第十八章 目を覚ます
ハチの姿は、もう半分ほど、繭の糸に溶けかけていた。
真尋は、その手を必死に握っていた。けれど、ハチは、幸せそうな笑みを浮かべたまま、夢の奥へと沈んでいく。真尋の声も、もう届いていないようだった。
「悟。どうにか、ならないの」と、真尋は言った。
「無理だ」と、悟はけわしい顔で言った。「この繭を、外から壊すことはできる。でも、そうすれば、中の夢もろとも、ハチも砕けてしまう。……ハチが、自分で目を覚まさないかぎり、助けようがない」
真尋は、唇をかんだ。
自分で目を覚ます。それは、ハチにとって、いちばんむずかしいことだった。だって、この夢の中には、ハチがずっと欲しかったものが、ぜんぶあるのだから。
けれど、真尋はあきらめなかった。ハチの、その幸せそうな顔に、必死に呼びかけた。
「ハチ。聞いて」と、真尋は言った。「その夢の中で、みんなが、あなたを好きだって言うんでしょう。……でも、それは、その夢が、そう言わせているだけ。あなたが、何をしても、何を言っても、みんな、あなたを好きになる。そういうふうに作られた、夢なの」
ハチのまぶたが、かすかに動いた。
「でも、考えてみて」と、真尋は続けた。「それって、本当にうれしいこと? 何をしても好かれる。それは、あなたがいちばんこわがっていたことと、同じじゃない。……相手が、本当にあなたを好きなのか。それとも、ただそう言っているだけなのか。分からない。その、夢の中の好意もまた、あなたには、確かめようがないのよ」
ハチの動きが、止まった。
「……うるさいな」と、ハチがめずらしく、とげのある声で言った。夢が、そう言わせているのかもしれなかった。「せっかく、いい気持ちでいるのに。……ほっといてくれよ」
それでも、真尋はひるまなかった。
「わたしたちは」と、真尋は言った。「その夢の中の、みんなとはちがう。……ねえ、ハチ。わたしたちは、いま、この命がけの罠の中に、あなたを助けに来たの。夢に言わされたからじゃない。誰かに命じられたからでもない。ただ、あなたを置いていけなかったから。……それは、あなたを好きだから、じゃないの?」
「……おれは」と、悟がぶっきらぼうに言った。「おまえのへらへらした調子は、正直、うっとうしい。……でも、おまえがここで消えたら、寝覚めが悪い。それくらいには、おまえのことを、仲間だと思ってる」
ハチが、はっと悟のほうを見た。そして、その目から、涙がこぼれた。夢の中の、うっとりとした涙とはちがう。もっと、苦しそうな涙だった。
「……分からないよ」と、ハチは絞り出すように言った。「あんたたちが、本当におれを好きなのかなんて。……おれには、確かめようがないんだ。それが、こわいんだよ。だから、夢の中にいたいんだ。ここでなら、確かに好かれてるって、思えるから」
「そうだね」と、真尋は言った。「確かめようは、ない。……ずっと、ないよ。わたしたちが、本当にあなたを好きかどうか。あなたには、一生、確かめられない。それは、本当」
真尋は、ハチの手を、強く握った。
「でもね、ハチ。……確かめられないからって、それが嘘だってことには、ならないの。確かじゃない。それでも、本物。そういうものも、あるの。……夢の中の、確かな好意より。わたしは、確かめられなくても、本物の、こっちのほうを、あなたに選んでほしい」
ハチは、長いあいだ、黙っていた。夢の中の、あまい世界と。確かめようのない、こちらの現実と。その二つのあいだで、ハチの心が揺れているのが、真尋には分かった。
「……なあ、真尋さん」と、やがて、ハチが言った。「もし、おれが、そっちに戻ったら。……おれ、みんなに嫌われることも、あるのかな」
「あるよ」と、真尋は正直に言った。「たくさん、ある。あなたが調子のいいことを言えば、悟は、いやな顔をするし。わたしだって、あなたに腹を立てることも、あると思う。……そういう、めんどうな、確かじゃない毎日が、待ってる」
ハチは、ふっと笑った。今度は、夢の中の、とろけた笑みではなかった。どこか、さみしくて、それでいて、あたたかい笑みだった。
夢の中の、あの、みんなが自分を好きだと言ってくれる世界。それを手放すのは、ハチにとって、身を切られるよりつらいことだった。それでも。確かでも空っぽな幸せより、確かめられなくても、誰かと本気でぶつかりあえる毎日のほうが、ハチには、なぜか、まぶしく見えた。
「……いいな、それ」と、ハチは言った。「嫌われることも、ある、か。……そっちのほうが、なんだか、本物っぽいや」
そう言って、ハチは、目を閉じた。
そして、次の瞬間、かっと目を見開いた。
「……よし」と、ハチは言った。「目を覚ますよ。おれ」
その、ハチの一言が、繭のあまい夢に、ひびを入れた。
ハチの体をからめとっていた、白い糸が、ぱらぱらとほどけていく。ハチの姿が、また、はっきりと濃くなっていく。夢の世界が、音を立てて崩れはじめた。
「今だ」と、悟が言った。「夢が崩れる。……こいつの正体が、現れるぞ」
繭の白い壁が、めくれ上がった。その奥から、巨大な影が現れる。人を、あまい夢でとかして、のみ込んで生きてきた、化けものだった。獲物を逃がすまいと、無数の糸を放ってくる。
けれど、もう遅かった。
目を覚ました四人には、その糸は、もうからみつかなかった。あまい夢の力は、目覚めた心には効かないのだ。悟が、前に出た。
「悪いが」と、悟は言った。「おれたちは、もう、夢は見ないことにしたんだ」
悟の一撃で、その化けものは、断ち切られた。繭が崩れ落ちる。まばゆい光が、差し込んできた。
*
気がつくと、一行は、あの森の中に立っていた。うしろでは、あの白い繭が、しぼんで、ただの抜け殻になっていた。
外の空気は、夢の中のあまさとは、くらべものにならないほど、冷たくて、そっけなかった。
けれど、ハチは、大きく息を吸い込んで言った。
「……ああ。やっぱり、こっちのほうが、いいや」
「後悔、してないのか」と、悟がからかうように言った。「せっかくの、幸せな夢を、捨ててさ」
「してるさ、めちゃくちゃ」と、ハチは笑った。「でも、いいんだ。……あのさ。おれ、決めたんだ。これからは、嫌われるのをこわがるの、やめる。好かれるために、心にもないことを言うのも、やめる。……本物のおれで、いるよ。それで、みんなに嫌われたら。そんときは、そんときだ」
それは、人に好かれることだけを考えて生きてきたハチの、生まれてはじめての決意だった。
「おう、いいこと言うじゃないか」と、沼田が、ぼそりと言った。あの無口な男が、はじめて、ハチにかけた、言葉らしい言葉だった。ハチは、きょとんとして、それから、うれしそうに破顔した。
真尋は、微笑んだ。ハチは、あの夢の中で、いちばん欲しかったものを、自分の手で手放したのだ。確かに好かれる、という夢を捨てて。確かめようのない、本物の仲間のほうを、選んだ。それは、この物語の誰もが、いつか、しなければならない選択の、ひとつの答えだった。
一行は、また車に乗り込んだ。二つの誘惑を、くぐり抜けて。あたたかい町のしあわせも、あまい夢のやすらぎも、すべて断って。それでも、彼らは、この、つらくて確かじゃない、本物の世界を選んだのだ。
車は、また西へ走りだす。
その行く手に、これまでとはくらべものにならない、深い闇が待っていることを。まだ、誰も知らなかった。




