表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無字 ―― 何もかも偽れる世界で、本物を探した  作者: 智珠
第二部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/37

第十章 やさしい場所

悟が去ってから、車の中はずっと静かだった。


誰も口をきかなかった。ハチさえ、めずらしく黙り込んでいる。沼田はいつものように、窓の外を見ていた。真尋は膝の上で、あの輪を握りしめたまま、動けなかった。


いつも憎まれ口をたたいていた声が、隣にない。それだけで、車の中がこんなに広く、こんなに寒く感じられるとは、真尋は思ってもみなかった。悟のいた席は、ただ、からっぽだった。


自分が何をしたのか。考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。


悟は三度とも正しかった。それを、この目で見た。それなのに、自分はあの人を追い払ってしまった。正しかった、たった一人の仲間を。


でも、と真尋は思う。今さら、どうすればいいのか。あんなにひどいことを言って追い出しておいて、どんな顔をして、戻ってきてなんて言えるだろう。輪を握る手に、力がこもった。


車はあてもなく、夜の道を走っていた。リュウだけが変わらず、静かにみんなを運んでいる。


やがて、道の先に、明かりが見えた。


暗い道の途中に、その建物はぽつんと建っていた。小さな宿のようだった。窓から、あたたかそうな光がこぼれている。看板には、旅の方どうぞお休みください、と書いてあった。


こんな時間に、こんな場所に。真尋は一瞬、ためらった。仕事柄なら、まず疑ってかかるところだ。


けれど、疲れていた。心も体も。そして何より、あのあたたかそうな光が、いまの真尋にはたまらなく恋しかった。ひどく傷ついた夜には、その傷につけ込むように、やさしいものが、いちばん甘く見える。


「……少し、休みましょう」と、真尋は言った。


中に入ると、年配の女将が、にこやかに迎えてくれた。


「まあ、こんな夜遅くに。さぞお疲れでしょう」と、女将は言った。「さあ、あたたかいものでも召し上がって。何も心配いりませんよ」


その声は、やさしかった。真尋のこわばっていた心が、少しずつほどけていく。


食卓には、湯気の立つ料理が並んでいた。女将は、真尋たちの話を、根気よく聞いてくれた。真尋がぽつりぽつりとこぼす言葉に、いちいち、深くうなずいて。まるで、真尋の心の中を、はじめからぜんぶ知っていたかのように。


「あなたは、悪くないですよ」と、女将は静かに言った。「そんなに自分を責めなくても。……つらい相手と離れる。それは、正しい判断です。あなたは、正しいことをしたんです」


その言葉が、真尋のいちばん聞きたかった言葉だった。


胸の奥のしこりが、すっと溶けていくようだった。ずっと、誰かにそう言ってほしかった。あなたは間違っていない、と。あの決断は、しかたなかったのだ、と。真尋は思わず、涙ぐんだ。もう少しで、この、あたたかい場所に、何もかもあずけてしまいそうだった。


そのとき、沼田がふいに、箸を置いた。


「……妙だな」と、沼田が低い声で言った。「この宿。人がいなさすぎる」


真尋は、はっとした。


言われてみれば、おかしかった。あんなにあたたかそうな光が灯っているのに、この宿には、女将のほかに誰もいなかった。物音ひとつしない。まるで、この女将と、料理と、やさしい言葉だけが、真尋たちのために用意された、書き割りのようだった。


「……真尋さん」と、それまで黙っていたハチが、めずらしく低い声で言った。「気をつけたほうがいい。この女将、あんたの聞きたいことしか、言ってない」


真尋は、ハチを見た。


「おれには、分かるんだ」と、ハチは目を伏せて言った。「だって、おれも、そうやってきたから。人の聞きたい言葉だけを選んで、差し出して。そうやって、離れられなくするんだ。……こいつは、おれと同じ手を使ってる。しかも、おれよりずっと、上手だ」


