第十六章 選ぶ
朝が来た。
真尋は、ほとんど眠れないまま、朝を迎えた。
窓の外では、この町のおだやかな一日が、はじまろうとしていた。誰かが井戸で水を汲んでいる。子どもたちの笑い声が聞こえる。パンを焼く、いい匂いがする。ここには、何もかもがそろっていた。真尋がずっとあきらめてきた、ふつうのしあわせな暮らしが。
真尋は、ふと想像してしまった。ここで暮らす自分を。朝はパンを焼き、昼は子どもたちと笑い、夜はあたたかい食卓を囲む。そうやって、静かに年をとっていく。誰にもおびえず、何も疑わずに。……それは、真尋がずっと、心のどこかで夢見てきた暮らしだった。
ここに残れば、もう旅をしなくていい。だまされる心配も、化けものに追われることも、人の悲しみを見せられることもない。それは、たしかにしあわせにちがいなかった。
けれど、真尋は、ふと思った。
もし、ここに残ったら。壊れた世界で、だまされ、泣いている、たくさんの人たちは、どうなるのだろう。……わたしがここで、しあわせに暮らしているあいだも、あの人たちの苦しみは、続いていく。
真尋の脳裏に、これまで出会ってきた人たちの顔が浮かんだ。ほしいものだけを与えられて、ばらばらになっていた、あの家族。誰も手をつけなかった、冷めたお茶。世界の底を、たった一人で消しつづけていた、あのトンネルの中の姿。……あの人たちを置き去りにして、自分だけここでしあわせになる。真尋には、どうしても、それができなかった。
ここのしあわせは、本物だ。それは、まちがいない。けれど、このしあわせは、壊れた世界に背を向けることで、守られているしあわせだった。外の苦しみを、見ないことにしていられる、しあわせ。……真尋には、それができなかった。目の前の苦しみを、見て見ぬふりをすることだけは、どうしてもできない。それが、真尋という人間だった。
真尋は、あの女性を訪ねた。
「……ごめんなさい」と、真尋は言った。「わたし、行きます。この旅を、続けます」
女性は、しばらく真尋を見つめた。そして、さみしそうに、けれど、おだやかに微笑んだ。
「そう」と、その人は言った。「……引き止められない、と思っていました。あなたの目には、まだ、行くべき場所が映っている」
「この町はね」と、その人は続けた。静かな声だった。「壊れた世界に疲れた人たちが、身を寄せ合って作った町なんです。わたしたちは、決めたの。もう、外のことは考えない、と。この小さなしあわせだけを守って、生きていく、と。……それも、一つの生き方です。まちがいではない。でも」
その人は、真尋をまっすぐに見た。
「あなたは、ちがう。あなたは、まだ、外の世界とつながっていたい人。まだ、誰かのために戦いたい人。……その道は、きっと、ここよりずっとつらい。それでも、あなたには、そっちのほうが似合っている」
「わたしも、昔はあなたのような人だった」と、その人は遠くを見て言った。「外の世界を、なんとかしたい、と思っていた。……でも、疲れてしまった。だから、ここに逃げ込んだ。それを恥じてはいません。人には、休む場所も必要だから。……ただ、あなたは、まだ走れる人。走りたい人。その力が、まだあなたには残っている。それを、大事にしなさい」
真尋の目に、涙がにじんだ。
その言葉で、真尋は、自分でも気づいていなかったことに、気づかされた。
自分は、ずっと逃げてきたのだ。あのまちがいの日から。二度とまちがえない、というかたい決心の中に。人を疑いつづける、その張りつめた日々の中に。……そうやって、走りつづけることで、あの取り返しのつかない罪と、まっすぐ向き合わずにすむように、してきた。
悟が、五百年、後悔という牢に閉じ込められていた、と言っていた。真尋も、同じだった。二度とまちがえない、という決心。それは、聞こえはいい。けれど、その正体は、あの罪から目をそらすための、牢だったのだ。ひとときも気をゆるめなければ、あの日のことを考えずにすむ。真尋は、そうやって自分を罰しつづけることで、かえって、あの罪と向き合うことから、逃げていた。
そして、この町のあたたかいしあわせも。もし、ここに残っていたら、それは、また別の逃げ場になっていた。あの罪を忘れて、なかったことにして、のうのうと暮らす。……それは、しあわせなようで、やっぱり逃げだった。
真尋は思った。傷は、消せない。忘れることでも、罰することでも、癒えない。ただ、抱えて生きていくしかない。その重みごと引き受けて、それでも、また誰かのために手を伸ばす。……たぶん、それだけが、傷とともに生きていく、たった一つの道なのだ。
真尋は、もう、逃げたくなかった。
車に戻ると、ハチが、めずらしくそわそわしていた。
「なあ、本当に行くのか」と、ハチが言った。「いい町だったのになあ。あんなに居心地のいい場所、そうそう、ないぜ。……おれは、正直、ちょっと残りたかった」
その、ハチの本音に、真尋は、少しだけ笑った。人に好かれ、心地よい場所に居たい。それは、ハチという存在の、いちばん深いところにある願いだった。
「うん」と、真尋は言った。「でも、行くの」
沼田は、何も言わなかった。ただ、黙ってうなずいた。あの、世界の底を見つづけてきた男は、たぶん、真尋の選択を、誰よりも分かっていた。逃げずに進む、ということの意味を。
一行が町を出るとき、あの女性と、町の人たちが、見送りに出てくれた。子どもたちが、真尋に手を振る。真尋も、手を振り返した。胸がしめつけられた。ここでの数日のあたたかさは、きっと、これからも忘れないだろう。
ひとりの女の子が走ってきて、真尋の手に、小さな花を握らせた。「また来てね」と、その子は言った。真尋は、その花を、そっと胸のポケットにしまった。この町のことを忘れないための、しるしのように。
「……行ってらっしゃい」と、あの女性が言った。「あなたの探しているものが、どうか見つかりますように」
車が、走りだす。あたたかい町が、うしろに遠ざかっていく。
車が動きだしてから、悟がぽつりと言った。
「いいのか」と、悟は言った。「後悔しないか」
「しない」と、真尋は答えた。「……たぶん、いつか、あの町のことを思い出して、少しはさみしくなると思う。でも、後悔はしない。これは、わたしが決めたことだから」
悟は、それを聞いて、ふっと笑った。
「……強いな、君は」と、悟は言った。「おれには、五百年かかったよ。後悔の牢から、外に目を向けられるようになるまで。……君は、たった数日で、それをやってのけた」
「一人じゃ、無理だった」と、真尋は言った。「あなたが、いてくれたから」
真尋は、もう振り返らなかった。まっすぐ、前を見ていた。
自分が、何のために生きるのか。誰も、教えてはくれなかった。この壊れた世界には、正しい答えなんて、どこにもない。それでも、真尋は、自分で選んだ。しあわせな逃げ場ではなく、つらくても、誰かのために手を伸ばしつづける道を。
それは、はじめて、真尋が、自分の意志で選び取った生き方だった。
西の果てに、何が待っているのか。それは、まだ分からない。けれど、真尋は、もう、前ほどこわくはなかった。たとえ、その先に、どんなつらいことがあっても、自分は、逃げずに進む。そう決めたのだから。
車は、また西へ走っていく。真尋の心の迷いは、もう晴れていた。胸のポケットの中で、あの小さな花が、ほのかにいい匂いをさせていた。




