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無字 ―― 何もかも偽れる世界で、本物を探した  作者: 智珠


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第一章 迷う

改札を出ると、雨が降りはじめていた。


真尋はかばんから折りたたみの傘を取り出したが、開くのに少し手間取った。骨が一本、根元から曲がっている。いつか買い替えようと思ったまま、もう二年ちかく使っていた。何度まっすぐに直そうとしても、その一本だけは指を離すとまたゆるく曲がる。それでも、捨てる気にはなれなかった。さして歩けば雨はちゃんとしのげる。それで充分だと自分に言い聞かせている。


駅前のロータリーに、大きな縦長の広告画面が立っていた。若い女優が、たぶん一度も飲んだことのない缶コーヒーを両手で包み、こちらに笑いかけている。よく見れば、その笑顔はどこにも実在しない。口もとのほころび方も、頬に落ちる影も、髪の一筋の乱れ方も、すべてあとから誰かが足したものだ。数年前ならすぐに見分けられた。今はもう、少し迷う。


迷う、ということが、このごろの真尋にはいちばんこわい。


雨の中を歩いた。すれ違う人の何人かは、耳に小さな粒を差して、誰かの声を聞いている。その声が本物の誰かのものなのか、機械が作ったものなのか、聞いている本人にもたぶん分かっていない。それでも、みなうなずいたり、ときどき笑ったりしながら歩いていく。


横断歩道の向こうのビルの壁では、名の知れた俳優が、ある政治家を褒めている映像が流れていた。あの俳優が本当にそう言ったのか、真尋は知らない。数年前、こういう映像が出まわりはじめたころは、世の中はもっと騒いだ。今は、誰も驚かない。嘘に驚かなくなること。それが、いちばんこわい変わり方かもしれなかった。


角のコンビニの前では、若い男が店員に何か言い合っていた。買った覚えのない請求が来た、という声が、雨に混じって聞こえてくる。男の困った顔も、店員の戸惑った様子も、真尋にはどちらも本物に見えた。けれど、本物に見えるということが、もう何の証しにもならないことを、真尋はよく知っていた。


そういう世界で、確かなものを一つでも増やすこと。それが真尋の仕事だった。


駅から歩いて七分。古い雑居ビルの三階に、真尋の小さな仕事場がある。ドアには何も書いていない。看板を出したことは一度もなかった。それでも、仕事は途切れずにやってくる。


送られてくるのは、たいてい一枚の写真か、短い動画か、誰かの声を録ったものだった。これは本物か。作りものではないか。人はそれを知りたがる。裁判のためであったり、別れ話のためであったり、ただ眠れない夜のためであったりした。世の中に偽物があふれてから、真尋のような者の手を借りたい人は、静かに、けれど確かに増え続けている。


その日、机の上で待っていたのは、一本の動画だった。


依頼主は、小さな会社の年配の男だった。取引先から届いたという、先方の社長本人が話している映像。声も、顔も、口ぶりも、間違いなく本人のものに見える。ただ、そこで指示されている送金の額が、どうにも腑に落ちない。本物かどうか確かめてほしい。それだけの依頼だった。


昔は、映像がどこから来たのかを調べれば、それだけで多くのことが分かった。いつ、どの機械で作られたのか。そういう手がかりが、映像そのものに残っていた。けれど今は、その手がかりごとそっくり作れてしまう。だから真尋は、機械の出す答えをはじめから当てにしない。自分の目と、自分の手だけで確かめる。それが、遅くてもいちばん間違いが少なかった。


真尋は部屋の照明を落とし、画面に顔を近づけた。


まず音を消して、口の動きだけを何度も見る。次に映像を止めて、一こまずつ指で送っていく。人が本物かどうかは、たいていなめらかに動いているところには出ない。動きと動きのあいだの、ほんのわずかな継ぎ目に出る。まばたきの間隔。首を傾けたときの、耳のうしろに落ちる影。言葉を切る前の、肩のかすかな上下。真尋はその一つ一つを、古い友人の顔でも確かめるように、ゆっくりと見ていった。


音を一度だけ戻して、社長の声も聞いた。言葉の終わりの、息のかすれ方。低くなるところ。それも悪くない出来だった。悪くない、というより、うますぎた。人の声は、本当はもっとあちこちで乱れている。ためらったり、つかえたり、余計なところで息を継いだりする。この声には、その乱れが少しも足りなかった。


三十分ほど見て、真尋は一度、椅子の背にもたれた。


継ぎ目が見つからない。


昔なら、この時点でもう答えは出ていた。作りものには必ず、どこかにほころびがあり、目を凝らせば必ず見つかった。けれど、この一年ほどで、そのほころびはどんどん小さくなっている。作る側の技術が、見分ける側の技術を少しずつ追い越していく。いつか完全に追いつかれる日が来ることを、真尋はもうどこかで分かっていた。その日、自分の目には、いったい何が残るのだろう。


それでも、と思う。今日はまだ、その日ではない。


真尋はもう一度、照明を落とした。音を消し、一こまずつ、はじめから見ていく。今度は、社長の顔ではなく、その背後に映っているものに目をやった。窓。その外の、遠いビルの一枚の窓ガラスに、夕方の光が小さく反射している。真尋はその光の角度を、じっと見た。それから、机の上に置かれた書類に落ちている、影の向きを見た。


ほんのわずかに、合っていない。


光は、嘘をつくのがいちばん下手だ。人の顔をどれだけ精巧に作れても、その人がいる部屋の光と影のつじつままでは、まだ合わせきれない。真尋は依頼主に、短い返事を書いた。この映像は本物ではありません。指示されている送金は、どうかなさらないでください。


送信を終えると、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。雨の音だけが、部屋に残っている。


真尋は、いい仕事をしたはずだった。あの年配の男はたぶん、大きな損をせずに済む。誰かが一人、騙されずに済んだ。それは、真尋がこの仕事を続けている、たった一つの理由でもあった。それでも、こういう静かな夜にかぎって、胸の奥がしんと冷えていくのを、どうすることもできなかった。


正しく見分けられたときほど、真尋は昔のことを思い出す。


昔、一度だけ、真尋は間違えたことがある。本物だと言ってはいけないものを、本物だと言った。あのときのことを思うと、今でも指の先が冷たくなる。だから、今日のように正しく見分けられた夜ほど、なおさら、あの日の自分がすぐそばに立っているような気がした。


机の隅に置いた携帯電話が、一度、光った。


通知の一つに、ずっと開いていないメッセージがある。差出人の名前を、真尋はもう何か月も、目に入れないようにしていた。指がその名前に触れそうになるたびに、手が勝手に止まる。読めば、何かが確かめられてしまう。確かめてしまえば、もう戻れない。だから、開かない。ずっと、開かないままにしてある。世界じゅうの本物と偽物を見分けようとしている自分が、たった一つ、その通知だけはどうしても確かめられずにいた。


真尋は携帯を、そっと裏返して机に置いた。


裏返した画面の暗がりに、自分の顔がぼんやりと映っている。少し疲れた、けれど見知らぬ誰かではない顔。それだけは、確かめるまでもなく本物だった。せめて、それだけは。


そして、帰り支度をしようと立ち上がったとき、その携帯がまた光った。


今度は、知らない差出人だった。件名も本文もない。ただ、一行だけ、短い言葉が表示されている。


――あなたに、見てほしいものがあります。


真尋はしばらく、その画面を見つめていた。


雨はまだ、やまなかった。

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