第十章 やさしい場所
悟が去ってから、車の中はずっと静かだった。
誰も口をきかなかった。ハチさえ、めずらしく黙り込んでいる。沼田はいつものように、窓の外を見ていた。真尋は膝の上で、あの輪を握りしめたまま、動けなかった。
いつも憎まれ口をたたいていた声が、隣にない。それだけで、車の中がこんなに広く、こんなに寒く感じられるとは、真尋は思ってもみなかった。悟のいた席は、ただ、からっぽだった。
自分が何をしたのか。考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
悟は三度とも正しかった。それを、この目で見た。それなのに、自分はあの人を追い払ってしまった。正しかった、たった一人の仲間を。
でも、と真尋は思う。今さら、どうすればいいのか。あんなにひどいことを言って追い出しておいて、どんな顔をして、戻ってきてなんて言えるだろう。輪を握る手に、力がこもった。
車はあてもなく、夜の道を走っていた。リュウだけが変わらず、静かにみんなを運んでいる。
やがて、道の先に、明かりが見えた。
暗い道の途中に、その建物はぽつんと建っていた。小さな宿のようだった。窓から、あたたかそうな光がこぼれている。看板には、旅の方どうぞお休みください、と書いてあった。
こんな時間に、こんな場所に。真尋は一瞬、ためらった。仕事柄なら、まず疑ってかかるところだ。
けれど、疲れていた。心も体も。そして何より、あのあたたかそうな光が、いまの真尋にはたまらなく恋しかった。ひどく傷ついた夜には、その傷につけ込むように、やさしいものが、いちばん甘く見える。
「……少し、休みましょう」と、真尋は言った。
中に入ると、年配の女将が、にこやかに迎えてくれた。
「まあ、こんな夜遅くに。さぞお疲れでしょう」と、女将は言った。「さあ、あたたかいものでも召し上がって。何も心配いりませんよ」
その声は、やさしかった。真尋のこわばっていた心が、少しずつほどけていく。
食卓には、湯気の立つ料理が並んでいた。女将は、真尋たちの話を、根気よく聞いてくれた。真尋がぽつりぽつりとこぼす言葉に、いちいち、深くうなずいて。まるで、真尋の心の中を、はじめからぜんぶ知っていたかのように。
「あなたは、悪くないですよ」と、女将は静かに言った。「そんなに自分を責めなくても。……つらい相手と離れる。それは、正しい判断です。あなたは、正しいことをしたんです」
その言葉が、真尋のいちばん聞きたかった言葉だった。
胸の奥のしこりが、すっと溶けていくようだった。ずっと、誰かにそう言ってほしかった。あなたは間違っていない、と。あの決断は、しかたなかったのだ、と。真尋は思わず、涙ぐんだ。もう少しで、この、あたたかい場所に、何もかもあずけてしまいそうだった。
そのとき、沼田がふいに、箸を置いた。
「……妙だな」と、沼田が低い声で言った。「この宿。人がいなさすぎる」
真尋は、はっとした。
言われてみれば、おかしかった。あんなにあたたかそうな光が灯っているのに、この宿には、女将のほかに誰もいなかった。物音ひとつしない。まるで、この女将と、料理と、やさしい言葉だけが、真尋たちのために用意された、書き割りのようだった。
「……真尋さん」と、それまで黙っていたハチが、めずらしく低い声で言った。「気をつけたほうがいい。この女将、あんたの聞きたいことしか、言ってない」
真尋は、ハチを見た。
「おれには、分かるんだ」と、ハチは目を伏せて言った。「だって、おれも、そうやってきたから。人の聞きたい言葉だけを選んで、差し出して。そうやって、離れられなくするんだ。……こいつは、おれと同じ手を使ってる。しかも、おれよりずっと、上手だ」
