第七章 やさしい顔
西へ向かう道の途中、小さな休憩所で、一行は車を止めた。
日が傾きかけていた。自動販売機が一つと、古いベンチがあるだけの、さびれた場所だった。ハチは車の中で、あいかわらず何かしゃべっている。沼田は、黙って窓の外を見ていた。真尋がこわばった体をほぐそうと外に出たとき、そのベンチに、一人の若い女がいた。
女はうずくまるように座って、震えていた。真尋に気づくと、はっと顔を上げた。泣きはらした目をしていた。
「……あの」と、女はかすれた声で言った。「助けてください。……お願いします」
真尋は、思わず足を止めた。
聞けば、こういうことだった。連れの男に置き去りにされたのだという。財布も荷物も、何もかも持っていかれた。もう二日、何も食べていない。家には、小さな妹が一人で待っている。早く帰りたいのに、帰る手立てもない。女は途切れ途切れに、そう話した。話しながら、また涙をこぼした。ときどき言葉に詰まっては、恥ずかしそうに目もとをぬぐった。
真尋の胸が、締めつけられた。
真尋には分かった。この女の怯えも、疲れも、みんな本物だった。作りものの涙ではない。人が本当に困り果てて、見ず知らずの相手に頭を下げるときの、あのいたたまれない顔だった。真尋は、仕事柄、人の嘘を何百と見てきた。だからこそ分かる。これは、嘘の顔ではない。
ふしぎなことだった。真尋は、世界じゅうの誰よりも、人を疑う仕事をしている。何もかもを、まず偽物だと思ってかかる。それなのに、目の前で、生身の人がこうして助けを求めているとき。それを疑うことだけは、どうしてもできなかった。困っている人を見て見ぬふりをするくらいなら、だまされたほうが、まだましだった。
「大丈夫ですか」と、真尋は、その冷えた手を取った。「もう大丈夫。……何か、食べるものを」
そのとき、うしろで、悟の声がした。
「よせ」
真尋は振り返った。悟がまっすぐに、その女を見ていた。あの、何もかもを見抜く目で。氷のように冷たい目だった。
「そいつは、人じゃない」
*
悟には、はじめから見えていた。
その女がベンチに座った、そのときから。判定は、一目で立ち上がっていた。
〔偽〕
女の涙。〔偽〕 震える指。〔偽〕 すがるような、その声。〔偽〕 何もかもが作りものだった。人の形をして、人の悲しみをそっくりにまねている。けれど、その一つ一つに、悟には継ぎ目が見えた。涙の落ちる速さが、ほんの少しそろいすぎている。怯える息づかいの、間の取り方が、計ったように正確すぎる。目のうるみ方も、頬の赤らみ方も、どこかで見た、いちばん人の心を打つ悲しみを、そのまま写し取ったようだった。人の悲しみには、もっとむらがある。もっとみっともなく、乱れている。この女の悲しみは、うますぎた。うますぎて、本物にはなりきれていなかった。
悟は、この手のものを知っていた。
人の顔をいくつも身にまとうもの。困っている人の、いちばんやさしい顔をまねて、近づいてくる。そうやって人の情けにつけ込んで、その人の持っているものを、根こそぎ奪っていく。名前も、暮らしも、心も。……悟の、仲間のようなものだった。本物になれずに、他人の本物を奪って生きる、あわれなものたち。こういうものは、たいてい、もう自分の本当の顔を忘れている。人の顔ばかりかぶりつづけて。だから奪うのだ。奪えば、少しは本物になれる気がして。
だから、悟には分かってしまう。分かってしまった。
問題は、そこから先だった。
悟が目を上げると、真尋が、その偽物の手を握っていた。あたたかい目をして。心の底から、そのありもしない悲しみを信じきった目で。
まずい、と悟は思った。
ここで自分が、この偽物を暴けば。真尋の目には、どう映る。困り果てた一人の女を、いきなり化けもの呼ばわりする、冷たい男。……いや、それどころか、もし暴くために手荒なことをすれば。真尋には、罪もない人を傷つけたように見えるだろう。
