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無字 ―― 何もかも偽れる世界で、本物を探した  作者: 智珠
第二部

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第九章 正しい人

その日の夕方、一行がある小さな町の外れで車を止めたとき、道の先に、一人の男が立っていた。


年老いた、痩せた男だった。杖をつき、足を引きずりながら、こちらへ近づいてくる。その手には、二枚の写真が握られていた。真尋には、見なくても分かってしまった。一枚は、あの若い女。もう一枚は、昨日の老女だ。


「もし、あなたがた」と、男はかすれた声で言った。「妻と娘を、見ませんでしたか。二人とも、この数日でいなくなってしまって。……わたしはもう、どこを探せばいいのか」


男は、その場にくずおれた。


「娘がいなくなって。妻が探しに出て。……そうしたら、妻まで帰ってこない。わたし一人が、こうして残されて」


男は、片方の写真を胸に押し当てた。


「この子は、来月、二十歳になるんです。……それまでに、どうか、無事でいてくれたら」


真尋の胸が、引き裂かれた。二十歳の誕生日。そんなささやかな願いさえ、この家族からは奪われようとしている。そして、その奪った側に、自分が立っている。


一つの家族が、目の前でこわれていく。娘。母。そして、この老いた父。その三人ぜんぶを追い払ったのは、人ではない、と切り捨てたのは、すぐ後ろに立つ悟だった。


真尋の中で、何かが限界に近づいていた。


        *


悟には、もちろん見えていた。


老いた男の杖。〔偽〕 二枚の写真。〔偽〕 くずおれたその背中。〔偽〕 三度目だった。同じものが、今度は父親の顔で戻ってきた。


悟は、静かに確信していた。こいつはもう、獲物のことなど、どうでもいいのだ。狙いは、はじめからただ一つ。真尋の心を、おれから完全に引きはがすこと。


そして、それはほとんど、成功しかけていた。


悟には、真尋の背中が見えた。震えている。あの家族の悲しみに、心を丸ごと持っていかれている。もし、ここでこの三度目の偽物を放っておけば、真尋は、この偽りの父親を助けようとするだろう。そうすれば、こいつは、真尋のいちばん深いところまで、するりと入り込む。そして、根こそぎ奪っていく。真尋の信じる心を。真尋という人を。


止めなければ、ならなかった。


悟には、分かっていた。ここで前に出れば、たぶん終わりだ。真尋との短い旅は、ここで終わる。それでも、と悟は思った。真尋が、真尋でなくなるくらいなら、おれが消えたほうがましだ。


悟は、一歩、前に出た。あの老いた男のほうへ。


「よせ」と、悟は言った。「そいつも〔偽〕だ。三度目だぞ、真尋。目を覚ませ」


そのとき、悟は、真尋の手がポケットの中で、あの輪を握りしめるのを見た。


        *


「そいつも〔偽〕だ」


その言葉を聞いた瞬間、真尋の目の前が、真っ赤になった。


もう、たくさんだった。


娘も。母も。そして、この泣いている老いた父も。ぜんぶ偽物だと、この男は言う。人の悲しみを、〔偽〕の二文字で片づけて。そして、また、あの冷たい手で、この人を追い払おうとしている。


真尋は、ポケットから、あの輪を取り出していた。


「それ以上、近づかないで」と、真尋は言った。声が震えていた。けれど、その手はまっすぐ、悟に向けられていた。


悟の足が、止まった。


「……真尋」


「あなたは、正しいのかもしれない」と、真尋は言った。涙があふれてきた。「あなたの目は、正しいんでしょう。この人たちは、本当に偽物なのかもしれない。……でも」


でも。


「わたしにはもう、無理なの。あなたと一緒には、いられない」


その言葉は、自分でも驚くほど、はっきりと口から出た。


「あなたといると、わたしは、目の前で泣いている人を、まず疑うようになる。人の涙を見るたびに、これは本物か、偽物か、って。……そんなのは、わたしがいちばん、なりたくなかった人間なの」


