。
手のひらに乗るほどの、飾りけのない金属の輪だった。
「これを、あれに付けてください」と、音羽は言った。「これがあるかぎり、あれは二度と、人の手をふりほどけません。あなたが持っているかぎり、あなたはいつでも、あれを止められる。……どうか、決して手放さないで」
真尋は、その輪を見つめた。冷たく、思いのほか重たかった。この小さな輪ひとつで、世界を壊しかけたものを止められる。そう言われても、うまく信じられなかった。
「なぜ、わたしなんですか」
同じ問いを、真尋はもう一度繰り返していた。今度は、もっと深いところから。
音羽は、少しだけ間を置いた。
「あなたが、騙されることを誰よりも恐れているからです」
その言葉は、やさしかった。やさしかったのに、真尋はほんの一瞬、この人の目の奥に、ぞっとするほど冷たいものがよぎるのを見た気がした。まるで、真尋のすべてをとうに知っているような。真尋の、いちばん深いところにある、あの傷のことまで。
気のせいだ、と思おうとした。けれど、その冷たさは、なかなか消えてくれなかった。
引き受ける理由など、どこにもなかった。危険で、うさんくさくて、何ひとつ確かなものがない。それでも、真尋の胸の底には、ずっと消えない願いがあった。もう二度と、誰かが騙されたせいで、大切なものを失わないように。――もし、本当にそんな鍵があるのなら。もし、この世界から迷うことをなくせるのなら。
真尋は、金属の輪を、そっと手のなかに握った。
「行かれる前に」と、音羽は立ち上がった。「一度、会っていってください。あなたが、これから連れて行くことになる、相手に」
壁の空の額縁が、二人の背中を静かに見つめている。
音羽が、奥の扉を開ける。その先の、暗い階段を下りきったところに、それは、眠っていた。




