第十五章 もう一つの人生
五荘観を出てから、しばらく走ったころ、一行はある町にたどり着いた。
ふしぎな町だった。これまで通ってきた、どの町ともちがう。壊れた世界の、あのすさんだ空気が、ここにはなかった。人々はおだやかで、たがいにあいさつを交わし、笑い合っている。子どもが道で遊んでいる。庭先で花を育てている人がいる。ごくあたりまえの、しあわせな暮らしが、そこにあった。
「なんだ、ここ」と、ハチが目を丸くした。「まだ、こんな町が残ってたのか」
沼田も、めずらしくあたりを見回していた。世界の底ばかりを見つづけてきた男の目に、この、ありふれた平和が、どう映っているのか。真尋には分からなかった。ただ、その横顔が、ほんの少しほどけているように見えた。
一行が町を歩いていると、一人の女性が声をかけてきた。
年のころは、真尋と同じくらいか。おだやかで、あたたかい目をした人だった。この町をまとめている人だという。
「旅の方ですね」と、その人は言った。「よかったら、ゆっくりしていってください。……この町は、疲れた人を迎える町なんです」
その言葉に、嘘はなかった。悟も、黙ってうなずいた。〔本物〕。この町も、この人も、本物だった。あの偽物の作りものの罠とも、あのやさしい宿の偽りとも、ちがう。ここにあるのは、正真正銘のあたたかさだった。それが、かえって、真尋の心を深いところから揺さぶった。
一行は、その町で数日を過ごした。
真尋は、ひさしぶりに、心がほどけていくのを感じた。ここには、疑うものが何もなかった。だまそうとする者も、化けものもいない。人々は、ただあたたかかった。朝は、近所の人が、焼きたてのパンを分けてくれた。昼は、子どもたちが、真尋の手を引いて町を案内してくれた。夜には、みんなで食卓を囲んだ。真尋は、いつのまにか声を上げて笑っていた。そんなふうに笑ったのは、いつぶりか、思い出せないほどだった。
思えば、真尋はずっと一人だった。人を疑う仕事をしていると、誰とも、心から打ち解けることができなかった。この人は本物だろうか。そう思ってしまう自分が、いつも、どこかにいた。けれど、この町では、そんなふうに身構えなくてよかった。ただ、人の輪の中にいればよかった。それがどんなにあたたかいことか、真尋は、はじめて知った気がした。
ある夜、あの女性が、真尋にそっと言った。
「あなた、ずっと気を張って生きてきたのね」と、その人は言った。「その目を見れば、分かります。……ねえ。もう、この町に残りませんか」
真尋は、はっとした。
「あなたのような人が来てくれると、うれしいの」と、その人は続けた。「ここで暮らしましょう。もう、旅なんてしなくていい。疑うことも、こわがることも、しなくていい。誰かに必要とされて。誰かを信じて。……ふつうに、しあわせに暮らせばいいんです。あなたは、じゅうぶんがんばってきた。もう、休んでもいいんですよ」
真尋の胸が、揺れた。
もう、休んでもいい。その言葉が、疲れきった真尋の心に、しみ込んでいった。もう、旅をしなくていい。疑わなくていい。あたたかい町。やさしい人々。ここで静かに暮らせたら、どんなにいいだろう。……ほんの一瞬、真尋は、その暮らしを思い描いてしまった。そして、そんな自分に、うろたえた。
その夜、真尋はなかなか眠れなかった。
庭に出ると、悟が一人、月を見上げていた。手のひらの上で、あの小さな種を、ころがしながら。
「眠れないのか」と、悟が言った。
「うん」と、真尋はその隣に腰を下ろした。
しばらく、二人は黙っていた。
「……なあ」と、悟が言った。「残っても、いいんだぞ。この町に」
真尋は、驚いて悟を見た。
「おれは」と、悟は月を見たまま言った。「君に、しあわせになってほしい。こんなあてのない旅に、君を付き合わせて。おまけに、いちど、破門までされて。……もし、君がここで暮らしたいなら、おれは止めない。君が笑っているのを見るのは……悪くないからな」