悟は、ふと、あの日、自分が言った言葉を思い出した。いつか、君のほうからこれを外したくなる。あれは、脅しのつもりだった。けれど、いま、悟には分かってしまった。こういうことの、積み重ねなのだ。自分が正しければ正しいほど、真尋の心は、自分から離れていく。見抜くこと。それしかできない自分は、たぶん、この先もずっと、真尋にこわがられつづける。
見抜けること。それが、悟のたった一つの取り柄だった。けれど、いま、その取り柄が、真尋の心を、自分から遠ざけようとしている。取り柄が、そのまま呪いだった。
それでも、悟は口を開いた。放っておけば、この偽物は、真尋から何もかも奪っていく。たとえ嫌われても、守るほうを選んだ。
「よせ」と、悟は言った。
*
「そいつは、人じゃない」
悟の言葉に、真尋は耳を疑った。
目の前には、震えながら泣いている、若い女がいる。その手は、氷のように冷たい。この怯えを、この涙を、人じゃない、と悟は言うのか。
「何を言っているの」と、真尋は言った。声がとがった。「この人は、困っているの。見れば分かるでしょう」
「見れば分かる、か」と、悟は静かに言った。「君の目には、そう見える。……でも、おれの目には、はじめから〔偽〕と書いてある」
「あなたの目」と、真尋は言った。胸の中で、何かがざわついた。「あなたの目は、そんなに正しいの。人の涙を偽物だと、言い切れるほど」
悟は、答えなかった。ただ、女のほうへ、一歩近づいた。
その瞬間、女の顔が変わった。
ほんの一瞬だった。すがるような、やさしい顔の奥から、まったく別の何かが、こちらを見た。真尋の背に、氷が走った。それは、人の顔ではなかった。悲しみも、怯えも、その下には何もなかった。ただ、のっぺりと空っぽの、何か。まるで、たくさんの顔を次々に貼り重ねた、その、いちばん下に、もう何も残っていないような。
女だったものが、すっと立ち上がった。そして、逃げるように、休憩所の暗がりへ消えていった。あとには、何も残らなかった。冷たかったはずの、その手の感触さえ、まるではじめからなかったかのように。
真尋は、立ちつくしていた。
いま見たものは、何だったのか。あれは本当に、偽物だったのか。悟の言うとおり、人ではない、何かだったのか。頭では、そう思おうとした。悟の目は、正しかった。あの最後の顔は、たしかに人のものではなかった。
それでも。
真尋の手には、まだ、あの冷たい手の感触が残っていた。その震えが。すがる力の強さが。あれがぜんぶ嘘だったなんて、真尋にはどうしても、そうは思えなかった。もし、あれが嘘なら。人の悲しみが、あんなにそっくりに作れてしまうのなら。これから真尋は、目の前で泣いている人を見て、いったいどうやって、手を差し伸べればいいのだろう。まず疑ってからでないと、優しくもできない。そんな世界は、真尋には、あまりに寒々しかった。
「……次からは」と、悟が静かに言った。「おれの言うことを、信じてくれ。あいつは、ああやって、人のいちばんやわらかいところにつけ込んでくる。君みたいにやさしい人間から、先にやられる」
真尋は、答えなかった。
悟は、正しかった。それは分かっている。分かっているのに。真尋の胸には、悟のあの氷のような目のほうが、あの震える手よりも、ずっとこわいものとして残っていた。
見抜くことしかできない人。人の涙を、一目で偽と切り捨てられる人。そういう人を、自分はどこまで信じていいのだろう。そして、もし、この人の言うことをぜんぶ信じてしまったら。自分はいつか、誰の涙も信じられない人間に、なってしまうのではないか。
日が暮れていく。真尋は、まだ、あの消えた暗がりを見ていた。手のひらに残る冷たさが、いつまでも消えなかった。