そのハチの声が、ふだんの軽さを失っていた。自分の犯してきたことを鏡で見せられた者の、声だった。
真尋は、女将を見た。
女将は、まだにこにこと笑っていた。けれど、その笑顔がさっきから、少しも変わっていないことに、真尋はいま気づいた。まばたきひとつせずに。同じ角度で、同じ形で。まるで、そう、書き割りのように。
「立って。逃げるよ」と、沼田が言った。
真尋たちは、立ち上がろうとした。けれど。
出口が、どこにもなかった。
さっきまで入ってきたはずの、戸が。窓が。どこにも見あたらない。ただ、あたたかい光と、湯気と、女将の笑顔だけが、四方を囲んでいる。
「あら、もうお帰りですか」と、女将が言った。声だけは、やさしいまま。「まだ、ゆっくりもしていかれないのに。……せっかく、あなたの聞きたい言葉を、ぜんぶ用意してあげたのに」
女将の顔が、ぐにゃりと崩れた。
その下から現れたのは、あの白骨精の空っぽの顔と同じ、のっぺりとした何かだった。いや、それとはまた別の、もっと大きくて、もっと底の見えない、何か。この世界の暗がりには、こんなものが、いくらでも潜んでいるのだ。旅人の疲れと傷を、待ちかまえて。
外では、リュウがしきりに、ヘッドライトを点滅させていた。中の異変に気づいて、必死に何かを伝えようとするように。けれど、声を持たないリュウには、それ以上のことはできなかった。
真尋には分かった。ここは、はじめから罠だったのだ。疲れ果てた旅人を、やさしい光で誘い込んで。いちばん聞きたい言葉で油断させて。そして、逃がさない。
真尋は、その場に立ちつくした。
悟がいたら。
その考えが、真尋の頭を貫いた。悟がいたら、この宿を一目見た瞬間に言ったはずだ。よせ、と。ここは〔偽〕だ、と。あの、いまいましいほどまっすぐな目で。あの目を、真尋はこわいと思った。うとましいとさえ思った。けれど、その目が、いまは、どうしようもなく恋しかった。
けれど、悟はもういない。真尋が追い出した。
自分は、人を疑いたくない、と言った。だまされてもいい、と。……そうだ。だまされても、よかった。自分だけなら。けれど、いま、真尋のせいで、ハチも沼田も、この罠の中に囚われている。真尋の、そのきれいごとのために。
疑わないこと。それは、やさしさだと思っていた。けれど、見抜く者を失ったやさしさは、ただ無防備なだけの扉だった。獲物を招き入れる、扉。やさしさと、確かさ。そのどちらか一つでは、足りないのだ。真尋はいま、身をもって、それを思い知っていた。
「……ごめん」と、真尋は二人に言った。「わたしの、せいだ」
「謝ってる暇はないぞ」と、沼田が言った。あの偽物の、迫ってくる気配の中で。「あんた、あいつを呼び戻せるか」
「え」
「あの、悟ってやつだ」と、沼田が言った。「あいつを追い出したのは、あんただ。だったら、呼び戻せるのも、あんただけだろう」
真尋の手の中で、あの輪が、かすかに熱を持った。
そうだ。この輪は、悟を止めるためのもの。けれど、もしかしたら、この輪を通して、もう一度あの人に呼びかけることが、できるかもしれない。悟を縛る鎖は、裏を返せば、悟と真尋を、細い糸でつないでもいる。
真尋は、輪を両手で包んだ。目を閉じる。
戻ってきて。お願い。……あなたが正しかった。わたしが間違っていた。あんなひどいことを言って、ごめんなさい。だから、どうか、もう一度だけ。
その声にならない声が、夜の闇のどこかへ、消えていったあの人のもとへ、届くかどうかは分からなかった。
それでも、真尋は祈るように、その名を呼びつづけた。
悟。悟。……お願い。戻ってきて。
その祈りが、どこまで届いたのか。真尋には分からなかった。ただ、握りしめた輪が、さっきよりも、ほんの少しだけ、熱くなった気がした。




