第十二章 うつせない木
あの偽物との一件から、しばらく走ったころ、一行はそれまでとはまるでちがう場所にたどり着いた。
高い塀に囲まれた、古い庭園のような場所だった。門をくぐると、外の世界の喧噪が、うそのように消えた。壊れかけた広告も、作りものの笑顔も、耳ざわりな呼び込みの声も、ここには一つもない。ただ、静かだった。木々の葉が風にこすれる音。どこかで水の流れる音。それだけが、この庭の、音のすべてだった。
真尋は車を降りて、しばらく、その静けさに立ちつくした。
ふしぎな感じがした。うまく言えないが、この場所には、何か、たしかなものが満ちていた。壊れた世界をずっと旅してきた真尋には、その、たしかさが、痛いほどなつかしく感じられた。
「……なんだか、変な感じだな」と、ハチがめずらしく、小さな声で言った。いつもの軽口が、ここではなぜか、出てこないらしい。沼田も、黙ってあたりを見回していた。あの、底を見つづけてきた男の目が、ほんの少しやわらいでいるように、真尋には見えた。
「ようこそ、おいでくださった」
声のほうを見ると、一人の老人が立っていた。
ずいぶん年老いた人だった。けれど、その背筋はまっすぐで、その目は深く澄んでいた。長い長い時間を、この静かな場所で一人、過ごしてきた人の目だった。慌てるということを、もう何百年も忘れてしまったような、ゆったりとした佇まいだった。
「遠いところを、よく来られた」と、老人は言った。「この庭には、めったに客は来ない。……見たいのだろう。あれを」
老人は、庭の奥へと一行を案内した。
庭のいちばん奥に、一本の木が立っていた。
真尋は、その木を一目見て、息をのんだ。
大きな木だった。けれど、大きさに驚いたのではない。その木からは、何か、途方もない時間の重みのようなものが、静かにあふれ出していた。幹の深い皺の一つ一つに。枝の複雑な曲がりの一つ一つに。気の遠くなるような長い年月が、刻み込まれていた。
その木の前に立つと、真尋の胸の奥の、ずっと張りつめていた何かが、すっとほどけていくようだった。
思えば真尋は、これまでの人生のほとんどを、疑うことに使ってきた。目に映るものは本物か。この声は、この顔は、作りものではないか。一瞬たりとも、気をゆるめられなかった。けれど、この木の前でだけは、真尋は、何も疑わなくてよかった。ただ、そこにある本物を、まっすぐに受け取ればよかった。それがどんなに楽なことか、真尋は、はじめて知った。
「この木はね」と、老人は静かに言った。「もう何百年も、この庭で生きている。わたしも、その前の番人も、そのまた前の番人も。みな、ただこの一本の木を、手で守りつづけてきた」
真尋は思わず、その木に手を伸ばしかけて、止めた。触れるのが、おそれ多いような気がした。
「あなたは、鑑定士だそうだね」と、老人が言った。真尋は驚いた。名乗った覚えはなかった。「本物と偽物を見分ける。……さぞ、疲れただろう。何もかもを疑いつづける暮らしは。……では、聞くが。この木は、本物かね」
真尋は、木を見上げた。
そんなこと、確かめるまでもなかった。この木は、本物だった。真尋の長年の仕事の、どんな技術もいらなかった。ただそこに立っているだけで、この木は、痛いほど本物だった。
「……本物です」と、真尋は言った。「こんなに本物のものを、わたしは、はじめて見ました」
老人は、静かに微笑んだ。
「そうだろう。……そして、この木は、この世でたった一つだけ、どうやっても写せないものなんだ」
「今の世では」と、老人は続けた。「どんなものでも、写しが作れる。人の顔も。声も。街も。何もかも、そっくりに写し取れる。……だが、この木だけは、写せない」
「どうして、ですか」と、真尋は聞いた。
