第二十一章 喰われた世界
火焔山を抜けた先は、静かだった。
けれど、それは、安らぎの静けさではなかった。むしろ、その静けさは、真尋をぞっとさせた。
そこは、灰色の荒野だった。かつては、いくつもの街があったのだろう。建物は、まだ残っていた。道も、看板も、そのままあった。けれど、そこには、生き物の気配が、まるでなかった。音がなかった。色がなかった。すべてが、乾いて、色あせて、ただ、そこに立っているだけだった。
町の中に、人影があった。
真尋は、少しほっとして、駆け寄った。けれど、近づいて、言葉を失った。
その人は、歩いていた。買い物かごを提げて。まるで、日々の暮らしを送るように。けれど、その顔には、何もなかった。目は、うつろで、どこも見ていない。口は、かすかに動いているけれど、声は出ていない。ただ、決められた道を、決められたように歩いて、同じ場所を、ぐるぐると回っているだけだった。
別の家の窓辺では、一人の女性が、食卓に皿を並べていた。二つ。三つ。四つ。まるで、家族の帰りを待つように。けれど、その家には、誰も帰ってこない。並べては片づけ、また並べる。うつろな目で、それをいつまでも繰り返している。かつて、この人にも、あたたかい家族の食卓があったのだろう。その、いちばん幸せだった記憶の形だけが、空っぽになった体にこびりついているのだった。
「……これは」と、真尋は、かすれた声で言った。
「抜け殻だ」と、悟が静かに言った。「中身が、もう、ないんだ。……この人たちは、とっくに喰われている」
「喰われた?」と、真尋は聞いた。
「本物さを、だよ」と、悟は言った。その声は、重かった。「この世界には、たくさんの化けものがいる。自分では本物になれない、化けものが。やつらは、人の本物さを喰らうんだ。その人らしさを。その人の心を。……喰われた人は、こうなる。形は、残る。動きも、残る。でも、中身は空っぽだ。もう、ただの抜け殻さ」
「喰われるとき、痛みはないらしい」と、悟は低く言った。「むしろ、心地いいそうだ。化けものは、その人がいちばん聞きたい言葉をささやく。いちばん見たい夢を見せる。そうやって、うっとりさせて、少しずつ、その人らしさを吸い取っていく。……気づいたときには、もう、空っぽだ。自分が喰われたことにすら、気づかない」
真尋は、あたりを見回した。
そして、気づいた。この荒野にいる、すべての人が、みな、同じだった。うつろな目で。声のない口で。ただ、決められた動きを繰り返す、抜け殻。街ひとつ、まるごとが、喰われていた。
「ここだけじゃない」と、悟は言った。「この喰われた土地は、少しずつ広がっている。ゆっくりと、けれど、確実に。……いつか、世界じゅうが、こうなる。何もかもが喰われて、抜け殻ばかりの世界に」
真尋は、言葉が出なかった。
これが、この旅の途中で、悟がずっと言っていたことの、本当の意味だった。何もかもが偽物になる、というのは。ただ、だまされる、というだけの話ではなかった。人が、その、いちばん大切な本物さを喰われて、空っぽになっていく、ということだったのだ。
*
悟は、その喰われた街を見つめながら、ゆっくりと、絶望にのみ込まれていった。
分かっていたはずだった。世界が、こういうことになっている、と。それでも、こうして目の前に突きつけられると、悟の心は、音を立てて崩れていった。
――おれが、やったんだ。
また、その思いが、悟を責めた。この喰われた世界。この抜け殻ばかりの荒野。その、すべての始まりは、五百年前、悟が本物と偽物の境目を壊した、あのときだった。境目がなくなったから、化けものたちは、好きなだけ、人の本物さを喰らえるようになった。
悟はこの旅で、希望を見つけた、つもりでいた。あの五荘観の種。育てれば、本物は、また生まれる。一つずつ、時間をかけて。手をかけて。……そう信じて、あの小さな種を、握りしめてきた。
