第八章 さがす顔
その夜、一行は街道沿いの古いモーテルに泊まった。
真尋は、なかなか眠れなかった。目を閉じると、あの消えた女の冷たい手がよみがえってくる。あれは本当に偽物だったのか。何度そう思おうとしても、胸の奥のしこりは消えてくれなかった。
翌朝、一行がまた車に乗り込もうとしたとき、駐車場の隅に、一人の年老いた女が立っていた。
腰の曲がった、小さな女だった。手に一枚の写真を握りしめている。道ゆく人にその写真を見せては、何かたずねてまわっていた。真尋たちに気づくと、すがるように近づいてきた。
「あの、すみません」と、老女は言った。声が震えていた。「この子を見ませんでしたか。……うちの娘なんです」
老女が差し出した写真を見て、真尋は息が止まった。
そこに写っていたのは、昨日のあの女だった。
「三日前から、帰ってこないんです」と、老女は言った。ぼろぼろと涙をこぼしながら。「連れの男に置いていかれたと、電話があったきり。……この近くで見かけた人がいるって。それで、いても立ってもいられなくて」
「あの子は、昔から優しすぎる子で」と、老女は続けた。「困っている人を見ると、放っておけないんです。……それで、悪い男にだまされて。わたしがもっと、しっかりしていれば」
真尋は、何も言えなかった。その言葉が、そっくり自分に返ってくるようだった。優しすぎて、困っている人を放っておけない。それは、真尋自身のことでもあった。
真尋の頭が、真っ白になった。
昨日、この人の娘は、たしかにここにいた。助けを求めて、真尋の手を握って。そして、真尋が何もできないうちに、悟があの子を追い払った。人ではない、と言って。あの子は、暗がりへ消えていった。
もし、あれが本当に人だったら。
真尋の手が、震えはじめた。自分は、この目の前の母親から、娘を奪う手伝いをしてしまったのではないか。
「よせ、真尋」
うしろで、悟のあの声がした。
「そいつも〔偽〕だ。昨日のと同じものだよ」
真尋は、その言葉を聞きたくなかった。
*
悟には、また見えていた。
老女の曲がった腰。〔偽〕 握りしめた写真。〔偽〕 こぼれる涙。〔偽〕 昨日と寸分変わらなかった。同じものが、今度は年老いた母親の顔をかぶっている。
悟は、はじめ、ただあきれていた。同じ手か、と。けれど、その顔をもう一度よく見て、悟は背筋が冷たくなった。
こいつは、ただ獲物を探しているんじゃない。
昨日、悟がこの偽物を暴いたとき、真尋の心は、明らかに悟から離れた。そして、こいつはそれを見ていた。だから今度は、母親の顔で戻ってきた。真尋のいちばん柔らかいところ――昨日助けられなかった、というあの罪の意識を、狙って。
こいつの本当の狙いは、真尋だ。
いや、正確には、真尋の手のなかにある、あの輪だ。真尋が悟を信じられなくなれば、いつか真尋は、あの輪を悟から外すかもしれない。あるいは、悟を置いていくかもしれない。そうなれば、この一行を守るものはいなくなる。偽物を見抜けるものが、いなくなる。
こいつは、それを狙っている。おれと真尋のあいだにくさびを打ち込むために、わざと、いちばんむごい顔を選んでいる。
悟は、迷った。
ここでまた暴けば、真尋はいよいよ、おれを許さないだろう。娘を奪ったうえに、その母親まで、と。だが、暴かなければ、この偽物は、真尋をのみ込んでいく。
どちらを選んでも、悟は真尋を失う。
おかしなものだ、と悟は思った。世界じゅうの何もかもを偽と本物に選り分けられる。それなのに、たった一人、この女に信じてもらうことだけが、どうしても思うようにいかない。
悟には、分かっていた。真尋が、自分にとって、どういう意味を持ちはじめているのか。あの、答えの出ない一点。判定の埋めつくせない、ただ一つの空白。その真尋にこわがられ、憎まれていくのは、悟がこれまで味わったどんなことよりも、こたえた。
