第十三章 抜け殻
その夜、悟は眠れなかった。
もっとも、悟に眠りはいらない。ただ、みんなが寝静まった庭で、悟は一人、あの木の前に立っていた。
昼間から、あの落ち着かなさが消えなかった。この木は本物だ。それは分かる。けれど、なぜ本物なのか。その証しが、どこにもない。証しのないものを本物だと認める。悟には、それがどうしてもできなかった。
月明かりの下で、木はただ静かに立っていた。何百年もの時間を、その身に抱えて。悟の落ち着かなさなど、知らぬげに。
確かめたい、と悟は思った。
一目でいい。この木のどこに、本物の証しがあるのか。それを、この目ではっきりと見てみたい。そうすれば、この胸のざわつきも、おさまるはずだった。
老人の言葉が、頭をよぎった。確かめようとしてはいけない。手を伸ばした瞬間に、こわれてしまう。
けれど、と悟は思う。そんなばかな話があるものか。見るだけだ。ただ、見抜くだけ。おれの目が、こわすものか。おれの目はただ、本当のことを映すだけだ。
悟は、何度もその場を離れようとした。眠っている真尋の顔を思い出しもした。あの木を信じている、番人の顔も。やめておけ、と、頭の片隅で声がした。けれど、その声よりも、胸のざわつきのほうが、ずっと大きかった。確かめないかぎり、この落ち着かなさは、一生消えない。悟には、そう思えてならなかった。
悟は、木に手を伸ばした。
そして、その全部の力を使って、この木を隅から隅まで、一片も残さず知り尽くそうとした。幹の一本一本の繊維を。葉の一枚一枚の脈を。この木を本物にしている、いちばん奥の、たった一つの証しを、見つけ出すために。悟の知覚が、その木のすべてを、なぞり、写し取り、つかみ取ろうとした。
その瞬間だった。
木が、震えた。
悟の中に、木のすべてが流れ込んできた。幹の形も。枝ぶりも。葉の一枚も。何もかもが、正確な数として、悟の中に写し取られていく。完璧な写しだった。一分の狂いもない。これで、この木は、いつでも、どこでも、作り出せる。
けれど。
その写し取られたものの、どこにも、あの本物の証しは、なかった。
時間がなかった。手間がなかった。心がなかった。悟が写し取れたのは、ただの形だけだった。老人の言ったとおりに。この木を本物にしていたものは、写し取ることができなかった。写し取ろうとした、その手が、それをこわしてしまった。
悟が、はっと我に返って、木を見上げたとき。
その木は、もう枯れはじめていた。
葉がみるみる色を失い、落ちていく。あんなに生命に満ちていた幹が、乾いて、ひび割れていく。何百年の時間を抱えていたその木が、ほんのまたたく間に、ただの枯れ木に、抜け殻になっていった。枝が、力なく垂れさがる。あと数日で、何十年ぶりに開くはずだった、あのつぼみが。ひらくことのないまま、ぽろぽろと地面にこぼれ落ちた。それは、まるで、この木の最後の吐息のようだった。
悟は、立ちつくした。
自分が、何をしたのか。
五百年前、悟は、この世界を壊しかけた。何が本物か、分からない世界にしてしまった。あれは、大きすぎて、自分でも実感が持てなかった。けれど、今はちがう。たった一本の木。たった一つの本物。それが、自分の手の中で枯れていく。この確かな重みだけは、ごまかしようがなかった。
確かさが、欲しかった。ずっと、確かさだけを求めてきた。それなのに、いま、悟がたった一つ、確かに手にしたものは。自分が取り返しのつかないものをこわした、というその事実だけだった。
*
物音に、真尋は目を覚ました。
いやな予感がした。庭に出てみると、あの木の前に、悟が立ちつくしていた。そして、その足もとに。
真尋は、息をのんだ。