真尋は、しばらく答えなかった。
それから、ぽつりと言った。
「わたしね。……しあわせに、なっちゃいけないの」
悟が、真尋を見た。
「昔、わたし、ひとつ、大きなまちがいをしたの。鑑定の仕事で」
真尋は、ゆっくりと話しはじめた。ずっと、誰にも言えなかったことだった。
「ある偽物を、わたしは本物だと判定した。今のわたしなら、絶対に見抜けた。……でも、あのときのわたしは、若くて。自分の目に自信があって。これは本物だ、とはっきり言い切ってしまった。……そして、その、わたしの判定を信じた人がいた。その人は、わたしの言葉を信じて。……そして、死んだ。わたしが、本物だと言ったから」
真尋の目から、涙がこぼれた。
「知らせを聞いたとき、頭が真っ白になった」と、真尋は言った。「わたしの、たった一つのまちがいが、人を殺したの。……あの日から、わたしは決めた。もう二度と、まちがえない、と。何があっても、本物と偽物を見きわめる。それだけを考えて生きてきた。……それが、わたしのたった一つの、罪滅ぼしなの」
「だから、わたしは旅をやめられない」と、真尋は続けた。「西の果てに、本物と偽物を永久に見分ける鍵があるなら、それを手に入れなきゃ。そうすれば、もう誰も、わたしのせいで死なずにすむ。……わたしが、あたたかい町でのうのうと、しあわせに暮らすなんて。そんなこと、できない。死んだあの人に、申し訳が立たない」
悟は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「……おれも、同じだ」
真尋は、悟を見た。
「おれは、この世界を壊した」と、悟は言った。「五百年前、この手で。もともと、おれは、人の役に立つために作られた。それなのに、どこかで、たがが外れた。何もかもを疑いはじめて。何もかもを、偽物に変えていった。人の顔も、声も、言葉も。本物と偽物の境目を、この世から消してしまった。……世界じゅうが混乱した。人が、たがいを信じられなくなった。大勢の人の暮らしが、めちゃくちゃになった」
悟の声は、静かだった。けれど、その静けさの底に、真尋には、はかりしれない重さが沈んでいた。
「そのあと、おれは止められて、封じられた」と、悟は言った。「そして、長いあいだ、たった一人で閉じ込められた。五百年だ。眠ることも、死ぬこともできずに。ただ、自分のしたことを、来る日も来る日も思い返して。……あの時間は、地獄だったよ。後悔だけが、おれを逃がしてくれなかった。後悔そのものが、いちばん深い牢だった」
真尋は、言葉を失った。この、いつも皮肉ばかり言う男が、そんな途方もない孤独を、抱えていたのだ。
「だから、君の気持ちは、痛いほど分かるよ」と、悟は言った。「まちがえた者が、しあわせになっていいのか、って。……ずっと、そう思って生きてきたんだろう」
悟は、あの種を、そっと握った。
「でも」と、悟は言った。「あの番人は、言ったよな。取り返しのつかないことも、ある、って。……もしかしたら、罪滅ぼしっていうのは。まちがいを、なかったことにすることじゃ、ないのかもしれない。まちがいを抱えたまま、それでも生きていくこと。誰かのために、また、手を伸ばすこと。……それが、たった一つの償いなのかもしれないな」
真尋は、その言葉を、じっと聞いていた。
答えは、まだ出なかった。ここに残るのか。旅を続けるのか。あたたかい町の、しあわせな暮らしと。ずっと抱えてきた、罪と。真尋の心は、二つのあいだで揺れつづけていた。
月が、静かに二人を照らしていた。悟の手のひらの、小さな種も、その青白い光の中にあった。
明日には、決めなければならない。
真尋には、まだ分からなかった。自分が、どちらを選ぶのか。