それでも、悟はまた、同じことを選んだ。守るほうを。たとえ、その結果、真尋にいちばん憎まれるとしても。
「そいつも〔偽〕だ」と、悟は言った。「昨日のと同じものだよ」
*
「昨日のと同じもの」
その言葉に、真尋のなかで、何かが切れた。
「やめて」と、真尋は言った。自分でも驚くほど、低い声だった。「もう、やめて」
「真尋」
「この人が偽物だって、言うの」と、真尋は悟をにらんだ。「娘をなくして、こんなに泣いている、この人が。あなたには、これも〔偽〕の二文字にしか見えないの」
悟は、答えなかった。ただ、いつものように静かに、老女のほうへ足を踏み出した。
真尋は、とっさに、その前に立ちふさがっていた。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。ただ、体が勝手に動いていた。この泣いている老女を、この冷たい目をした男から守らなければ、と。
「どいてくれ、真尋」と、悟は言った。「そいつは、君のその優しさにつけ込んでいるんだ」
「優しさにつけ込む」と、真尋は繰り返した。「……ねえ。もし、あなたが間違っていたら。もし、この人が本当に、ただの母親だったら。あなたは、どうやって償うつもりなの」
悟は、口をつぐんだ。
その一瞬の沈黙が、真尋には、答えのように思えた。
このとき、はじめて、真尋は上着のポケットの、あの輪に手を伸ばしていた。世界を壊しかけたものを止めるための、輪に。けれど、いま真尋が止めたいと思っているのは、世界を壊したものではなく、目の前の泣いている人に、平気で刃を向けようとする、この――
そのとき。
老女の顔が、変わった。
昨日と同じだった。悲しみの奥から、のっぺりとした空っぽの何かが、真尋を見た。老女だったものは、真尋の伸ばしかけた手をちらりと見て、そして、笑ったように見えた。それから、するりと、朝の人ごみの中へまぎれて、消えた。
真尋は、その場に立ちつくした。
また、だ。また、悟が正しかった。あれは人ではなかった。それは、この目で見た。分かっている。
分かっているのに。
真尋の伸ばしかけた手は、まだ、あの輪の上にあった。自分はいま、悟にそれを使おうとした。正しかった悟に。仲間のはずの悟に。
たった二日前、真尋はこの悟をこわがっていた。世界を壊しかけた化けものだと。それが今は、その化けもののほうが正しくて、自分のほうがまちがっているのかもしれない。それでも、心がどうしても、悟を受け入れてくれない。頭と心が、これほどちがう方を向いたことは、今までなかった。
真尋は、その手をそっと引っこめた。指先が、冷たく震えていた。
車のそばで、ハチと沼田が、黙ってこちらを見ていた。
「……まあ、ほら」と、ハチがめずらしく、ぎこちなく言った。「終わったことじゃないか。誰もけがはしてない。な、そうだろ」
いつもの、場を丸くするハチの言葉だった。けれど今日ばかりは、それが誰の胸にも届かなかった。沼田は何も言わず、ただ、真尋の震える手のあたりを、じっと見ていた。底を見つづけてきたあの男の目が、何を思っているのか、真尋には分からなかった。
「……真尋」と、悟が静かに言った。
「何も言わないで」と、真尋はさえぎった。「今は、お願いだから、何も」
悟は、それきり黙った。
車に戻る道で、真尋は、一度も悟の顔を見なかった。あの空っぽの顔よりも。あの偽物の、笑ったような顔よりも。真尋にはもう、悟のあのまっすぐな目のほうが、こわかった。そして、そんなふうに思ってしまう自分自身が、いちばん、こわかった。
もう、分からなかった。この悟というものが、わたしたちを守っているのか。それとも、いつか、わたしたちのいちばん大事なものまで、〔偽〕の一言で切り捨ててしまうのか。
その日、車はいつもより、ずっと静かに西へ走った。誰も口をきかなかった。ハチさえも。ただリュウだけが、いつもと変わらず、みんなを静かに運んでいった。