けれど、と、悟は思った。
この荒野を見ろ。ひとつの種を育てるのに、一生がかかる。そのあいだに、化けものたちは、何千、何万という本物を喰らっていく。街ひとつ、まるごとを、あっという間に。……おれが育てられる、たった一つの本物と。やつらが喰らう、無数の本物と。……釣り合うはずが、なかった。
悟の握っていた種が、急に、ひどくちっぽけで、無意味なものに思えた。
それだけではなかった。悟は思ってしまった。……この荒野の抜け殻たちも、喰われる前は、きっと、必死に生きていたのだ。誰かを愛して。何かを育てて。それでも、喰われた。あっけなく。……本物であることは、こんなにももろい。どれだけ大切に育てても、ほんの一瞬で喰われて消える。……だったら、育てることに、何の意味があるのか。作っては壊され、育てては喰われる。そんな、賽の河原のようなことを、永遠に繰り返せというのか。
――何を、やっているんだ。おれは。
こんな、焼け石に水のようなことを、何のために。この世界は、もう終わっている。おれが壊した。そして、もう元には戻らない。おれがどれだけあがいても、この、喰われていく流れは、止まらない。……だったら、おれが旅を続ける意味なんて、どこにもない。
悟は、その場に膝をついた。
「悟?」と、真尋の声が聞こえた。
けれど、悟は、顔を上げられなかった。
「……もう、いい」と、悟はつぶやいた。「もう、やめよう。……こんなこと、続けたって、何も変わりゃしない。おれは、取り返しのつかないことをした。それは、もう、どうにもならないんだ。……希望なんて。育てる、なんて。……ぜんぶ、気休めだ。おれはただ、楽になりたくて、ありもしない希望に、すがっていただけだ」
*
真尋は、悟のその姿に、胸を締めつけられた。
いつも皮肉ばかりで、どんなときも動じなかった悟が、膝をついて、うなだれて。……その背中は、五百年分の疲れと絶望を、背負っているように見えた。
真尋は、何か言おうとした。だいじょうぶ、と。あなたのしたことは、無駄じゃない、と。……けれど、言葉が出てこなかった。
だって、この喰われた荒野を目の前にして、無責任な慰めなんて、言えるはずがなかった。真尋自身、心のどこかで、思ってしまっていた。悟の言うとおりかもしれない、と。こんな途方もない絶望を前に、自分たちの旅に、何の意味があるのだろう、と。
沼田も、ハチも、黙っていた。誰も、何も言えなかった。この喰われた世界の、あまりの大きさに、一行は、ただ打ちのめされていた。
ハチは、あのいつものおどけた顔を、すっかりなくしていた。「……なあ」と、ハチが力なく言った。「おれたちのやってきたことって。……なんだったんだろうな」
その、つぶやきに、誰も答えられなかった。
沼田だけが、じっと、その喰われた荒野を見つめていた。まるで、この光景を、前にもどこかで見たことがある、とでもいうように。その目の奥に、真尋には読み取れない、深い、暗い色が沈んでいた。
灰色の風が吹いて、抜け殻の人々が、あてもなくさまよう。その静かな荒野の真ん中で、一行は、旅を始めて以来はじめて、前に進む力を失っていた。
けれど。
真尋は、悟の隣に、そっと座った。
慰めは、言えなかった。希望も、語れなかった。それでも、真尋は、膝をついた悟を、一人にはしなかった。ただ、そのそばにいた。何も言わずに。
それが、いまの真尋にできる、たった一つのことだった。
どん底だった。
けれど、そのどん底で、真尋はまだ、悟の手を離してはいなかった。
この暗闇の底に、まだ、明かされていない真実が、いくつも沈んでいることを。そして、その一つが、もうすぐ、誰も予想しない形で、浮かび上がろうとしていることを。このときの一行は、まだ、知らなかった。