真尋は、輪を握る手に、力を込めた。


「わたしは、だまされてもいいの」と、真尋は言った。「だまされて、傷ついても、いい。……でも、人をはじめから信じない人間には、なりたくない。あなたといたら、わたしはきっと、そうなる」


「行って」と、真尋は言った。「お願いだから、行って。もう、わたしたちの前に、現れないで」


背後で、ハチが何か言いかけた。おい、待てよ、そんな。けれど、その先は続かなかった。いつも場を丸くするハチでさえ、この真尋の声の前では、言葉を失っていた。沼田は何も言わなかった。ただ、去ろうとする悟の背中を、じっと見つめていた。その目に、真尋には読み取れない、暗くて、覚えのある色が浮かんでいた。まるで、前にもこうして誰かが去るのを見送ったことがある、というように。


        *


輪が、光った。


悟の体の中を、あの封じられた鎖が、ぎりぎりと締めつけてくる。真尋の意志が、その輪を通して、悟に届いていた。行け。二度と来るな。


痛みは、あった。けれど、悟をいちばん貫いたのは、その痛みではなかった。


真尋の目だった。


涙でぬれたその目が、世界を壊しかけた化けものを見る目では、なくなっていた。ただ、こわいものを。おそろしいものを。自分のいちばん大事なものをこわしにくる、何かを見る目になっていた。


悟には、逃げることもできた。この程度の輪なら、本気を出せば、いつでもふりほどける。けれど、悟はそうしなかった。


見抜けること。それだけが、おれの取り柄だった。そして、その取り柄が、この人をこんな目にさせている。だったら、おれがいなくなるのが、いちばんいい。


悟は、抵抗をやめた。そして、ゆっくりと背を向けた。


「……分かったよ」と、悟は言った。振り返らずに。「君の言うとおりだ。おれは、行く」


一歩、また一歩と、悟は夕暮れの道を歩いていった。うしろで、真尋が泣いているのが分かった。それでも、悟は振り返らなかった。振り返れば、きっと動けなくなるからだった。


悟の頭の中では、まだ判定が走りつづけていた。道の石。〔本物〕 沈む夕日。〔本物〕 頬をなでる風。〔本物〕 何もかもが、はっきりと本物だと分かる。それなのに、いま自分の胸を締めつけている、この痛みだけは。これまで、ずっと〔不明〕のままだった。


おかしなものだ、と悟はまた思った。


世界じゅうの嘘を見抜けるのに、たった一人、この人にだけは、本物を信じてもらえなかった。……ずっと、探していた。自分の心が、本物かどうか。いま、はじめて分かった気がした。こんなに苦しいのだから。この気持ちは、たぶん、本物だ。


その、生まれてはじめての確かな気持ちを、悟は誰にも告げないまま、一人、暗くなる道を遠ざかっていった。


        *


悟の姿が、道の向こうに消えたころ。


真尋のすぐそばで、あの老いた男が、すっと立ち上がった。


その顔から、悲しみが消えていた。杖も写真も、いつのまにかなくなっている。のっぺりとした空っぽの顔が、満足そうに真尋を見た。そして、笑った。


真尋は、凍りついた。


それは、三度見た、あの偽物の顔だった。今度こそ、疑いようがなかった。悟は正しかった。三度とも、ぜんぶ正しかった。


偽物は、もう真尋に用はないというように、ゆっくりと背を向けて消えていった。あとには、誰もいなかった。娘も、母も、父も。そして、悟も。


真尋は、その場にへたり込んだ。


自分がいま、何をしたのか。正しかった、たった一人の仲間を、自分の手で追い払ってしまった。あの偽物の、思うとおりに。


悟の、最後の言葉が、耳に残っていた。君の言うとおりだ。あんなに静かに、あんなにあっさりと、抵抗ひとつせずに。いま、真尋には分かった。あの輪で悟を止められたのは、悟が止まってくれたからだ。あの人は、はじめから、真尋の手をふりほどこうとさえ、しなかった。


夕闇が、道を包んでいく。真尋の手のなかの輪だけが、まだ、かすかに光っていた。

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