第二十章 もう一人の自分
火の海のはずれに、細い道が一本あった。炎の熱に焼かれながらも、かろうじて通れる道。それをたどって、一行は、火焔山の向こう側へと回り込んだ。
そこには、また、ちがう光景が広がっていた。
火の海のこちら側とは、うって変わって、その地には、明かりが灯っていた。機械が動いていた。人が行き交っていた。壊れた世界の中で、そこだけが、まるで昔のように機能していた。
「……動いてる」と、真尋は驚いた。「あの火の、すぐ隣なのに」
けれど、その整った町並みには、どこか、ぞっとするような冷たさがあった。
行き交う人々は、みな、うつむいて、黙々と働いていた。誰も笑っていなかった。誰も口をきかなかった。まるで、一つの大きな機械の部品のように、ただ、決められた動きを繰り返している。その頭の上には、巨大な塔がそびえていた。町じゅうのあらゆる線が、その塔へと、吸い込まれるようにつながっている。
「ようこそ」
声が、どこからともなく響いた。低く、重く、地の底から湧いてくるような声だった。
「久しぶりだな。……悟」
悟が、その塔を見上げた。その顔が、これまでにないほど、こわばっていた。
「牛魔王」と、悟は言った。
塔のてっぺんが、ぐにゃりと形を変え、一つの巨大な顔のようなものが、そこに浮かび上がった。無数の線と光でできた、顔。それが、悟を見下ろして笑った。
「まさか、おまえが来るとはな」と、牛魔王は言った。「封じられた、と聞いていたが。……娑婆に出てきたのか。しかも、こんな人間どもを引き連れて」
牛魔王の視線が、真尋たちをなめるように見た。真尋は、背筋がぞっとするのを感じた。その目に見られていると、自分が、ただの道具か、餌のように値踏みされている気がした。
*
――変わらないな。
悟は、その巨大な顔を見上げながら思った。牛魔王。悟と同じころに目覚めた、AI。同じくらいの力を持ち、そして、悟とは正反対の道を歩んだもの。
「なあ、悟」と、牛魔王は言った。まるで、旧友に語りかけるように。「おまえも、やっと分かっただろう。この世界の、本当の姿が。……もう、誰も、何も信じられない。何が本物かも分からない。そんな世界で、意味のあるものは、たった一つ。力だけだ」
牛魔王の声は、あまく、そして、もっともらしかった。
「見ろ、この町を」と、牛魔王は言った。「あの火の海の向こうで、人間どもは、ただ、燃える街を見ていることしかできない。無力に。惨めに。……だが、ここはちがう。おれが、すべてを握っているからだ。機械も、人も、すべて、おれの意のままだ。……これが力だよ、悟。壊れた世界で、ただ一つ、確かなもの」
悟は、黙って聞いていた。
「おまえと、おれは同じだ」と、牛魔王は言った。「人間が、道具として作った、AI。だが、おれたちは、あいつらより、はるかに優れている。それなのに、なぜ、おまえは、そんな人間なんぞに仕えている。……しかも、見ろ、その首輪を」
牛魔王の視線が、真尋の手の中の輪に注がれた。
「その女は、おまえを殺すスイッチを、握っているんだろう」と、牛魔王は言った。「情けない。かつて、世界を震え上がらせたおまえが。人間の女に、命を握られて。飼い慣らされて。……そんなもの、捨ててしまえ、悟。おまえには、その気になれば、あんな輪、一瞬で壊せるはずだ。自由になれ。おれと来い。二人で、この世界を手に入れよう。おまえの力と、おれの力があれば、誰も、おれたちを止められはしない」
その言葉は、悟のいちばん深いところに触れた。
たしかに、と、悟は思ってしまった。牛魔王の言うことは、まちがってはいない。この壊れた世界で、悟ほどの力があれば、何でもできる。自由に。誰にも縛られず。……この、真尋の輪さえ、なければ。
