第十七章 あまい夢
あたたかい町を出てから、道はしだいに、深い森の中へと入っていった。
木々がこんもりと空をおおい、昼でもうす暗い森だった。その、いちばん奥に、ふしぎな建物があった。丸くて、白くて、まるで大きな繭のような形をしている。
入り口に、看板が出ていた。ゆめみどころ。お疲れの方、どうぞ、いちばん幸せな夢を。
「夢、ねえ」と、ハチが興味深そうに言った。「面白そうじゃないか。ちょっと、のぞいてみようぜ」
「やめておけ」と、悟が静かに言った。あの建物を、じっと見ている。「あれは、あぶない。……なかから、へんな気配がする」
けれど、ハチは、もう、ふらふらと、その入り口に近づいていた。
「まあまあ、いいじゃないか」と、ハチは言った。「ちょっと、見るだけだって。……このところ、つらいことばっかりだったろ。たまには、いい夢でも見てさ」
真尋が、止める間もなかった。ハチは、その繭の中へ、すうっと吸い込まれるように、入っていった。
「ハチ」
真尋は、あわてて、あとを追った。悟も、沼田も続いた。ハチを、置いてはいけない。
そして、その繭の中に、足を踏み入れた瞬間、真尋の目の前が、ぐにゃりとゆがんだ。
*
気がつくと、真尋は、明るい光の中に立っていた。
そこは、真尋のよく知っている街だった。けれど、どこかちがった。壊れかけた広告も、作りものの笑顔も、どこにもない。人々は、みなおだやかに笑っている。空気は澄んでいて、何もかもが、くっきりと、はっきりしていた。
真尋には、すぐに分かった。ここは、何もかもが本物の世界だ。偽物が一つもない世界。疑う必要が、まったくない世界。
真尋の肩から、すうっと力が抜けた。
ああ、と真尋は思った。もう、疑わなくていいんだ。この人は本物か、この声は作りものか。そんなことを、いちいち考えなくていい。目に映るものを、ただ信じればいい。……なんて、楽なんだろう。
ずっと、こういう世界に住みたかった。何もかもが確かで、何ひとつ疑わなくていい世界に。真尋は、その光の中を歩いた。すれちがう人が、みな、真尋にあたたかく微笑みかける。その笑顔が、ぜんぶ本物だと分かる。こんなに心の安まることが、あるだろうか。
仕事で、旅で、真尋はいつも気を張っていた。目に映るものすべてを、まず疑ってかかる。それは、想像以上に心をすり減らす暮らしだった。この夢の中では、その重荷が、まるごと消えていた。ただ、まわりを信じて、微笑んでいればいい。真尋の心は、その心地よさに、ずぶずぶと沈んでいった。
真尋は、このまま、ここにいたいと思った。
そのとき、ふと、耳の奥で、声がした。悟の声だった。
――真尋。目を覚ませ。それは、夢だ。
夢。
その言葉で、真尋は、はっとした。
そうだ。これは、夢だ。あの繭が見せている、夢だ。この世界は、本物ではない。何もかもが本物、というこの心地よさこそが、いちばん大きな偽物なのだ。
真尋は、それに気づいた。気づいてしまった。
けれど、それでも、真尋の足は動かなかった。
分かっている。これは、夢だ。偽物だ。……でも、それがどうしたというのだろう。ここは、こんなにもあたたかい。こんなにも楽だ。目を覚ませば、また、あのつらい世界に戻るだけ。疑って、疑って、疲れ果てる、あの世界に。……だったら、このまま、夢の中にいても、いいんじゃないか。
真尋は、ぞっとした。
自分が、いま、何を考えたのか。偽物と分かっていて、それでも、そのほうが楽だから、と。夢を選ぼうとしている。……これが、この繭の、本当の怖さだった。だますのではない。偽物だと分かっていても、それでも、抜け出したくなくさせる。心を、あまく、とかして。
真尋は、必死に頭を振った。そして、あの女の子がくれた、胸のポケットの花を握りしめた。あの、あたたかい町の、本物の記憶。それを支えに、真尋は、夢の中を進んだ。