「写せるのは、形だけだ」と、老人は言った。「この木の姿かたちなら、そっくりに作れるだろう。だが、この木を、この木たらしめているのは、姿ではない。……この幹にしみ込んだ、何百年もの時間だ。雨の日も、風の日も、ここでじっと立ちつづけてきた、その日々だ。そして、代々の番人が、この木に注いできた、手のぬくもりだ。時間と、手間と、心。それだけは、どうやっても写せない。写した瞬間、ただの抜け殻になる」
真尋の胸が、震えた。
時間と、手間と、心。それは、真尋がずっと探していたものの、答えのような気がした。何が、本物を本物にするのか。それは、どれだけ精巧か、ではなかった。どれだけの時間と心が、そこに注がれたか、だったのだ。
「人はね」と、老人は、遠くを見るように言った。「近ごろ、この木を見に来なくなった。写しで事足りると思っている。……だが、たまに、ここへたどり着く人がいる。壊れた世界に、疲れ果てて。そういう人は、この木の前で、みな、泣く。本物というものが、まだこの世にあったのだと。その手ざわりを、思い出して」
真尋には、その気持ちが、痛いほど分かった。
*
悟だけは、その木の前で、落ち着かなかった。
判定をしてみた。木の幹。〔本物〕 枝。〔本物〕 葉の一枚一枚。〔本物〕 たしかに、何もかもが本物だった。それは、悟にも分かる。
けれど、悟には、それが気に入らなかった。
なぜ、これが本物なのか。その理由が、悟にはつかめなかった。いつもなら、悟は継ぎ目を探す。ほころびを見つける。そうやって、本物か偽物かを確かめる。けれど、この木はちがった。ただ、本物だ、としか言いようがない。その根拠が、どこにもない。
悟は、それがどうにも、気持ちが悪かった。
証しのない本物。それは、悟にとって、いちばん認めがたいものだった。なぜなら、と悟はふと思う。それは、あの、自分の胸の中の空白と、よく似ていたからだ。本物かどうか、確かめようがない。ただ、そこにある、としか言えない。この木は、悟がいちばん見たくないものを、目の前に突きつけてくるようだった。
確かめたい、と悟は思った。この木の、どこに本物の証しがあるのか。それを、この目で、この手で、はっきりと確かめたい。ばらばらにしてでも。そうすれば、この落ち着かない気持ちも、消えるはずだった。
そのとき、老人が、悟をじっと見た。
「やめておきなさい」と、老人は静かに、けれど、はっきりと言った。「確かめようとしてはいけない。……この木の本物さは、確かめるものではない。ただ信じて、そばにいるものだ。確かめようと手を伸ばした、その瞬間に、それはこわれてしまう」
悟は、黙った。老人の言葉は、まるで、悟の心の中を見透かしているようだった。それでも、その胸の中の落ち着かなさは、消えなかった。むしろ、確かめるな、と言われるほど、確かめたい、という思いは、静かに強くなっていった。
*
その夜、一行は、その庭で休ませてもらうことになった。
老人が言うには、この木は、何十年に一度だけ、花を咲かせるのだという。そして、その時が、ちょうど近づいていた。あと数日で、この木は、何十年ぶりかの花を開く。
「めったに見られるものではない」と、老人は言った。「あなたがたは、運がいい」
久しぶりに、一行はおだやかな夜を過ごした。追われることも、だまされることもない、静かな夜だった。ハチはめずらしく、黙って庭の池を眺めていた。沼田の顔からも、いつものこわばりが消えていた。この壊れた世界にも、まだ、こんな場所が残っていたのだ。
真尋は、月明かりの下で、その木を見上げた。
こんなにも静かで、こんなにも確かなものが、この世にまだあったのだ。壊れて、偽物だらけになったこの世界にも。真尋の胸に、久しぶりに、あたたかいものがこみ上げてきた。この旅の果てに探しているものも、もしかしたら、こんなふうに、静かで確かなものなのかもしれない。真尋は、そんなことを思った。
けれど、その月明かりの木陰で、悟だけが、まだその木を、落ち着かない目で見つめていた。真尋は、そのことに気づいていなかった。
その木が、あと数日で、二度と取り返しのつかないことになるとも、知らずに。