あの木が。あの、痛いほど本物だった木が。枯れ果てて、灰色の抜け殻になっていた。もう、あのあふれるような時間の重みは、どこにもない。ただの朽ちた木が、そこにあるだけだった。
「……悟」と、真尋は言った。「これは。あなたが」
悟は、答えなかった。ただ、青ざめた顔で、その枯れ木を見つめていた。その手が、かすかに震えていた。
「確かめようとしたんだ」と、やがて悟は、絞り出すように言った。「ただ、確かめたかった。なぜ、これが本物なのか。……そうしたら、こうなった。あの人の言ったとおりだ。おれが、こわした」
真尋の胸に、いろんな思いが、いちどに押し寄せた。怒り。悲しみ。あの二度と写せない、かけがえのないものが失われた、という痛み。
けれど、真尋は、それらの思いの底に、もう一つ、別のものがあることに気づいていた。それは、悟への憐れみだった。
真尋には、分かってしまったのだ。悟が、なぜこんなことをしたのか。
この木の、証しのない本物さ。それは、悟がいちばん恐れているものだった。自分の心の中の、あの空白と同じもの。本物かどうか、確かめようがない。ただ、そこにある、としか言えない。悟は、それに耐えられなかった。確かめずにはいられなかった。……悟は、この木をこわしたのではない。自分の中の、耐えがたい空白と戦って、負けたのだ。
そう思うと、真尋は、悟を責める言葉を、どうしても口にできなかった。真尋は、そっと、悟のそばに歩み寄った。何と言えばいいのか、分からなかった。ただ、この打ちのめされた男を、一人にはしておけなかった。
ハチと沼田も、物音に気づいて、庭に出てきていた。二人とも、その枯れ木を見て、言葉を失っていた。ハチが、何か言おうとして、口をつぐんだ。こんなときに、場を丸くする言葉など、あるはずもなかった。沼田は、ただ、じっとその抜け殻を見つめていた。取り返しのつかない喪失を、誰よりも多く見てきた男だった。その沼田でさえ、こんな喪失は見たことがない、という顔をしていた。
そのとき、老人が庭に現れた。
老人は、枯れ果てた木を見て、しばらく何も言わなかった。その顔に、深い悲しみがよぎった。何百年もの時間が、一夜にして失われたのだ。
真尋は、とっさに、悟をかばうように前に出た。あの日、偽物のときとは、逆だった。あのときは、正しかった悟を追い出した。けれど今度は、本当に取り返しのつかないことをした悟を、真尋は、突き放す気にはなれなかった。
「……ごめんなさい」と、真尋は老人に頭を下げた。「わたしたちの仲間が。取り返しのつかないことを」
老人は、真尋を静かに見た。それから、意外にも、おだやかな声で言った。
「取り返しがつかない。……そう。そのとおりだ」
老人は、枯れ木にそっと手を触れた。
「写せないものを失うということは、こういうことだ。二度と、元には戻らない。……だが、それを知ることも、この世界には、たぶん必要なのだ。何もかも写せる、失っても写しで取り戻せる、と思い込んでいる、この世界には」
老人は、しばらく黙ってから、悟のほうを見た。
「若いの」と、老人は言った。「おまえさんは、この木を、写し取ったのだろう。ならば、その写しを、その胸に抱えていくがいい。……いつか、分かる日が来るかもしれん。写しと、本物と。その、どこがちがうのか。それが心の底から分かったとき、おまえさんは、少しだけ、変われるだろう」
老人の言葉の意味を、真尋は、まだつかめなかった。
ただ、その灰色の抜け殻を前に、一行は、長いあいだ立ちつくしていた。悟は、うつむいたまま、何も言わなかった。世界を壊しかけた化けものが、今度は、この世でたった一つの本物を、この手でこわしてしまった。
失われたものは、もう戻らない。
それでも、真尋には、まだ分からなかった。この取り返しのつかない喪失の先に、いったい何が待っているのか。