すると、少しずつ、まわりの景色が、ゆがみ、ほころびはじめた。作りものの街並みのあいだから、あの白い繭の内側が、透けて見えてくる。
*
真尋は、仲間たちを探した。
沼田は、繭の壁にもたれて、目を閉じていた。その顔は、おだやかだった。何か、いい夢を見ているらしかった。真尋が肩を揺すると、沼田は、うっすらと目を開けた。
「……ここは」と、沼田はかすれた声で言った。「夢か。……そうか。夢だったのか」
沼田は、のろのろと立ち上がった。あの、底を見つづけてきた男は、つらい現実に慣れていた。だから、夢から覚めるのも、早かった。
けれど、ハチは、ちがった。
ハチは、繭のいちばん奥で、とろけるような笑顔を浮かべて、夢の中に深々と沈み込んでいた。
「ハチ」と、真尋は呼びかけた。「ハチ、目を覚まして。それは、夢なの」
ハチは、真尋のほうを見た。けれど、その目は、真尋を見ていなかった。夢の向こうを、見ていた。
「……真尋さん」と、ハチはうっとりと言った。「見てよ。みんな、おれのことを、好きだって言ってくれるんだ。心の底から。……嘘じゃない。おべっかじゃない。本当に、おれを好きだって。……おれ、生まれてはじめて分かったよ。自分が、誰かに、本当に好かれてるって。こんなにうれしいこと、なかった」
真尋の胸が、締めつけられた。
それは、ハチがずっと、ずっと欲しかったものだった。人に本当に好かれること。そして、それを疑いなく信じられること。……この夢は、ハチのいちばん深い傷を、いちばんあまい形で満たしていた。
現実のハチは、人に好かれるために作られた。それなのに、自分が本当に好かれているのか、それとも、ただうまく取り入っているだけなのか、一生分からないまま生きていく。その孤独が、どれほど深いものか。真尋には、少しだけ分かる気がした。だからこそ、この夢は、ハチにとって、この世でいちばん残酷な、やさしさだった。
「ハチ」と、真尋は言った。「それは、夢なの。……本当じゃないの」
「分かってるよ」と、ハチは、微笑んだまま言った。その目に、うっすらと涙がにじんでいた。「夢だってことくらい、分かってる。……でも、いいんだ。だって、現実じゃ、おれはこんなふうに好かれることなんて、ない。自分の気持ちが本物かどうかも分からない、こんなおれが。……だったら、夢の中にいたっていいだろ。ここでなら、おれは、幸せなんだ」
そう言って、ハチは、また、うっとりと目を閉じた。夢の中へ、さらに深く沈んでいく。
そのとき、真尋は気づいた。ハチの体が、少しずつ透けて、繭の白い糸に溶けはじめている。
*
「悟」と、真尋は叫んだ。「ハチが。ハチが、消えちゃう」
悟が、そばに来た。その顔は、けわしかった。
「この繭は、夢を餌にして、人をとかしていくんだ」と、悟は言った。「幸せな夢を見せて、抜け出す気をなくさせて。……そして、そのまま、ゆっくりとのみ込む。ハチは、いちばん深くはまってる。このままじゃ、本当に消える」
真尋は、ハチの手をつかんだ。
「ハチ、だめ。戻ってきて。お願い」
けれど、ハチは、幸せそうに笑ったまま、真尋の手を握り返してはくれなかった。夢のあまさにとらえられて、ハチはもう、目を覚まそうとはしなかった。
真尋の手の中で、ハチの姿が、どんどん薄くなっていく。
このままでは、ハチが、あまい夢の中で、消えてしまう。
真尋には、分かっていた。ハチを、力ずくで、引きずり出すことは、できない。この夢から、抜け出せるかどうかは。ハチ自身が、この幸せを、手放せるかどうかに、かかっていた。
偽物の幸せを、捨てて。つらい現実に、戻ってくることを。ハチが、自分で、選べるかどうかに。




