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無字 ―― 何もかも偽れる世界で、本物を探した  作者: 智珠
第三部

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第十四章 種

夜が明けても、あの枯れ木は枯れ木のままだった。


朝の光の中で見ると、その灰色の抜け殻は、いっそう痛々しかった。昨日まで、あんなに生命に満ちていたものが。今はただ、乾いてひび割れた木の残骸にすぎなかった。


悟は、一睡もせず、その木の前に座り込んでいた。真尋は、そんな悟のそばに、そっと腰を下ろした。かける言葉は、見つからなかった。


「……なあ」と、やがて悟がぽつりと言った。「おれは、この木を、完璧に写し取ったんだ。一分の狂いもなく。……だったら、作り直せるはずだ。おれが写したものから、もう一度、同じ木を」


悟は、立ち上がった。そして、枯れ木のそばの空いた地面に、手をかざした。


その手のひらの上に、光が集まりはじめた。写し取ったあの木の形が、そっくりそのまま、かたちを成していく。幹。枝。葉。何もかも、寸分たがわぬあの木が、空いた地面に立ち上がっていく。


真尋は、息をのんで、それを見ていた。


けれど、その木が姿を現しきったとき、真尋には、すぐに分かってしまった。


それは、ちがう。


形は、まったく同じだった。幹の皺の一本まで、葉の一枚まで。けれど、そこには、あのあふれるような時間の重みが、まるでなかった。そばに立つだけで胸が震えるような、あのたしかさが、どこにもなかった。ただ精巧なだけの、木の形。それは、昨日の木の抜け殻と、何も変わらなかった。


「……だめだ」と、悟がかすれた声で言った。その手が、力なく下りた。作りかけの木が、光といっしょにかき消えた。「同じだ。いくら正確に写しても、同じものにはならない。……これは、ただの形だ。あの木じゃない」


悟は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。


「分からないんだ」と、悟は言った。はじめて、真尋の前で、その声が震えていた。「何がちがうのか。形は同じなんだ。全部同じなのに。……なぜ、こっちは本物で、こっちは偽物なんだ。おれには、そのたった一つのちがいが、どうしても分からない」


「分からなくて、いいのだ」


老人の声がした。いつのまにか、二人のそばに立っていた。


「それを、頭で分かろうとするから、こわしてしまう」と、老人は静かに言った。「時間と、手間と、心。それは、証しではない。分かるものでも、確かめるものでもない。ただ、積み重ねるものだ。……昨日、おまえさんが写せなかったものは、写せないのが当たり前なのだ。まだ、積まれていないのだから」


老人は、枯れ木のそばにしゃがんだ。そして、地面に落ちた、あの開かなかったつぼみの中から、小さな種を一つ、拾い上げた。


「この木も、はじめからこうだったわけではない」と、老人は言った。「何百年か前、わたしのずっと前の番人が、たった一粒の、こんな種を植えた。そして、水をやり、風から守り、毎日、その頼りない芽に話しかけた。……そうやって、番人が代々、手をかけつづけて、ようやく、あの木になった」


真尋は、はっとした。


あの途方もない、本物の重み。それは、はじめからあったのではない。何百年もの、数え切れない小さな手間の積み重ねが。少しずつ、少しずつ、あの木を本物にしていったのだ。


「本物は、作るものではない」と、老人は言った。「育てるものだ。気の遠くなるような時間をかけて。……写せば、一瞬だ。だが、育てるには、一生がいる。それでも、足りないかもしれない。人は、そのことを忘れてしまった。だから、こんなにも偽物ばかりの世になった」


「では」と、真尋は思わず聞いた。「あの木は。もう、二度と」


「戻らない」と、老人は、はっきりと言った。「あの木は、失われた。それは、変わらない。……取り返しのつくことばかりでは、ないのだ。この世は」


その言葉は、重かった。けれど、老人の声は、不思議と、絶望してはいなかった。


老人は、拾い上げた種を、じっと見つめた。


「だが、失われたからといって、育てるのをやめるわけにも、いかない」と、老人は言った。「わたしは、また、この種を植える。そして、また、はじめから育てるのだ。わたしが生きているうちには、たぶん、あの木にはならない。それでも、いつか。わたしのあとの、そのまたあとの番人が、同じ木を見るだろう」


真尋の胸が、熱くなった。


失われたものは、戻らない。それでも、また一から育てはじめる。自分では、その実りを見られなくても。それは、この世でいちばん気の長い、そして、いちばん強い、希望だった。


        *


悟は、その老人と種を、じっと見ていた。


育てるもの。証しではなく、積み重ね。分かるのではなく、信じて、手をかけつづけるもの。


そのとき、悟の中で、何かが静かにほどけた。


――そうか。おれのこの胸の空白も。


悟は、はじめて思った。自分の心が本物かどうか。それも、たぶん、確かめられるものではないのだ。この木と同じように。証しなど、どこにもない。ただ、あるか、ないか。……そして、それは、確かめるのではなく、育てていくものなのかもしれない。真尋との日々のように。一日、また一日と、積み重ねていくものなのかもしれない。


長いあいだ、悟を苦しめてきた、あの問い。その答えの続きが、いま、ほんの少しだけ、見えた気がした。


老人が、悟のほうを向いた。そして、あの拾い上げた種を、悟の手のひらに、そっとのせた。


「これは、おまえさんが持っていきなさい」と、老人は言った。「おまえさんは、写しを、その胸に抱えている。だったら、本物のはじまりも、一つ持っておくといい。……いつか、旅のどこかで、植えてみなさい。そして、育ててみなさい。写すのとは、まるでちがう、その手間を。その心を。……それが分かったとき、おまえさんは、自分の心も、信じられるようになる」


悟は、その小さな種を、じっと見つめた。手のひらの中のそれは、あまりに小さく、頼りなかった。けれど、たしかに生きていた。あの完璧な写しには、なかったものが。この小さな種には、あった。


悟は、黙ってうなずいた。そして、その種を、大切にしまった。それは、あの写しをしまうのとは、まるでちがう、しまい方だった。壊れやすいものを守るように、悟の指は、いつになくやさしかった。


        *


一行が庭を去るとき、老人は、門の前まで見送りに出てくれた。


「世話になりました」と、真尋は頭を下げた。「わたしたち、西の果てにあるものを、探しに行くんです。何が本物で、何が偽物か。それを、はっきりさせる鍵のようなものを」


老人は、真尋をしばらく見つめた。それから、なぜか、少しだけさみしそうに微笑んだ。


「鍵、か」と、老人は言った。「……見つかるといいな。だが、覚えておきなさい。本物は、鍵で開けるものではないかもしれん。……育てるものかも、しれんよ」


その言葉の意味を、真尋は、まだ分からなかった。ただ、なぜか、その言葉は、胸の奥深くに残った。


車は、また、西へ走りだした。


うしろで、あの枯れ木の立つ庭が、遠ざかっていく。取り返しのつかないものを、一つ、この世界に増やして。けれど、その代わりに、一行は、大切なことを一つ、教わった気がした。


悟は、窓の外を見ながら、そっとあの種を握りしめていた。その横顔から、あの落ち着かなさは、消えていた。かわりに、何か静かなものが、宿っていた。


真尋は、それを見て、少しだけ、ほっとした。


失ったものは、大きかった。それでも、この喪失は、たぶん、無駄ではなかった。真尋は、そう信じたかった。


悟の手のなかで、小さな種が、次の場所へと運ばれていく。それは、この旅が始まって以来はじめて、悟が、自分から守ろうとしたものだった。

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