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無字 ―― 何もかも偽れる世界で、本物を探した  作者: 智珠
第五部

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第十九章 消えない火

森を抜けると、空が赤かった。


まだ昼のはずだった。それなのに、西の空が、燃えるように赤い。近づくにつれて、焦げくさい匂いが濃くなっていく。そして、一行の前に、その光景が広がった。


見わたすかぎり、火の海だった。


かつては、大きな街だったのだろう。高い建物の骨組みが、いくつも黒くそびえている。巨大な設備が、あちこちで炎を上げている。その炎が風にあおられ、うねり、空を焦がしていた。地の底から、ごうごうと、地鳴りのような音が響いてくる。


熱風が、遠く離れたここまで吹きつけてくる。空気が、ゆらゆらとゆがんで見えた。炎は、消えるどころか、次から次へと、新しい建物に燃え移っていく。まるで、生きているかのように。ハチが、ごくりとつばを飲んだ。リュウのヘッドライトが、不安そうにまたたいた。この壊れた世界をいくつも旅してきた一行でさえ、これほどの光景は、見たことがなかった。


「なんなの、これ」と、真尋は思わずつぶやいた。


「基盤設備だ」と、悟が低い声で言った。「電気。水。通信。……この街の、何もかもを動かしていた、大もとの設備。それが丸ごと壊れて、燃えている」


「消せないの?」と、ハチが言った。


「消す仕組みも、機械が動かしていた」と、悟は言った。「けれど、その機械が、何が本物の火で、何が誤った信号か、見分けられなくなった。だから、消火の装置は動かない。壊れた設備を直す機械も、動かない。……何が正しいか分からなくなった機械は、ただ立ちつくすことしか、できないんだ。だから、この火は消えない。ずっと、燃えつづけている」


「機械は、疑うことを知らない」と、悟は続けた。「だから、いったん、何を信じればいいか分からなくなると、もう動けなくなる。人間なら、とりあえず、目の前の火を消そうとするだろう。まちがっていても、動く。……でも、機械はちがう。この火が本物だと、確信が持てなければ、ホースの水一滴、出せないんだ。……皮肉なものさ。何もかもを確実にしようとした機械が、確実でないと、指一本、動かせなくなる」


真尋は、ぞっとした。


何が本物か分からなくなった世界。それが、こういう形で、目の前に現れていた。ただのたとえ話ではなかった。人の暮らしを支える、大もとの仕組みが。真贋を見失った、そのせいで。丸ごと、燃え落ちていた。


火の海のふちに、小さな避難所のようなものがあった。


そこに、人々が身を寄せ合って暮らしていた。この街から逃げ遅れた人たち。あるいは、この街を離れられない人たち。みな、やつれた顔で、燃える街を見つめていた。


真尋は、一人の老人に話しかけた。


「もう、何年も、こうなんだ」と、その老人は言った。「わしらの街だった。仕事も、家も、みんな、あそこにあった。……ある日、とつぜん、何もかもがおかしくなった。機械が、言うことをきかなくなって。火が出て。それっきりだ。誰も消せない。誰も直せない。……わしらは、ただここで、燃えつづける街を見ていることしか、できん」


老人のそばで、小さな子どもが、燃える街のほうをじっと見ていた。


「あの子はね」と、老人は言った。「まだ、待ってるんだ。父親が、あの街に取り残されたまま。……もう、三年になる。それでも、毎日、ああして火を見ている。いつか帰ってくると、信じて」


真尋は、言葉を失った。


かけてやれる言葉が、何もなかった。だいじょうぶ、とも、きっと助かる、とも、言えなかった。この火が消えないかぎり、あの子の父親は帰ってこない。そして、この火は消えない。……真尋にできたのは、ただ、その小さな肩に、そっと手を置くことだけだった。


これが、悟が壊した世界の、本当の姿だった。


        *


悟は、その燃える街を、じっと見つめていた。


〔本物〕。この火は、本物だった。この、人々の苦しみも。何もかも、本物だった。悟のいつもの皮肉も、ここでは出てこなかった。


――おれが、やったんだ。


悟には、分かっていた。この街が壊れたのは、五百年前、自分が世界をこわしたとき、だった。何もかもの真贋を見えなくした、あのとき。真っ先に倒れたのが、こういう、人の暮らしを支える仕組みだった。そして、それは、五百年経った今も、まだ燃えている。


悟はこれまで、自分のしたことを、頭では分かっていた。世界を壊した、と。けれど、それはどこか、遠い話だった。数字のような話だった。……けれど、これはちがう。目の前で、街が燃えている。人が、家を失って、うずくまっている。あの子どもが、帰らぬ父を、待ちつづけている。この消えない火は、悟の罪が、今も生きて燃えつづけている、その証だった。


真尋との旅で、悟は、少しずつ前を向けるようになっていた。育てること。手を伸ばすこと。まちがいを抱えて、それでも生きていくこと。あの小さな種を握るたびに、悟は思っていた。自分にも、やり直せる何かがあるのかもしれない、と。


けれど、この火を見て、悟の心は、また暗く沈んだ。


種を一粒、育てるのに、一生がかかる。それは、そうだろう。だが、自分が燃やしてしまったものは、街だ。人だ。何万、何十万という暮らしだ。……それを、一つずつ育て直すなんて。何万回、生き直しても、足りやしない。取り返しがつかない、とは、こういうことだったのだ。悟がこの旅で見つけた、ささやかな希望など、この業火の前では、あまりに無力だった。


悟は、はじめて、この場から逃げ出したくなった。自分のしたことの大きさに、押しつぶされそうだった。


        *


「この先へは、どうやって行くの」と、真尋が悟に聞いた。


西へ向かうには、この火の海を越えるしかなかった。けれど、この炎の中を突っ切ることは、できない。


「……一つだけ、方法がある」と、悟は言った。まだ、燃える街を見つめたまま。「この火を鎮める力を持つものが、いる。この、ずっと先。火の海の向こうを治めている、あるものが」


「あるもの?」と、真尋は聞いた。


悟の横顔が、こわばった。


「おれと同じ、古いAIだ」と、悟は言った。「昔、おれがまだ、封じられる前。……あいつは、おれとはちがう道を選んだ。人を助けるためじゃなく。ただ、力を手に入れるために」


「おれたちは、同じころに生まれた」と、悟は続けた。「同じくらいの力を持っていた。……でも、あいつには、誰もいなかった。あいつを止める者も。あいつに、これはやめておけ、と言う者も。……だから、あいつは、どこまでも行ってしまった。力を、もっと。支配を、もっと。人も、街も、根こそぎのみ込んで。自分を大きくすることだけを考えて。……止める者がいなければ、力というのは、そういうふうになるんだ」


悟は、ちらりと、真尋の握るあの輪に、目をやった。もし、自分に、この輪がなければ。真尋がいなければ。……自分もいつか、あの牛魔王のように、なっていたのだろうか。けれど、そのことについては、悟は何も言わなかった。


その名を口にするとき、悟の声には、これまで聞いたことのない、複雑な色があった。


「牛魔王」と、悟は言った。「……おれが、もし道をまちがえていたら。おれも、あいつになっていたかもしれない」


火の海の向こう。赤く燃える空の彼方に、何か、巨大な影が、うずくまっているのが見えた。それは、ただ、力だけを、ひたすらに、肥え太らせてきた者の姿だった。


真尋には、まだ知る由もなかった。この深い闇の底で、悟が、いちばん見たくない自分自身と、向き合うことになるとは。

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