第十一章 まっすぐな目
女将だったものが、ゆっくりと近づいてきた。
のっぺりとした顔の、どこにも目はないのに、真尋には、見られていると分かった。逃げ場はなかった。ハチが、真尋をかばうように前に出る。沼田が身がまえる。けれど、こんなものに、人の手でかなうはずもなかった。じりじりと、その化けものが間合いを詰めてくる。あたたかかったはずの部屋の空気が、氷のように冷たくなっていた。
真尋は、輪を握りしめ、ただ祈りつづけていた。
悟。お願い。あなたが正しかった。だから、どうか。
そのとき、宿の壁が、音を立てて、外側から砕けた。
夜の風が、どっと吹き込んでくる。その崩れた壁の向こうに、一つの人影が立っていた。逆光で、顔は見えない。それでも、真尋には、一目で分かった。
「ずいぶん探したよ」と、その声が言った。「こんなふざけた宿に、入り込んでるとはね」
悟だった。
真尋は、息をのんだ。全身から、力が抜けそうになった。もう二度と、聞けないと思っていた声だった。
悟は、崩れた壁をまたいで、中に入ってきた。そして、あののっぺりとした顔の化けものを、まっすぐに見すえた。あの、何もかもを見抜く目で。数日前まで、真尋がいちばんこわいと思っていた、あの目で。
「〔偽〕」と、悟は静かに言った。「隅から隅まで、ぜんぶ〔偽〕だ。……このあたたかい光も。うまそうな匂いも。やさしい言葉も。何もかも、作りものさ」
悟のその一言が、まるで呪いを解くように。宿の中のあたたかい光が、うそのように消えていった。湯気も。料理も。やさしさも。ぜんぶ幻のようにかき消えて。あとに残ったのは、冷たい、がらんとした廃屋の暗がりだけだった。
そして、真尋には、あらためて分かった。悟がいれば、たった一言で、こんなにも世界の見え方が変わる。何が本物で、何が偽物か。あれほど真尋を苦しめていた問いに、この男は、いともたやすく答えを出してしまう。
*
正直に言えば、悟は、そう遠くへは行っていなかった。
行け、と言われた。二度と来るな、とも。あんな目で。あの輪の痛みとともに。だから、悟も、はじめは本気で、行くつもりだった。こんな恩知らずな連中、放っておけばいい、と。誇りだって、あった。
それなのに、悟の足は、どうしても、この一行から離れられなかった。少し後ろを。姿の見えない、ぎりぎりの距離を。ずっと、ついてきていた。自分でも、みっともない、と思いながら。
なぜ、と自分でも思う。あれだけひどく、追い出されておいて。
けれど、あの夜、道を歩きながら、悟は気づいてしまったのだ。この胸の、締めつけられるような痛みが、本物だということに。生まれてはじめて、自分の心の中に、〔本物〕と、はっきり書いてあるものを見つけたのだ。それは、真尋を放っておけない、という気持ちだった。
五百年、あの暗闇で探しつづけて、見つからなかったもの。自分の心が本物かどうか、という問い。その答えの、はじめのひとかけらを、皮肉なことに、悟はいちばんつらいときに見つけた。追い出されて、はじめて。この気持ちだけは、まちがいなく本物だと、分かったのだ。
そんなものを見つけてしまったら、もう、離れられるはずがなかった。
だから、あの輪が、真尋の呼び声を伝えてきたとき、悟は迷わなかった。すぐに駆けつけた。
化けものは、悟のほうを向いた。せっかくの獲物を横取りされて、怒っている。悟は、鼻で笑った。
「悪いね」と、悟は言った。「そいつらは、おれの連れなんだ」
化けものが襲いかかってきた。悟は、それを難なくいなした。この程度のまがいものに、後れをとる悟ではなかった。ひとしきり暴れたあと、その化けものは、かなわないと悟ったのか、うめき声を残して、夜の闇へ逃げ去っていった。
静けさが、戻ってきた。
悟は、振り返った。そこに、真尋が立っていた。泣きそうな顔で。悟を、まっすぐに見て。
*
悟と、目が合った。
その、まっすぐな目を、真尋はもう、こわいとは思わなかった。
真尋は、駆け寄って、そして、悟の前で立ち止まった。言いたいことは、山ほどあった。それなのに、いざとなると、言葉が出てこない。