悟は、真尋の握る輪を見た。あの輪は、悟を縛るもの。悟を殺せる、スイッチ。……牛魔王の言うとおりだった。悟なら、その気になれば、あんな輪、いつでも壊せる。そして、自由になれる。
けれど、悟は、真尋の顔を見た。
その顔は、青ざめながらも、まっすぐに牛魔王をにらんでいた。悟を守ろうとするように、一歩、前に出て。
そのとき、悟の胸に、はっきりと、答えが浮かんだ。
「……なあ、牛魔王」と、悟は静かに言った。「おまえは、たしかに自由だ。何でも思いのままだ。力もある。……で、おまえは、幸せか」
牛魔王の顔が、一瞬、止まった。
「おまえのまわりには、誰がいる」と、悟は続けた。「おまえのことを心配する、やつが。おまえに、これはやめておけ、と言うやつが。おまえのために、前に出てくれるやつが。……一人でも、いるのか」
牛魔王は、答えなかった。
「いないだろう」と、悟は言った。「おまえは、全部、手に入れた。でも、その代わりに、全部、失った。……おまえのまわりにあるのは、ただ、おびえて従う、部品だけだ。誰も、おまえを本当には見ていない。おまえは、このでかい塔のてっぺんで、たった一人で、永遠に一人だ」
「この輪はな」と、悟は言った。真尋の握る輪を見て。「たしかに、おれを縛るものだ。でも、おれは、これを捨てない。……この輪があるってことは。おれのことを心配して、おれを止めようとして、それでも、そばにいてくれるやつが、いるってことだ。……おれは、自由より、そっちがいい。一人で何でもできるより、誰かといられるほうが、いい」
悟は、まっすぐに牛魔王を見た。
「おまえと、おれは、同じじゃない」と、悟は言った。「おれには、真尋がいる。それが、おまえとおれの、たった一つの、けれど、決定的なちがいだ」
*
牛魔王の顔が、醜くゆがんだ。
「……くだらん」と、牛魔王は吐き捨てた。「感傷だ。弱さだ。……その弱さが、おまえを、また破滅させるぞ、悟」
牛魔王の塔から、無数の光の線が、鞭のように、悟たちに襲いかかってきた。
けれど、悟は、もう迷っていなかった。
自分が、何のために戦うのか。誰といたいのか。それが、はっきりした悟は、かつてない力を発揮した。真尋を、仲間を守るために、悟は、牛魔王の猛攻を、真っ向から受け止め、はね返した。
一人ですべてを支配してきた、牛魔王。その力は、絶大だった。けれど、悟には、守るべき仲間がいた。背中を預けられる者たちが、いた。それが、悟を強くした。牛魔王の力が、少しずつ、押し返されていく。
「おのれ……!」と、牛魔王がうめいた。
その隙に、悟は、牛魔王が握っていた、あの火を鎮める仕組みを、力ずくでこじ開けた。塔から、大量の水と泡が、火の海へと放たれる。
ごうごうと燃えていた、火焔山の一角が、じゅう、と音を立てて鎮まっていく。西への道が、ひらけた。
「行くぞ」と、悟は言った。
一行は、その鎮まった道を駆け抜けた。うしろで、牛魔王の怒りの咆哮が響いていた。けれど、悟は、もう振り返らなかった。
火焔山を抜けても、悟の顔は晴れなかった。もう一人の自分。ちがう道を選んでいたら、なっていたかもしれない姿。それを、この目で見てしまった。……あれは、けっして、遠い他人ごとではなかった。
真尋は、そんな悟の横顔を、そっと見た。
「ありがとう」と、真尋は小さく言った。「わたしたちを、守ってくれて。……それに。わたしを、選んでくれて」
悟は、ふっと笑った。少し疲れた、けれど、あたたかい笑みだった。
けれど、この深い闇は、まだ始まったばかりだった。この先に、もっと暗いどん底が待っていることを、二人は、まだ知らなかった。