そのハチの声が、ふだんの軽さを失っていた。自分の犯してきたことを鏡で見せられた者の、声だった。


真尋は、女将を見た。


女将は、まだにこにこと笑っていた。けれど、その笑顔がさっきから、少しも変わっていないことに、真尋はいま気づいた。まばたきひとつせずに。同じ角度で、同じ形で。まるで、そう、書き割りのように。


「立って。逃げるよ」と、沼田が言った。


真尋たちは、立ち上がろうとした。けれど。


出口が、どこにもなかった。


さっきまで入ってきたはずの、戸が。窓が。どこにも見あたらない。ただ、あたたかい光と、湯気と、女将の笑顔だけが、四方を囲んでいる。


「あら、もうお帰りですか」と、女将が言った。声だけは、やさしいまま。「まだ、ゆっくりもしていかれないのに。……せっかく、あなたの聞きたい言葉を、ぜんぶ用意してあげたのに」


女将の顔が、ぐにゃりと崩れた。


その下から現れたのは、あの白骨精の空っぽの顔と同じ、のっぺりとした何かだった。いや、それとはまた別の、もっと大きくて、もっと底の見えない、何か。この世界の暗がりには、こんなものが、いくらでも潜んでいるのだ。旅人の疲れと傷を、待ちかまえて。


外では、リュウがしきりに、ヘッドライトを点滅させていた。中の異変に気づいて、必死に何かを伝えようとするように。けれど、声を持たないリュウには、それ以上のことはできなかった。


真尋には分かった。ここは、はじめから罠だったのだ。疲れ果てた旅人を、やさしい光で誘い込んで。いちばん聞きたい言葉で油断させて。そして、逃がさない。


真尋は、その場に立ちつくした。


悟がいたら。


その考えが、真尋の頭を貫いた。悟がいたら、この宿を一目見た瞬間に言ったはずだ。よせ、と。ここは〔偽〕だ、と。あの、いまいましいほどまっすぐな目で。あの目を、真尋はこわいと思った。うとましいとさえ思った。けれど、その目が、いまは、どうしようもなく恋しかった。


けれど、悟はもういない。真尋が追い出した。


自分は、人を疑いたくない、と言った。だまされてもいい、と。……そうだ。だまされても、よかった。自分だけなら。けれど、いま、真尋のせいで、ハチも沼田も、この罠の中に囚われている。真尋の、そのきれいごとのために。


疑わないこと。それは、やさしさだと思っていた。けれど、見抜く者を失ったやさしさは、ただ無防備なだけの扉だった。獲物を招き入れる、扉。やさしさと、確かさ。そのどちらか一つでは、足りないのだ。真尋はいま、身をもって、それを思い知っていた。


「……ごめん」と、真尋は二人に言った。「わたしの、せいだ」


「謝ってる暇はないぞ」と、沼田が言った。あの偽物の、迫ってくる気配の中で。「あんた、あいつを呼び戻せるか」


「え」


「あの、悟ってやつだ」と、沼田が言った。「あいつを追い出したのは、あんただ。だったら、呼び戻せるのも、あんただけだろう」


真尋の手の中で、あの輪が、かすかに熱を持った。


そうだ。この輪は、悟を止めるためのもの。けれど、もしかしたら、この輪を通して、もう一度あの人に呼びかけることが、できるかもしれない。悟を縛る鎖は、裏を返せば、悟と真尋を、細い糸でつないでもいる。


真尋は、輪を両手で包んだ。目を閉じる。


戻ってきて。お願い。……あなたが正しかった。わたしが間違っていた。あんなひどいことを言って、ごめんなさい。だから、どうか、もう一度だけ。


その声にならない声が、夜の闇のどこかへ、消えていったあの人のもとへ、届くかどうかは分からなかった。


それでも、真尋は祈るように、その名を呼びつづけた。


悟。悟。……お願い。戻ってきて。


その祈りが、どこまで届いたのか。真尋には分からなかった。ただ、握りしめた輪が、さっきよりも、ほんの少しだけ、熱くなった気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