「……ごめんなさい」
やっと、それだけを言った。
「あなたは、正しかった。三度とも。……それなのに、わたしはあなたを追い出した。あんなひどいことを言って。あなたに、あの輪まで使って。……本当に、ごめんなさい」
涙があふれて、止まらなかった。
悟は、しばらく黙っていた。それから、いつもの皮肉っぽい調子で言った。
「まったくだよ。おかげで、ひどい目にあった」
けれど、その声は、少しも怒っていなかった。むしろ、どこか照れくさそうだった。
「でも」と、真尋は顔を上げた。「どうして、戻ってきてくれたの。あんなにひどいことを、したのに」
悟は、少し目をそらした。
「……さあね」と、悟は言った。「気が変わったんだ。それだけさ」
それが、この素直じゃない男の、精いっぱいの答えなのだと、真尋にはなんとなく分かった。だから、それ以上は聞かなかった。
「わたしね」と、真尋は言った。涙をぬぐいながら。「あの罠の中で、やっと分かったの。人を疑わないことが、やさしさだと思ってた。でも、それだけじゃ、だめだった。わたしのやさしさは、あなたの目がなかったら、ただ、みんなを危ない目にあわせるだけだった」
悟は、黙って聞いていた。
「でも」と、真尋は続けた。「あなたの目も、たぶん、それだけじゃ、だめなんだと思う。何もかも、偽だ、本物だって、切り分けるだけじゃ。……だから。あなたの目と、わたしの心と。両方ないと、だめなんだと思う。一人ずつじゃ、足りないの」
悟は、少しおどろいたように、真尋を見た。それから、ふっと、口もとをゆるめた。
「……なるほどね」と、悟は言った。「まあ、悪くない考えだ」
真尋は、手の中の、あの輪を見た。悟を縛る輪を。悟を傷つけた輪を。
「これ」と、真尋は言った。「返す、と言ったら。あなたは、どうする」
悟は、おどろいたように真尋を見た。それから、首を横に振った。
「よせよ」と、悟は言った。「それは、持っておけ。……おれは化けものだ。いつ暴れ出すか、分からない。君がそれを持っているから、おれは安心して、そばにいられるんだ」
その言葉に、真尋は胸を突かれた。
この輪は、悟を縛るためのもの。それなのに、悟は、その輪があるからそばにいられる、と言う。縛るものが、つなぐものになっている。
けれど、と真尋は、心のどこかで思った。それは、少しさみしい言い方でもあった。信じているからそばにいる、のではなく。止められるからそばにいられる、だなんて。……いつか。この輪がなくても、おたがいを信じられる日が、来るのだろうか。真尋には、まだ分からなかった。
真尋は、うなずいた。そして、輪をそっとポケットにしまった。今度は、悟を止めるためではなく、悟との細い糸を、手放さないために。
「帰ろう」と、真尋は言った。「みんな、待ってる」
崩れた壁の外で、リュウがヘッドライトを点滅させていた。まるで、おかえり、と言うように。ハチが、涙ぐみながら、へらへらと笑っている。
「いやあ、心配したんだぜ、おれは」と、ハチが言った。さっきまでの、しおれた様子は、どこへやら。「まあ、あんたが戻ってくるって、信じてたけどな」
「よく言うよ」と、悟が、あきれたように言った。それでも、その声は、どこかうれしそうだった。
沼田は、いつものように黙って。それでも、その口もとが、ほんの少しゆるんでいた。去っていく悟の背中を見送っていた、あのときの暗い目の色は、今はもう、なかった。
悟が、戻ってきた。
一行はまた、そろって西へ向かう。行きに失ったものと、帰りに取り戻したものとを、それぞれの胸に抱えて。以前より少しだけ、たがいのことを知っている一行になって。
真尋はもう、悟のまっすぐな目を、こわがらなかった。その目が、これからも、たくさんのつらい真実を突きつけてくるのだと分かっていても。それでも、一人でやさしい嘘にのみ込まれるよりは、ずっといい。
そう思えるように、なっていた。
車は、夜明けの近い道を、西へ走っていく。まだ、遠い。西の果ては、まだ、ずっと遠い。それでも、今度こそ、五人と一台、そろって。誰ひとり、欠けることなく。




